明治の元気の源泉は 

第一に、「日本が危ない」という危機意識であった。二千年来、一度も侵されていない独立が脅かされている。それをなんとかしなくてはいけない。その為には命を張って働こうという気概であった。それがあの時代の元気の素であった。

それは、幕末以来、或いは「攘夷」であり、あるいは、尊皇であったが、共通するところは、独立であった。

国家の危機に際して、日本中の志ある者が一つの合言葉の下に結集したのである。それに比して現在日本人は何たるザマか。危機意識すら無い。 

命を賭ける

当時の国を思う人々は、ピーンと張り詰めた空気の中にいたのである。「寄らば斬るぞ」という殺気ではないか。

「命を懸ける」それが当時の指導的人物の元気の源である。あの薩摩藩は、七つの海を支配する大英帝国と戦ったのだ。その元気の良さがあったらばこそ大革新が成功したのだ。

 

元気のエッセンスは

命を懸けた使命感、一言で言えば、「サムライ精神」であり、「武士の魂」であろう。

「名でもない、利でもない」、「自ら正しいと思う志のために命を懸けることであり、道義を第一と考える思想」なのである。

命懸け

当時は、なにをやるにも命懸けであった。気に入らねば容赦なく斬り捨てる乱暴者があちこちにいた時代である。責任の取り方も当然に命懸けであった。

間違えば切腹は当たり前。だから真剣勝負で仕事に立向かう、だから大胆なこととも成功する。現代の政治家は爪の垢を煎じて飲め。

 

サムライ精神

それは日本人が長い間、育んできた徳目である。新渡戸稲造は、アメリカで自らのバックボーンとなっていたものは何かと自問して「武士道」を書いた。岩倉使節団より30年後の明治32年出版だから武士道精神が尚生きていたのである。 

武士道の序には

こう書かれている。新渡戸がベルギーの大学教授の頃、宗教の話題が出て「あなたの国の学校では宗教教育は無いと仰るのですか」と詰問された。新渡戸が「ありません」と答えると、教授は驚いて、繰返し反問したのである。

新渡戸は、とっさの質問にまごつき即答できなかったのである。その後、その事が忘れられず自問し続け、漸く、自分が学んできた道徳は武士道であると気がついたのだ。

 

著書「武士道の冒頭」

その冒頭には下記のようにある。「それ武士道は、今尚我々の間における力と美との生ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強は支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。然し、昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光は、その母たる制度の死したる後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。」 

武士道の骨子とは何か

仁であり、義であり、勇であり、礼であり、信であります。仁とは慈愛であり、義とは正しきことであり、

勇とは義をなすことであり、礼とは思いやりであり、信とは誠である。

 

武士道的な社会的取り決め

サムライは金銭を卑しんだ。士農工商として商を最下位に置き、金銭にまつわることはサムライと最も遠いとこに置いたのである。新渡戸は、モンテスキューを引用し、武士道的な社会的取り決めの智恵について次のように述べている。

「貴族を商業より遠ざくることは、権力者の手へ富の集積を予防するものとして賞賛すべき社会政策である」と。 

サムライは精神的貴族

権力と富の分離は、富の分配を公平ならしむる。そしてローマ帝国衰亡の一因は、貴族の商業に従事するを許し、その結果として少数元老の家族による富と権力の独占が生じたことにある。

サムライは、あくまで精神的貴族であり、貧しさを寧ろ誇りとする君子であった。生甲斐は「義を為すにあり」その為に死することこそ本望と考えられたのである。 

矜持の源泉

岩倉使節団一行が、仰ぎ見るような西洋文明の隆盛ぶりを目の当たりにしながら、なお劣等感に打ちひしがれることが無かった。

その秘密は、物質や金銭に元々、武士はそれほどの価値観を置かなかったからである。現在の公務員・政治家は眼を覚ませ。 

英米蘭などは町人国家なり

英国、アメリカ、オランダは町人国家なり。と云う時、道義国家としての日本の矜持が窺われるのである。道義に於いては日本は欧米より進んでいるとの自負・自信を持っていたのである。

どのよう物質的繁栄を謳歌していようが、町人的発想の国に卑屈になる必要は毛頭無かったのである。精神文明に於いて、確かに日本は当時、明白に優位にあったのだ。欧米人が日本社会と日本人を高く評価したのは、疑いなくその点に大きな理由があったからである。

      徳永日本学研究所 代表 徳永圀典