安岡正篤先 「経世と人間学」 その十

平成21年12月

 1日 敵もなく我もなしといふ 勝軒(しょうけん)之を聞きて何をか敵なく我なしという。

猫云う、我あるが故に敵あり。我なければ敵なし。

 2日 敵といふはもと対峙(たいじ)の名なり。陰陽水火の類のごとし。 凡そ物形(しょう)あるものは必ず對するものあり。我が心に(しょう)なければ對するものなし。
 3日

對するものなき時は(あらそ)ふものなし。

(これ)を敵もなく我もなしといふ。
 4日 心と象と共に忘れ 心と象と共に忘れて、(たん)(ぜん)として無事なる時は和して一なり。 敵の形をやぶるといへども我も知らず。
 5日

知らざるにあらず。
此に念なく、感のままに動くのみ此心潭(このこころたん)(ぜん)として無事なる時は世界は我が世界なり。是非好悪執滞(ぜひこうあくじゅうたい)なきの謂なり。

として無事なる時は世界は我が世界なり。
是非好悪執滞(ぜひこうあくじゅうたい)なきの謂なり。
 6日

皆我が心より苦楽得失の境界を為す。

天地広しと雖も心の外に求むべきものなし。
 7日

古人(こじん)曰く、(がん)裏有塵三界窄(りちりあらばさんがいせまし)心頭無事一牀(しんとうぶじならばいっしょう)(かんなり)

眼中わづかに塵沙(じんさ)の入る時は、眼開くこと能はず。 
 8日

元来物なくして明かなる所へ物を入るるが故にかくの如し。

此の心のたとへなり。
 9日

また曰く、千万人と敵の中にあって此形は微塵になるとも、此心は我が物なり。

大敵なりといへども(これ)を如何ともする能はず。
10日

孔子曰く匹夫(ひっぷ)(その)(こころざし)を奪うべからずと。

()し迷ふ時は、(この)(こころ)却って敵の(たすけ)となる。
11日

我がいふ所(ここ)止る(とどま)。只自反(じはん)して我に求むべし。 

師は其事を伝へ其理を(さと)すのみ。
12日

(しん)を得ることは我にあり、これを自得(じとく)といふ。

以心伝心(いしんでんしん)ともいふべし。教外(きょうげ)別伝(べつでん)ともいふべし。
13日

教えに背くといふにあらず。師も伝ふること能はざるをいふなり。
只禅にみにあらず。

聖人の心法(しんぽう)より芸術の末に至るまで自得(じとく)の処は皆以心伝心なり、教外別伝なり。
14日

悟とは妄想の夢のさめたるなり

(おしえ)といふは(その)(おのれ)にあって自ら見ること能はざる所を指して知らしむるのみ。
15日

師より之を授くるにあらず。

教ゆることもやすく、聞くこともやすし。
16日

(ただ)(おのれ)にある物を(たしか)に見付けて我が物にすること(かた)し。

これを見性(けんしょう)といふ。
17日

悟とは妄想の夢のさめたるなり。

(さとる)といふも同じ、かはりたることにはあらず。
18日 解説

敵とは
勝軒(しょうけん)これを聞いて「何をもって敵なく我なしというのか」と。 猫が答えるには「我があるから敵があり、我がなければ敵はありません。
19日

敵とは元来対峙の名であります。陰陽水火のようなものです。

およそ形のあるものは必ず相対するものがありますから、我が心に形がなければ対立するものはありません。
20日

心と形と共に忘れる

従って、争うものがないから敵もなく我もないと言ってよろしいでしょう。 心と形と共に忘れて、静かで無事の時は和して(ひとつ)であります。
21日

敵の形をやぶると言っても我も知らず、知らぬのではなく、そのようなことを考えもせず、思いのままに動くだけです。

又、この心が澄み切って静かで且つ無事であれば、この世界は我が世界となって、良いの悪いの、好むだの(にく)むだの、執着だの停滞だのがない造化そのものであります。
22日

みな自分の心から、苦とか楽とか、得とか損とかの境界をつくるものです。

天地は広大であると言っても、結局は心の外に求むべきものはありません。
23日 眼の中にわずかな塵や砂ずはいっても、目をあけることができない。

もともとそういう塵や砂がないとはっきり見えるのに邪魔物が入るためにそうなるのである。 

24日

これは心のたとえを言うたものであります。

また千万人という敵の中にあってこの身が微塵になろうとも、心だけは自分のものである。
25日

如何に大敵でも志だけはとヴかることもできません。

だから孔子も「匹夫も其の志を奪うべからず」と言っております。
26日

然し、迷う時は却ってその心が敵の助けとなりましょう。

私の申しあげるのはこれだけです。
あとは反省して自分に求めて下さい」。
27日 自得しかない これは孔子が最も力説している点であって、結局自分が自分に反る外に途はありません。 師はそのことを伝え、その道理をさとすだけですから、その真実を得るのは自分であります。
28日

これを自得と言い、以心伝心と言い、教外(きょうげ)別伝(べつでん)と言うのであります。

自得とは自分が自分を掴むこと。
29日

教外別伝とは、教えの外に別に伝わるとか、教えに背くというのではなく、師も言葉や形で伝えることが出来ないことを言うのです。

ただ禅の道だけではありません。聖人の説く心法から芸術の末にいたるまで、自得とは皆心をもって心に伝えるものであって、教外(きょうげ)別伝(べつでん)であります。
30日

教えというものは自分にありながら、自分で見ることのできないものを指してて知らしめるだけであって、師がこれを授けるものではありません。

教えることも、聞くこともいとやすいことですが、ただ自分にあるものを確りと見つけて自分のものにすることが難しい。これを仏教では見性と言います。
31日

悟とは妄想の夢からさめることで覚と同じであります。

深遠な理法を実に平易に面白く伝えております。木猫の説が一段と芸術化されて熟読玩味かると妙味がつきません。