徳永圀典の「日本歴史」その21 
平成19年11月

1日 小村寿太郎の意見書 小村寿太郎は当時の外務省幹部でイギリスと結ぶ親英政策派であった。小村は、日露条約締結の問題点を述べている。
「@一時的には東洋の平和を維持できるであろうが、ロシアの侵略主義は到底これに満足しないから、長期的な保障とはならない。

Aシベリアは将来は別として、現状では経済的利益は小さい。
B最近、清国人は、上下とも日本に対して友好的な感情を持ってきているが、ロシアと結ぶと清国人の感情を害して清国に於ける日本の利益を損ずることになる。

C英国の海軍力に対抗しなければならなくなる。」。
伊藤博文の親露主義は間違いであった。
2日 日英条約の利点 小村寿太郎はその利点として
@「ロシアな於ける英国の目的は、領土拡張でなく、現状維持と通商利益であり、英国と結べばロシアの野心を制して比較的長く東洋の平和を維持できる。
A従って、日英条約は平和的、防衛的なものとして、国際世論からも支持される。
B英国と結ぶと清国は益々日本を信頼するようになり平和の利益を増進する。
3日 日英条約の利点2 C韓国問題を解決するためには、他の強国と結んでロシアがやむをえず日本の言うことを聞くようにするほかない。英国は同盟を結ぶのに最も適当な国である。
D英国と結べば日本の経済についての国際的信用を高める。また英国人は同盟国の共通利益ということで日本に財政上経済上の便宜を図るだろう。
E大英帝国とシベリアでは、日本にとっての通商上の価値は比較にならない。
Fロシアの海軍力は、英国の海軍力よりも対抗するのが容易である。」見事な分析である。
4日 日露開戦 ロシアは大国であり、日本の十倍の国家予算と軍事力を保有していた。満州にはロシア兵が増強され、朝鮮半島北部に軍事基地を建設した。 これを黙視すればロシアの極東に於ける軍事力は日本に到底、太刀打ち出来ぬようになることは明々白々であった。政府は手遅れになることを恐れロシアとの戦争を始める決意を固めた。
5日 英米の支持画策 明治37年、1904年、日本は英米の支持を受けロシアとの戦いの火ぶたを切った。日露戦争である。 戦場となったのは朝鮮と満州であった。1905年、日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領、奉天会戦に勝利した。
6日 日本海海戦 ロシアは劣勢を跳ね返すため、バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊はアフリカ南端を迂回しインド洋を横断、八ヶ月かけて日本海にやってきた。 東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、兵員の高い士気と巧みな戦術でバルチック艦隊を全滅させ世界会戦史に残る驚異的な勝利をおさめたのである。
7日 国家予算八年分の戦費 日露戦争の費用は外国からの借金と国債で賄ったが海戦に勝利した時には既に国家予算の八年分に当る軍事費は使い切っ ていた。
戦争が長期戦になればロシアとの国力の差が表面化し形勢が逆転するのは明白であった。
8日 講和仲介依頼 アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトは日本に最も有利なタイミングを選んで日露間の講和を仲介した。 アメリカのポーツマスで講和会議を開き、明治38年、1905年の九月、ポーツマス条約が締結された。
9日 ポーツマス条約 この条約により、日本は韓国(朝鮮半島)の支配権をロシアに認めさせ、中国の遼東半島南部の租借権を取得し南満州にロシアが建設した鉄道の権益を譲り受け且つ南樺太の領有を確認ささせた。 一方、賠償金を得ることは出来なかったので戦争を継続しようにも国力の限界に達しておる事情を知らぬ一部国民は、これを不満として暴動を起した。日比谷焼き討ち事件である。
10日 世界を変えた日本の勝利 日露戦争は日本の生存を賭けた壮大な国民戦争であった。日本はこれに勝利して自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれ変わって間もない有色人種の日本が、当時世界最大の陸軍大国である白人帝国ロシアに 勝利したことは世界中の抑圧された民族に独立への限りない希望を与えることとなった。だが一方では、黄色人種が将来、白人種を脅かすことを警戒する黄禍論が欧米に広がる契機ともなった。
11日 アジアの諸民族の目覚め 「日本がロシアに勝利した結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに到った」とは中国革命の父・孫文の言葉である。

「もし日本が、もっと強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドが成し得ないと言えるだろう」、これはインド独立運動家で後のネルー首相の発言である。 

12日 アジアの諸民族の目覚め2 「立憲制によってこそ、日本は偉大になった。その結果、かくも強き敵に打ち勝つことが出来たのだ」とはイランの詩人、シーラーズイー。 「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である」エジプト民族運動指導者・ムスタファー・かミール」
13日 陸奥宗光 安政5年、1858年、日本が欧米諸国と締結した通商条約は、外国の治外法権、領事裁判権を認め、関税自主権を持たない実に不平等な条約であった。
これは明治政府の悲願と
して、粘り強く外国と交渉し同時に日本の近代化政策を進めてきた。漸く明治27年、1894年、外務大臣・陸奥宗光によりイギリスを初め諸外国と領事裁判権の撤廃と関税率改正に成功した。
14日 陸奥宗光 2 陸奥は、和歌山藩士の子、成長して坂本竜馬の海援隊に入り、維新後は優秀な官僚として活躍した。然し、薩摩・長州出身者が有力な地位を占める新政府への反発から、西南戦争が起きるとこれに加担する陰謀に加わり、国事犯(反乱罪など政治上の罪)として逮捕されて 五年の牢獄生活をしている。出獄後、ヨーロッパに留学し帰国して伊藤博文の勧めで外務省に入った。駐米公使として日本にとり最初の対等条約であるメキシコとの条約の調印に成功、後に農商務大臣となる。政府に入りそれを内側から変えようと考えていたのである。
15日 陸奥宗光 3

陸奥はその後、自らの政治信条により農商務大臣を辞任した。然し、陸奥は、第二次伊藤博文内閣に外務大臣として迎えられて条約改正に取り組んだ。当時、議会では、それまで居留地にいた外国人に日本全国での自由な活動を認めねばならず、その結果、日本の経済が彼らにより支配されるのではないかと恐れ条約改正に反対する意見も強力であった。

陸奥は外国人に完全に国を開くことが維新以来の大方針であると説得し条約改正に成功した。改正後、陸奥は日清戦争の勝利に貢献しその外交体験を「蹇蹇録(けんけんろく)」に記した。そこには日本外交の貴重な知恵と経験が示されている。蹇蹇(けんけん)とは困難に負けず忠義を尽くす意味。
16日 小村寿太郎 日本が治外法権の撤廃だけでなく、関税自主権も完全に回復したのは明治44年、1911年2月、小村寿太郎外務大臣の下に於いてである。

これにより遂に日本は念願の国際法上で欧米諸国と完全に対等な国家となったのである。それまでは植民地並みの収奪構造下にいたのである。 

17日 小村寿太郎2 小村寿太郎は、日露戦争でのロシアとの講和会議で活躍した外務大臣でもある。小村は宮崎県の()()藩士の家に生まれた。維新後、文部省から派遣されてアメリカのハーバード大学に学び帰国して司法省を経て外務省に 入った。
寿太郎は父が残した巨額の借金のために家具も無い家に住み、夏冬一着の古ぼけたフロックコートだけで通し、昼食もお茶だけという生活を送った。薩摩・長州という藩閥のバックもない小村は出世も遅れた。
18日 小村寿太郎 3

然し、小村は挫けなかった。小村は陸奥と異なり政党政治には共感しなかったが、私心を持たずに国家に献身する点では誰にも負けないと自負していた。

その小村が頭角を現したのは、清国駐在公使として義和団事件の処理で列強と並ぶ日本の地位確保に成功したからである。
19日 小村寿太郎 4 その時の経験から、ロシアの満州進出の意図を読み取り、その後外務大臣になると、一貫してロシアへ強硬な立場をとった。 ポーツマス講和会議では、講和の内容が民衆の期待に反することを知っていたが、講和をまとめて帰国し、国内の激しい非難に黙って耐えたのである。
20日 近代産業の発展 明治初年より政府は殖産興業に努めた。官営事業の多くは成功しなかつたが西洋産業の模範を示す絶好の役割を果たした。 1880年代に入ると、政府は日本銀行を設立して金融制度を整え、官営工場を払い下げ経済発展を民間に手に委ねた。
21日 紡績業

長い間、農業の副業であった紡績業では機械を備えた工場で大量の綿糸が生産されるようになった。生産高は明治19年から10年程の間に十数倍に増加し主要な輸出品となる。
生糸も機械で生産される

ようになりフランスなど外国の製糸業を圧倒し主にアメリカに輸出された。織物業も発達し綿織物は重要輸出品となる。これらの軽工業産品の輸出により得た代金で綿花などの原料や軍艦、鉄鋼、機械などを輸入した。
22日 運輸交通の発展 産業発展を支えたのは近代的な交通網の拡充であった。明治22年には東海道線が全線開通、民間でも鉄道建設が盛んとなり、全国の鉄道網が完成していった。 幹線鉄道は明治39年に産業発展と軍事上の必要から国有化された。明治20年代から日本郵船会社などの海運会社も作られ外国航路へと進出した。また馬車などの通行が可能なように道路も整備されていった。
23日 重工業

紡績などの軽工業に比して遅れていた重工業だが、下関条約による賠償金が投資に回され1901年には官営の八幡製鉄所が開業して鉄鋼の国産化が始まった。

それに伴い、造船業も発展を遂げ、日露戦争後には一万トン以上の造船も可能となつたのである。こうして日本も産業革命を遅ればせながら完成させていったのである。
24日 財閥 産業革命の達成と共に、三井、三菱、住友などと同族で様々な事業を所有し専門経営者に経営させる財閥と呼ばれるグループが大きな影響力を保有するようになった。近代産業発展の背景には、江戸時代以来の民衆の高い教育水準や勤勉の精神があったのを忘れてはいけない。 現代中国民衆の欺瞞的経済形態と異なり、日本の民度は比較にならぬ高いものであり事後の成功要因が日本には存在していたのである。四民平等と自己努力により人生を切り開くという精神が盛んで幾多の有能な実業家が輩出したのである。
25日 都市と農村

地方都市や農村にも鉄道が通り、それまでの街道筋にとって代わり、駅周辺が新たに発展してゆく。近代産業の発展や交通網の整備で職業や事業の選択の幅が広がった。農村でも様々な副業がト

ライされ子女を製糸工場に出稼ぎに出したり、都市に移住して工場の労働者になる人々がいる一方で土地を集めて大地主となる人々もいて、土地を小作に貸しその収益を投資して産業を興したりした。
26日

農村の綿花生産は輸入品の流入で衰えたが、製糸業が輸出産業として発展した為、桑の栽培や養蚕が盛んとなった。米の生産も伸びたが、生活水準の向上で農村でも米食が普及した上に、日本全体の人口増加もあり米は不足がちになった。
東京など大都会ではガラ

スが普及し、ショーウインドーが並び、民家でもガラス障子を取り入れた。街角に時計台を設置したり、正確な時刻に合わせて生活する習慣が広がり工場などでも時間単位労働となる。都市は華美な生活風俗や商業・労働の機会が豊富で農村の人々を引きつけ急速に拡大していった。
27日 社会問題の発生 19世紀末になると、零細な露天商など都市の貧しい人々の劣悪な生活環境が注目されるようになり、工場労働者の低賃金、長時間労働が問題視されるようになった。 日清戦争後は、労働組合運動が始まり、幸徳秋水、片山潜らは社会主義の立場から社会民主党を結成した。政府は社会主義運動を厳しく取り締まり明治43年には天皇暗殺計画・大逆事件の幸徳秋水などを逮捕し翌年死刑にした。
28日 急速な近代発展の弊害

政府は工場法を制定し、労働者保護に努めたが充分でなかった。明治24年、足尾銅山の鉱毒問題が発生、解決に苦しんだ

田中正造は天皇に直訴しようとした。
急速な近代産業発展の陰に新たな難しい問題が生まれたのである。
29日 社会主義

労働者の権利を主張し、その生活改善を求める思想。その中で19世紀ドイツのマルクスは、革命により資本主義社会そのものを打倒して労働者が支配する新しい社会を建設すべきだと主張した。だがその思想は、1991年のソ連の崩壊に伴

い瓦解したと言える。中国共産主義は、実質資本主義である。今日、社会主義の説得力は無い。だが、アナクロニズムの勢力、共産党、民社党、一部民主党などにその勢力が潜んでおり、日本の建設的なものを妨害している。
30日 明治の文化 東京大学は明治10年、最初の総合大学として設立された。民間では慶応義塾、同志社、東京専門学校(早稲田の前身)なども設立され、多くの人材を輩出した。 明治の初期は、大学教育は外国人教師により行われ、ヨーロッパの近代的な学問が取り入れられた。それは西洋中心の歴史観、進化論を無批判に受け入れる処もあり今日の伝統廃棄の遠因となっている。