この国を思う その七 安岡正篤先生 

                          教育学問
平成21年12月

1日 教育学問

真の人間とは
現代の危機を克服する者は結局、教育学問であります。
徹底的に言えば、我々が今日誇っている科学や技術や産業の発達と匹敵するような道徳的、精神的、人格的発達がなければ、この文明は救われないのであります。
教学の使命は厳としてここにあると信じます。
即ち教育者は真の人間を作るように子弟を教え導かねばなりません。
真の人間とは、いかなる地位に置いても信用せられ、またいかなることでも容易に習熟する容易の出来ている人々、苦悩している人類に敬愛と希望とを与える人間のことであります。
 2日 教師と学生 しかるに近代の学校は、肝腎のこの人間を作ることを閑却して雑学末技に走り、教師と学生との間は疎遠になり不真面目になっております。 教育の尊重で世界に有名な英国でさえ、たとえばよく知られた教育学者のモバリー卿が根本的には現代の学生は教育されておらないと語っております。
 3日 義務教育の眼目 @およそ義務教育の眼目は、子弟に人間として根本的に大切な品性の陶冶・祖国と歴史・家庭や社会とその倫理を教え、思考学問の基礎的修練を与えるにある。 A教育者は人の子弟を教えるという特殊の神聖な使命を自覚して「教育労働者」というような迎合的観念を排脱せねばならぬ。それと共に教育者の生活を保証し優遇せねばならぬ。 
 4日

教育者の心得

B教育者は好んで人の師と為り易い。
自ら戒めて常に求道者、好学者たるの心得と勉強とを要する。
教育者は新しい偶像や理論に熱狂したり失望したりする軽薄を戒め、伝統に深く根ざした着実な進歩を学ばねばならぬ。
 5日

従来、学校教育は徒に俸禄を獲る手段となり道義の鼓吹も行われず、専門学塾の攻究に徹せず、教育の本義を全く曖昧にし所在に不純無責任な学校経営が流行し、青年子弟の雑学、遊惰の悪風を助長し卒業者の就職難、

無為無能、頽廃的傾向、破壊思想等を醸成し子女の多い父兄をして無意義な教育のために家庭を窮迫させるような害悪が多かった。政府も文教行政をとにかく等閑に付し或は時流に迎合した謗りを免れることは出来ない。
 6日 重望ある人物を C文教を政変によって累されぬよう、また積年振わなかった文教の府を重からしむるため、権威ある機関を常設すること。 D重望ある大人物を特に文教の府に置く。
それはいわゆる玄人(文部通や学者教育家)に限らない。
 7日 正しい思想学問を E破壊的頽廃的思想を取り締まることのみに終らず、正しい思想学問を振興すること。 F国語国字を尊重し、その美化と新しい発達を図ること。近眼視的浅見から軽々に言語文字の統制などしてはならない。
日本の過去と将来 日本の過去と将来 日本の過去と将来
 8日 精神の陶冶あってこそ 日本の過去は封建的で、すべて悪く、現在は欧米に敗れた劣等貧弱国であり、将来はアメリカやソ連、中国などにどうされるか分からぬ暗黒のように自暴自棄的な考えを持ってはなりません。 日本の封建時代や西洋の中世を、暗黒と罪悪が支配した無知蒙昧な時代のように思うのは、今日公正な歴史家が指摘しておる通り、とんでもない間違いであります。
 9日 美しい精神や行動 それどころか当時の人間の神を畏れ、秩序を貴び、義利人情を重しとし大義と考えることのために甘んじて自己を捧げる精神の陶冶があって、始めて近代文明が雄々しく生育したのであります。日本の敗戦と終戦後の堕落はまことに恥ずか 

しいことに充ちたものでありました。然しながら、死屍(しかばね)に鞭打つ気持ちを少なくし柔らげて、冷静に判断すると、その間に行われている同胞のけなげな美しい精神や行動の数え切れない事実を発見することができます。 

10日 パール判事 戦犯裁判に関しても厳正公平なインドのパール判事は該博な専門的知識を傾け尽くして裁判は正義でなければならぬこと、戦勝国は敗戦国に憐憫から復讐までどんなもの でも与えることが出来るけれども、与え難いものは正義であること、時が熱狂と偏見とを柔らげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、 
11日

その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろうということを痛論して、全被告は無罪であり、

起訴事実の全部から全員即時免除されるべきであるという判決を主張したことは世界の心ある人々をして真に襟を正しめました 

12日 正義と勇気 我々は自責と共に、奮発と勇気と自信とを失ってはならぬのであります。我々は常に悪を救うて善を勧めねばならぬ。禍を転じて福とせねばならぬ。信仰は罪より人を救い、芸術は醜より美を創り 科学は無価値な物より驚嘆すべき効用を発揮するではありませんか。日本の明日はいかにも重苦しい暗澹たる雰囲気が立ち込めております。然しながら未来は我々が創造するのです。正義と勇気とは神秘な創造力です。
13日 気概と勇気次第 イベリヤ半島の一角に存するポルトガルは第二次世界大戦の荒波を凌いで毅然として繁栄しているではありませんか。北欧の片隅にある(びょう)たる

フィンランドが全国民(それも僅か400万に足らぬ)挙って一丸となり、堂々たる大奸雄国・ソ連の侵略軍を迎えて健闘すれば、さすがのスターリンも我を折ったではありませんか。 

14日

ポルトガルやフィンランドは共産党の世界侵略の前に、日本の重要性とは比較にならぬから、これを以て安心かるわけにはゆかぬが、その気概と勇気と、これに伴う深智とは日本の範とするに足る

ものがあります。ヨーロッパにおける西欧と、アジアにおける日本とは、今日早くも着々国力を回復し始めて、世界二大対抗勢力の消長を左右する微妙な立場を占めるに至っております。
15日

日本の政治家も学者も活眼を放って、国民と共に、この危機に善処せねばなりません。

空疎な中立論や、平和論や、無知な無抵抗主義で無事に済むものではない。
16日 正義と智略 日本の有力指導者は、寧ろ日本とアジアに関する限り積極的に英米の(もう)(ひら)いて協力してゆくだけの正義と智略がなければならないのであります。 大正以来、日本は悪魔に魅せられたようにその本性を失って、驕慢(きょうまん)虚偽(きょぎ)(ほしいまま)にし、昂奮(こうふん)と詭弁と煽動と阿諛(あゆ)との政治が国家を毒しました。
17日 国家社会の歪曲 そして空虚な精神主義、横暴な国家主義、頑迷な民族主義、低劣な民衆主義、貪婪(どんらん)な資本主義、非人道的悪魔的な共産党などが流行して人間の基本的な正しい個人の自由と、国 家社会の統制とを双方共に歪曲してしまいました。今後、日本の政治家はこの誤られた個人の自由と、国家社会の統制とを円滑に調和して愚かなイデオロギー闘争から国民を救わねばなりません。
18日

新日本の政治

空疎で愚かな醜いイデオロギー闘争から国民を救わねばなりませぬ。 空疎で煩瑣な政治を革新して、国民の何人も嬉しく思うように親しい現実を造ってゆかねばなりませぬ。
19日 こういう日本の政治

善く植林せられた山々、治水の行き届いた河川、立派な道路や橋梁、進歩した、しかも純朴を失わぬ農村、暗い影の無い能率的な工場、発達した電気や水道、正確で快速な通信交通、上品な若さの溌剌たる学校、ゆかしい伝統を語る神社や寺院、真面目な信頼を担って

堂々たる論議を尽す議会、尊敬と親愛とに溢るる政府、高尚な文化を蔵する博物館、美術館、崇高な国家を象徴する皇宮、健全で洗練された都市、親睦と礼儀とに富む外国との往来、豪放で世界的な海洋活動等、こういう創造こそ新日本の政治です。
20日 万世の為に太平を開く 一たび、武器を棄てさせられた日本は、チャーチル、ルーズベルトの大西洋憲章を証拠に、いつかは自ら実力を以て自己はもちろん、世界の武器を棄てさせるまで徹するが宜しい。それには今まで怠慢に過した道義と文化

とに精進すると共に、日本が世界各国に「万世の為に太平を開く」という詔勅を発せられたことを空言にせぬ大理想を失ってはならないのです。そこで私はまず誰でも行い易い我々の卑近な実践要領を提唱いたします。

21日 実践要領を提唱 @みだりに他を批評するより、人と共に善を楽しむ協和の美風を養うこと。 A安易な追従生活や共倒れの悪風を排し、何事にまれ独立独行の気風を涵養すること。
22日

B社会的施策に待つことよりも自治を重んずるようにすること。

Cみだりに革命を謳歌せず常に自ら維新してゆくこと。 

23日

D社会各方面の用人者は機械的形式的に人を採用することを改め、できるだけ自由且つ人物本位にすること。

E有力者は力めて海外に活眼を放ち、世界旅行各国士との社交、国民の世界的趣味の涵養などを盛んにすること。
24日

F閲歴声望ある人士は力めて郷土に帰り、郷党の名誉職にもなり、特に郷土の振興、風俗の刷新に尽瘁すること。

G功なり名遂げた人は力めて新進の人材を推薦し、自は退いて顧問に備わり、一は後進の抑鬱を去って事業に清新活発の気を興し、一は後進を誨導して大局を誤らぬようにし、大人自身は閑を得、真を養い、人生を楽しむ修養をせねばならぬこと
25日

H祖国と同胞との危急に当たっては身を挺してその護持に努力すること。         

I常に、後進を誘掖し、潜かに陰徳を積むことを心がけ、世界人類永遠の平和と幸福とを祈念すること。

26日 本年終わり