日本、あれやこれや その67

平成21年11月

 1日 牧野伸顕 「吾々は政府訓令の下に(国際)連盟をして人種平等の主義を認めさせるべく行動したのだ」
牧野伸顕『回顧録』)第一次世界大戦後の「かたち」をさだめるパリ講和会議の国際連盟委員会。
大正8(1919)年だった。
日本代表団の全権、牧野伸顕は、冒頭の覚悟を胸に、人種差別の撤廃と平等を連盟規約に盛り込むよう訴えた。
 2日

事前の折衝で、米英両国は若干の修正を施したうえで賛成を伝えていた。しかし、豪州は拒否した。自国労働者を保護するために移民制限を行っているうえ、選挙が秋に予定されていたからだ…。『回顧録』はそんな裏話を伝えている。いざ委員会がはじまると豪州と同じ問題を抱える米国豪州の宗主国だった

英国は反対に転じた。のちに日本側は「各国の平等とその国民に対する公正な待遇を是認」などとする一文を連盟規約の前文に盛り込む−という折衷案を提出した。採決の結果、17カ国中、11カ国が賛成した。しかし、委員長のウィルソン米大統領は「こういう問題は全会一致を要する」と宣告し、不成立に終わる。
 3日

「国際連盟の前途のために憂う。機会あるごとに必ずこの問題は持ち出す」。牧野は総会でそう演説した。

閉会後、英首相のロイド=ジョージがやってきた。彼は牧野の手を握り、言った。「私は日本の態度に敬服する」

 4日 新島襄 「金銭問題を気にする必要はありません。男らしさと献身が本物であれば、金は付いてきます」(新島襄から内村鑑三へ)。新島襄は、明治前期のキリスト教プロテスタント系の教育者。幕末に米国に密航し、大学教育を受けて帰国、明治8(1875)年に同志社英学校(のちの同志社大学)を創立した。 ジャーナリストの草分けで、明治、大正、昭和の3代にわたる言論界の大御所、徳富蘇峰も新島の教え子だ。また、新島は時代を代表する宗教者、内村鑑三とも交友があった。冒頭の一文は米国留学中、思想と進路に迷う内村を激励する手紙のなかにある。
 5日

岩波文庫『新島襄の手紙』によると、新島は東京に勝海舟を訪ね、キリスト教教育への協力を要請した。「で、お前さんは理想とする教育をいったい何年で成就させるつもりだい?」。そう勝が尋ねたところ、新島は「およそ200年です」。

勝もさるもの「なら賛成してやろう」と応じたというが、そのはるかな理想は明治21年、新島が発起人となり、蘇峰が執筆した『同志社大学設立の()()』の一文にもみえる。
 6日

「一国を維持するのは決して二、三の英雄の力ではない。教育や智識、品行ある人民の力によるものである。

これら一国の良心ともいうべき人々を養成する。これが私の目的である」(現代語訳)
 7日 森鴎外 「芸術は高慢が筆の行止りで死するまで修養勉強してこそ一代に冠たるに至る」(森鴎外)大正11(1922)年の初頭、最晩年にあった文豪、森鴎外が後進たちに飛ばした檄である。 この一文は「帝国美術院長 文学博士・医学博士」の肩書で寄稿した『新進作家に対する苦言』のなかにおさめられている。
 8日

鴎外は幕末の文久2(1862)年、小藩だが、進取の気性があった津和野藩(現在の島根県南西部)の藩医・森家の長男として生まれている。その彼が、明治の末に発表した作品のなかに『普請中』(「工事中」の意)という興味深い小編がある。

初期の悲恋物語『舞姫』。その主人公、太田豊太郎と薄幸の少女、エリスに外見の印象は重なるが、冷めた筆致で描かれた性格は非常に異なる2人−日本人官吏の「渡辺」と欧州からロシアでの巡業を経て来日したドイツ人歌姫−が『普請中』に登場する。
 9日 渡辺と、褐色の大きな瞳を持つこの歌姫は改築中の「精養軒ホテル」で再会する。
彼はそこで、日本が国として発展途上であることにかけて、言う。
「日本はまだ普請中だ」偶然の一致ではあろう。それからおよそ100年、いまの日本は「行止り」ではないにせよ、再び「普請中」である。
10日 内村鑑三 「吾は日本のため 日本は世界のため 世界はキリストのため そしてすべては神のために」(内村鑑三)。
「祖国こそは、高遠な目的と高貴な野心とをもって世界と人類とのために存在する神聖な実在である」。

3年半の米国留学生活で到達した結論である。内村鑑三の心には常に2つのJ−Jesus(イエス)とJapan(日本)があった。彼は生涯をかけて、この2つを両立させようとし、それゆえ、孤高の、いばらの道を歩むことになる。 

11日 彼の「戦争論」を例にとりたい。日清戦争(1894〜95年)が起こったとき、彼は「実に義戦なり」とする英文の評論を発表した。が、10年後の日露戦争時には非戦論者となる。 なぜなら巨額の国費が一日で消える戦争というものは「国家の大患難」であり「国家に最も忠実なる者は戦争を勧める者ではなくして之を引止むる者」と信じたからだった。
12日 だが、内村は戦場に行くことを忌避しない。「戦争も多くの非戦主義者の無惨なる戦死を以てのみ(つい)に廃止することの出来る」(『非戦主義者の戦死』)。彼の「非戦論」には殉国の志がある−といえばいいすぎだろうか。

「願わくは花のもとにて春死なん」が愛誦(あいしょう)歌だった内村は昭和5(1930)年、東京で死去した。冒頭は生前作成の墓碑銘(原文は英文)である。 

13日 福沢諭吉 「立国のあらん限り、遠く思えば人類のあらん限り、数理と独立のほかによるところなし」(福沢諭吉)故人の遺志によって香典や生花、造花の類はいっさい辞退した。 会葬者は約1万5000人。「行列中喫煙もしくは高声の談話等をなす者なく、いとも静粛に終始衷(哀)悼の意を表し居たり」。
14日 近代を代表する啓蒙思想家で慶応義塾の創始者、福沢諭吉は明治34(1901)年死去した。享年66。彼が創刊した時事新報は5日後に営まれた葬儀のようすを右のように伝えている。冒頭の一文は晩年に完成し、 「自伝文学の白眉」とされる『福翁自伝』にある。文中の「独立」の意味は、福沢の別の名著『学問のすゝめ』にいう「みずから物事の理非を弁別し、処置を誤ることなく、私立の活計をなす」ことだ。
15日 『学問のすゝめ』には「一身独立して一国独立する」とも記されている。なぜなら、「道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべき」だからだ。

興味深いことに、福沢にとって「独立」とは「私立」と同義であった。『学問のすゝめ』にはこんな一文もある。
文明の事を行う者は私立の人民にして、その文明を護する者は政府なり」

16日 新渡戸稲造  読み継がれる『武士道』、 明治以降、日本人の書いたものの中で欧米人に最も読まれ感銘を与えた書物は、新渡戸稲造の『武士道』である。 明治33(1900)年、英文で書かれ、欧米で大反響を呼び、欧州各国語にも翻訳された世界的名著であり今なお読み継がれている。
17日

本書を著すきっかけはドイツ留学中、敬慕する一教授から「日本の学校は宗教教育は何を授けるのか」と尋ねられたことによる。宗教など一切教えていないと答えたとき、驚いた教授は「では倫理道徳はどう教えるのか」と迫った。「別に教えていません」と言うと教授は「

道徳教科なしに国民を指導する。どうして善悪の区別を覚えるのだろう」とつぶやき絶句した。ここから新渡戸は考えた。自分らは学校で宗教・道徳教育を受けてこなかったが欧米人より道徳的にすぐれているのはなぜか。明治の時代、武士道がなお脈々として伝えられ生きていたからであった。
18日 わが国は武士道があればこそ明治維新を成就し日清・日露戦争に勝利し、有色民族中、唯一独立を守り抜き欧米に劣らぬ国となり得た。武士道の精神が外国人をも感銘せしめる普遍的な道徳的価値を有していることは 台湾の李登輝元総統が「人類最高の指導理念」とまで高く評価していることからも明らかである。日本人の国民性を形成する根源となった武士道の精神を今こそ取り戻さなければならない。
19日 与謝野鉄幹 「妻をめとらば才たけて 顔うるはしくなさけある」(与謝野鉄幹 どこかで耳にした方も多かろう。『人(友)を恋ふる歌』は友をもとめば書を読んで 六分(八分)の侠気四分の熱と続く。
20日 われは火ぞみづから立つる火の柱 なかに焼かれて死なむと願ふという和歌もある。炎のような激情と気概、そして行動の人が与謝野鉄幹だった。明治27年、鉄幹は「現代の非丈夫(ますらお)的和歌を罵る」の副題を持つ評論『亡国の音』で歌壇主流の守旧派排撃ののろしを上げ東京新詩社を設立、 一世を風靡した浪漫派文芸誌『明星』を発行した。「新派(詩歌の革新運動)の歌と称してゐるものは誰が興して誰が育てたものであるか。(この)(とい)(おれ)だと答へることの出来る人は与謝野君を()けて外にはない」。文豪、森鴎外の鉄幹評である。
21日 鉄幹門下からは人材が輩出した。のちに妻となる(ほう)晶子や石川啄木高村光太郎北原白秋…。彼らが時代を代表する作品を次々と発表する一方で鉄幹はその後半生、詩歌人としては忘れられていった。 昭和10(1935)年、鉄幹は62歳で死去する。その四半世紀前、彼はすでにうたっている。わが雛(ひな)はみな鳥となり飛び去んぬ うつろの籠(かご)のさびしきかなや
22日 西郷隆盛 (おのれ)を愛す、(これ)()からぬこと第一なり。事の成らざるも修業の出来ぬも皆、己を愛するより生ず。聖人は決して己を愛せぬものなり」西郷隆盛 盟友・大久保利通長州藩を覚醒させた吉田松陰に先立つこと3年、「少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。
23日 もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」という名人物評を残した坂本龍馬の出生よりも8年早い。
文政10(1827)年、維新の英傑、
西郷隆盛は鹿児島城下の下級武士の長男として産声(うぶごえ)をあげたのだが、その西郷は、50年ほどの短い人生のなかで、もう一度生まれている。
24日 安政5(1858)年11月、幕府の政治弾圧「安政の大獄」を逃れた勤皇僧・月照が鹿児島入りした。しかし、藩は受け入れを拒否、月照の同志である西郷に実行を命じる。絶望した西郷と月照は鹿児島湾に身を投げる。結果、月照は亡くなったが、西郷は奇跡的に息を吹き返す。西郷は終生、死にぞこねたことを恥じた。

「私はまるで土中の死骨」。蘇生からひと月後、そう記している。しかし死生を一つとし冒頭のことばのように己を捨てる彼の思想が生まれた背景には、この経験が大きな役割を果たしていたに違いない。利己が幅をきかす現代にこそ貴重な彼のことばはお伝えしたいことが山ほどある。 

25日 幸田文 「父は、おや? といふやうな顔をして、それからすてきにおこつた」(幸田文)『みそつかす』)「父」とは第1回文化勲章受章者で『五重塔』の作者、幸田露伴。『みそつかす』はその次女、文の“自伝”である。幼い文は子供らしい焼きもちから、何ごとに つけ聡明で父のお気に入りだった姉、歌(11歳で死去)を「()()に違ひないけれど秀才型のこまつちやくれみたやうだ」と言ってしまう。そのときの露伴の反応を描いたのが冒頭の一文だ。
26日 下々(げげ)()(しょう)うつるべからずと、ぎゆうといふ目にあはされた。(中略)お父さんはよくも私をぶんなぐらなかつたものだ。いや、永久に棒をくらはせてゐるのかも知れない。 下愚(げぐ)の性うつるべからず、はとき現れて私をごつんとやる」と『みそつかす』は続く。後々にまで心に「ごつん」とくるしかり方。それが「すてきにおこる」なのである。
27日 文は平成2年死去した。『流れる』『おとうと』などの小説からエッセーまで多くの名作を残しているが、作家・文を生んだ父、露伴との対話から最後にもう一つ、引用しておきたい。 「お前(文)は一人で苦しみをしょっているような顔をしているけれど、とんでもないことだ。親も周りのものも、お前の苦しみの半かたを受持っているのだ」(『このごろ思うこと』)
28日 夏目漱石 義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます」(夏目漱石)、明治維新の前年(1867年)生まれる。 吾輩は猫である』や『坊つちやん』『三四郎』『こゝろ』など、国民的名作は数多くあるが、『漱石文明論集』(岩波文庫)から、彼が後世に残した日本人観の一端を紹介。
29日

冒頭は晩年近くの講演『私の個人主義』の一節。「義務心」とは、「自分の自由を愛するとともに他(ひと)の自由を尊敬」し、権力を乱用したり、金の力で社会を腐敗させたりしないこと、そして目指すのは「人格のある立派な人間」だ。

漱石にははじめ「日本は真に目が醒ねばだめだ」(明治34年3月の日記)という危機感があった。ために維新後の日本は「やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行く」ような「不自然な発展」(『現代日本の開化』)だ−と警告するのだが、後年、こうも語っている。
30日 「西洋は偉い偉いと言わなくても、もう少しインデペンデント(自主的、独立的)になって西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーション(模倣)を

そうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。
(中略)その他においても決して追っ着かないものはない」(『模倣と独立』)