鳥取木鶏会 11月 徳永圀典編
始終訓
経営者に始終訓を提供する。
1.人の生涯、何事によらず、もうお終いと思う勿れ。
2.未だかって始らしき始めを持たざるを思うべし。
3.志業は、その行き詰まりを見せずして、一生を終わるを真の心得とせよ。
4.成功は、一分の霊感と九分の流汗に由る。
5.退屈は、死の予告と知るべし。
養寿規
一、
早起き、静坐、梅茶を服す。
二、
家人に対し、温言和容を失わず。
三、
養心の書を読み、養生の道を学ぶ。
四、
老荘の良友に交わり、内外の時勢に通ず。
五、
凡て宿滞を除き、陰徳を施す。
岫雲斎
岫雲斎とは還暦後から使用している愚生の雅号である。岫雲とは高山の中腹を出入りする雲のこと、私は登山を好む。斎戒沐浴、潔斎の「斎」は、ととのえるの意、祭祀にあたり起居や食事をととのえ、身を清め、心を戒める意があり、学問に相応しく好む字である。
周囲から乱されない斎
書斎の斎の字は、そういう意味を持っている。だから「ものいみ」を斎、即ち穢れを去って我々が誠になり、そこから発するところの神秘な力、霊の力に交わるということを「斎する」といいます。その斎が必要です。
それを書物にくっつけると、書斎ということになる。心にくっつけると心斎という。大阪の心斎橋を通ると、よい名前をつけた、誰が一体つけたのかと感心するのでありますが、我々は常に書斎・心斎・潔斎、その斎室・書斎が必要であります。 人間の生き方
座右の書
大事なことはだね、自分の傍らには、常に離せない書を持っていることだ。つまり座右の書である。これを何回でも読む、いや、読まないではいられない。そういう本を座右の書というのだが、これはあるいは読まなくとも、いつも自分の傍らにはある。これだけで心が休まる。これが人間には大事なことなんだね。
現代の売れっ子知識人にはこういった考え方は少なかろう。然し、それではいつかは破綻してしまう。そういった人を浮薄新進の徒というのだ。 安岡正篤先生動情記
打ち込む
これは不思議です。書物とこちらとに何か霊感が通ずるのか。そうでなければ、いくら探してもわからん・ここにあるじゃないかと言ってもわからん、というのが多い。処が本当に自分が研究すると、見つかるから不思議だ。人間の神秘の一つです。
人間同志でもそうであります。一所懸命に何かの研究に没頭して何か参考書がないか、こういうものがないかと思って本屋に入ると何千とも知れん本があっても直ぐ目につく。実にそれはおもしろい。例えば、陽明学なら陽明先生に関する書物がどんなに本が並んでいてもすぐ目につく。不思議なものであります。何事によらず打ち込んだ研究問題を持っておらんと漠然として、在るがごとく、無きがごとしだ。何も目につかん。だからやはり人間は、打ち込むというと非常に精神・意識が鋭敏になり神秘的になる。発明なんてことが行われるのです。身魂打ち込んで問題と取っ組んでおると、そういうものを掴むのであります。 王陽明
日本人の特徴分析
日本人は偉大なるものに帰依し、憧憬し、信仰する。大我的、没我的、あるいは宗教的な精神や感情が非常に発達している。信じやすく、恃みやすく、また非常に親しみやすい。そしてそういう偉大なるものに飛び込んでゆき、それに参じ、それを恃む精神、慣習が非常に発達しているから非常に没我的であり、大我的である。即ち理想主義的であると共に非常に没我的である。
その良い点を言えば、日本は確かに理想精神が発達している。理想を求め偉大なもの、高きもの、尊きものに憧れ、これに飛び込んでゆく。理想心、理想の情熱というものが確かに発達している。その点、非常に美しい。これが長い間、皇室を維持し、宗教、文化を生み来たった一番の原動力であります。
しかし、日本人は注意しないと単純になり、感傷的になり、ともすれば繊弱、線が細くなる。徹底して思索するというようなことがなくなり非常に浅薄となる。
教育は垂範
人間が禽獣ではなく、人間らしく生きる道が道徳なんです。そこで道徳というものは刑罰でもない、最も真実・自然なのだから、そこで道徳教育・生徒の道徳実習ということになってくると、どうしても指導者・師たる者が言論よりも方法よりも、強制よりも何よりも、自然に自らお手本になるということです。身を以て垂範する。だから教育の教という字は、これは効(ならう)、人間の則り効う所となるという字です。先生が生徒のお手本になるというのが教育です。