日本、あれやこれや その43

平成19年11月度

1日 伊藤博文
言わずと知れた日本の初代内閣総理大臣である。明治初期から韓国併合を反対した人物である。伊藤は韓国人の安重根に暗殺されている。日本の中学校の教科書に、 韓国の英雄として安重根が大きく登場しているのに伊藤博文のことが記述されていないとは日本最大の不幸の一つであり、軽蔑すべき文部省、教科書会社、日教組である。
2日 訪欧による憲法学修得 伊藤は、ヨーロッパでシュタイン博士に師事し、じつくりと憲法学を学んだ。明治18年には奈良朝時代からの太政官制度 を廃止し、内閣制度を制定した。三条実朝太政大臣を退かせ伊藤が総理大臣となり最高決定機関を創り上げた。
3日 伊藤博文の考え方 それは、君民共(くんみんきょう)()、の考え方であった。そして、滔々たる西洋化の嵐に抗して、いかに日本のアイデンティティを確保するかに苦心したのである。

日本は忘れてはならぬ総理であるが上述の通りで実に嘆かわしい戦後の日本人である。共和制でもない、君主制でもない、立憲政体であるが、日本独自の「君民共治」を意図するものである。 

4日 憲法制定会議 伊藤は、憲法制定会議で欧州と日本での宗教の違いを述べて、次のように発言している。「我が国にありて機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。これを以てこの憲法草案においては、専ら君権を尊重してなるべくこれを束縛せざらんことを勉めたり。或いは、君権は甚だ強大なる時は、濫用(らんよう)(おそれ)なきにしもあらずというものあり。 一応、其の理無きに非ずと言えども、もし果してこれある時は、宰相その責に任ずべし。・・即ち、この草案においては、君権を機軸とし、ひとえにこれを毀損せざらんことを期し、あえて彼の欧州の主権分割の精神に拠らず、もとより欧州数カ国の制度において、君権民権共同するその()()にせり。これを起案の大綱とす」。
5日 教育勅語は憲法の補完 これは憲法を補完するもので、日本人の道徳基準としての具体的な指針を示すものであった。私がしばしば引用する、あの佐々木高行がこう書いている。 「日本にては、固有の神道を基礎とし、これを助くるにまた孔孟の道を以てし、いずれも人々真面目になる様にせぬ時は、人々随意わがまま、すべて人間の努めはなくなるべし」、日本特有の精神確保に努め後世に(つな)げようとしたものであろう。
6日 大変革期の明治人 岩倉使節団のことを度々引用したが、いかにも明治の人は偉かった。勇気がある、劣等感が見られない、毅然としている。卑屈でない、堂々としている。 現代日本人に比べて遥かに立派な明治人。とりわけ今日の「へなちょこ政治家」、各界リーダを散見すると反吐(へど)がでる思いである。
7日 修羅場を越えた人間 安倍内閣の最後の農林大臣の赤城、私はあの祖父の立派な思い出があり、あの孫ならと期待していた。
初めての記者会見での、「あの風貌、風采、顔付」には最初から失望落胆した。この顔付では大したことはできまいと。

案の定、顔に貼り付ける絆創膏一つが、あのテイタラクであった。あれを見て相当数の票が減ったに違いない。顔付に総てが現われる。三代目は、肥ったブタであった。まあ、共産党の志位書記長も労働者の味方の思えない程、金満家のような顔付になっているが。 

8日 米欧回覧実記 明治維新の歴史的意味について、久米邦武は次のように述べている。「明治中興の政は、古今未曾有の変革にして、その大要は三に帰す」と。

将門の権を収めて、天皇の親裁に復す、一なり。各藩の分治を併せて、一統の政治となす、二なり。鎖国の政を改め開国の規模を定む、三なり。 

9日 古今未曾有の大改革 明治維新は、700年続いた武家政治を廃して天皇政治にしたのだが、各地が夫々バラバラの半ば独立した藩政治であった。維新は、これを一つの国家に統一することであり、また同時に鎖国していた日本を広く世界に開き放つことである。 一つでも歴史的大改革なのに併せてやるのだから古今未曾有のものであった。それは最早や、人為ではなく天為であった。世界の気運の変化、つまり時勢のしからしむものであった。
10日 福沢諭吉 元気溌剌たる人物である。だが当時の為政者の飛び切りの奮発ぶり、とりわけ廃藩置県の断行には余程驚いたらしい。それに触発されて諭吉は「学問の進め」、「文明論の概略」を書いたと「福翁自伝」に書いている。「幕府時代に私の著した西洋事情なんぞ、出版の時の考えには、天下にコンナものを読む人があるかないかそれも分からず、例え読んだからとて、 これを日本の実際に試みるなんて、もとより思いも寄らぬ、一口に申せば西洋の小説夢物語の戯作くらいに自ら認めていたものが世間に流行して実際に役立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類ではない。一段も二段も進んで思い切ったことを断行してアベコベに著述者を驚かすほどのことも折々見えるから、そこで私もまた以前の大願成就に安んじていられない。
11日 元気のみなもとは 第一に、「日本が危ない」という危機意識であった。2000年来、一度も侵されていない独立が脅かされている。それをなんとかしなくてはいけない。その為には命を張って働こうという気概であった。それがあの時代の元気の素であった。 それは、幕末以来、或いは「攘夷」であり、あるいは、尊皇であったが、共通するところは、独立であった。国家の危機に際して、日本中の志ある者が一つの合言葉の下に結集したのである。それに比して現在日本人は何たるザマか。危機意識すら無い。
12日 命を賭ける 当時の国を思う人々は、ピーンと張り詰めた空気の中にいたのである。「寄らば斬るぞ」という殺気ではないか。 「命を懸ける」それが当時の指導的人物の元気の源である。あの薩摩藩は、七つの海を支配する大英帝国と戦ったのである。その元気の良さあったらばこそ大革新が成功したのである。
13日 元気のエッセンスは 命を懸けた使命感、一言で言えば、「サムライ精神」であり、「武士の魂」であろう。

「名でもない、利でもない」、「自ら正しいと思う志のために命を懸けることであり、道義を第一と考える思想」なのである。 

14日 命懸け 当時は、なにをやるにも命懸けであった。気に入らねば容赦なく斬り捨てる乱暴者があちこちにいた時代である。責任の取り方も当然に命懸けであった。 間違えば切腹は当たり前。だから真剣勝負で仕事に立向かう、だから大胆なこととも成功する。現代の政治家は爪の垢を煎じて飲め。
15日 サムライ精神 それは日本人が長い間、育んできた徳目である。新渡戸稲造はアメリカで自らのバックボーンとなっていたものは何かと自問して「武士道」を書

いた。
岩倉使節団より30年後の明治32年出版だから武士道精神が尚生きていたのである。
 

16日 武士道の序には こう書かれている。新渡戸がベルギーの大学教授の頃、宗教の話題が出て「あなたの国の学校では宗教教育は無いと仰るのですか」と詰問された。新渡戸が「ありません」と答えると、教授は驚い て繰返し反問したのである。新渡戸はとっさの質問にまごつき即答できなかったのである。その後その事が忘れられず自問し続け、漸く、自分が学んできた道徳は武士道であると気がついたのだ。
17日 著書「武士道の冒頭」 新渡戸の妻、メリー・エルキントンに説明すべく著作したといわれる。その冒頭には下記のようにある。「それ武士道は、今尚我々の間における力と美との生ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ我々をして今なおその力強は支配のもとに

あるを自覚せしめる。
それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。然し、昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光は、その母たる制度の死したる後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。」
 

18日 武士道的な社会的取り決め サムライは金銭を卑しんだ。士農工商として商を最下位に置き、金銭にまつわることはサムライと最も遠いとこに置いたのである。新渡戸はモンテスキューを引用し、武士道的な社会的取り決め の智恵について次のように述べている。
貴族を商業より遠ざくることは、権力者の手へ富の集積を予防するものとして賞賛すべき社会政策である」と。
19日

サムライは精神的貴族

権力と富の分離は、富の分配を公平ならしむる。そしてローマ帝国衰亡の一因は、貴族の商業に従事するを許し、その結果として少数元老の家族による富と権力の独占が生じたことにある。

サムライは、あくまで精神的貴族であり、貧しさを寧ろ誇りとする君子であった。
生甲斐は「義を為すにあり」その為に死することこそ本望と考えられたのである。

20日 武士道の骨子とは何か 仁であり、義であり、勇であり、礼であり、信であります。仁とは慈愛であり、義とは正しきこと であり、勇とは義をなすことであり、礼とは思いやりであり、信とは誠である。
21日 使節団の矜持の源泉 使節団一行が仰ぎ見るような西洋文明の隆盛ぶりを目の当たりにしながら、なお劣等感に打ちひしがれることが無かった。

その秘密は物質や金銭に元々、武士はそれほどの価値観を置かなかったからである。現在の公務員・政治家は眼を覚ませ。 

22日 英米蘭などは町人国家なり 英国、アメリカ、オランダは町人国家なり。と云う時、道義国家としての日本の矜持が窺われるのである。道義に於いては日本は欧米より進んでいるとの自負・自信を持っていたのである。どのよう物質的繁栄を謳歌して

いようが、町人的発想の国に卑屈になる必要は毛頭無かったのである。精神文明に於いて、確かに日本は当時、明白に優位にあったのだ。欧米人が日本社会と日本人を高く評価したのは、疑いなくその点に大きな理由があったからである。 

23日 岩倉使節団の意義

使節団の旅は、米欧12ヶ国、100を越える街や村を回覧している。そして政治、経済、軍事、外交、産業、貿易、宗教、教育、生活、風俗とまさにエンサイクロペディア的に彼らの文明を克明に観察してきている。

しかも帰路には、中東アジア諸国の港に寄り、欧州諸国やロシアを裏からも観察しているのだ。アメリカ大陸の未開の大地から開始し、ニューヨーク、ロンドン、パリと発展段階をたっぷりと時間をかけた。
24日 岩倉使節団の意義2 またブラッセル、アムステルダム、ベルリン、サンクトペテルブルグと階段をゆっくりと降りるようにして見学している。

そして、亡国ポーランドの荒涼たる大地を見、ゴールや上海の人々の生活を見たとき、比較文明の大研修を終わったのである。 

25日 実記

「実記」にこう叙述している。「すべて全1年9ヶ月21日の星霜にて、米欧両州著名の都邑(とゆう)は大半回歴を経たり」と。

自信に満ちた文である。歴史的大旅行を終えた感慨が溢れている。全五巻の大著をものした過程で再三にわたり旅を反芻している。
26日 使節団の結語的名文 「大使の各国に歴聘(れきへい)する、締交(ていこう)の責任を官に負い、採風(さいふう)の義務を民に尽くさんと、日々鞅掌(おうしょう)(忙しく)寧処(ねいしょ)する(いとま)あらず(落ち着く暇なく)、寒暑を(おか)し、遠爾(えんじ)を究め、僻郷遐域(へきごうかいき)跋渉(ばっしょう)し、野には農牧を訪い、

都には工芸を覧し、市に貿易の情を察し暇あれば名人達士に交わる、もとより操觚(そうこ)の士、雲水の客か、意の適するに任せ漫遊し、耳目(じもく)を快くするに異なり・・・」
大名旅行ではない、西洋では使節団は国民の代表であり、到る所で大歓迎をされている。使節団は、常に日本国の看板を背負ってそれに応えたのであった。
 

27日 大奮闘の使節団 「故に、汽車その都に達し僅に(きゅう)をホテルに(ゆる)むれば、回覧即ち始まる。昼は輪響?吼(りんきょうきこう)の際、鉄臭(てっしゅう)(ばい)()の間(はし)(えん)(あい)満身(まんしん)にて(体中(すす)だらけ)(めい) に及び(ほう)に帰れば、衣を振るうに(いとま)あらず、宴会の期(すで)に至る」
英国旅行中、接待の英国人が体調を崩し、これから使節団はまだ十数カ国を旅行するというが、果して帰りつける人が幾人あろうかと心配される程の行程行事であった。一人として落伍することなく無事に帰国している。
28日 久米邦武の総括 「天の(いつくしみ)により一行みな健康を全うし復命の後、今にしてこの編を見れば、日に()(けん)異聞(いぶん)を以て、絶域(ぜついき)回歴(かいれき)し、間に(こう)(じつ)あるは、(かえり)(こん)(こう)懐手(かいしゅ) の想いをなす、昔日(せきじつ)の勤労は、(すで)黄梁(こうりょう)一夢(いちむ)を隔て、当時の艱苦は、脳中に(あと)を消したるが如し、この際の感慨は、ただ遠遊(えんゆう)を経たるものにして、始めて諒知(りょうち)すべし」
29日 和漢洋の教養 言うなれば、比較文明の実地大研修により、久米を初め一行の面々は、地球上のあるゆることが総ては相対的であり、各地域に住む人々が時間的空間的な制約の中に生きており、歴史的、風土的なある条件の中で生活し

ているのだと言うことを強く認識したのだ。
そして彼ら使節団の持つ、和漢洋の教養による、三点測量ともいうべき観察と分析により初めて、世界に於ける日本の置かれている場所が見えたのである。
 

30日 聡明なる明治人 久米は言う「(もと)より人為(じんい)の法に、完全なるものあるべからず、人民に伸べば、政府に縮む、自由に切なれば、法度(はっと)に漫なる、一得一失(いっとくいっしつ)、理の自然なり」

欧米諸国の「共和と自由」についても、その利点を認めながらも同時にその欠点をも洞察していたのである。