日本、あれやここれや その68

                          
平成21年12月

1日 一遍 法師(自分)のあとは、跡なきを跡とす。
跡をとゞむるとはいかなる事ぞ。われしらず(一遍(いっぺん)
 2日

法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮・法華宗)とならび、一遍を祖とする時宗(じしゅう)は「鎌倉六宗」の一つである。1239年、彼は伊予(愛媛県)に生まれた。

 3日 執権政治を確立した北条義時は義理の大伯父にあたる。のちに多くは没落したが、名族の出身だった。母の死を機に9歳のころ、出家したが、父の没後、一時還俗した。しかし、再び仏の道に入る。
 4日 ひとは独りで誕生し、独りで生き、独りで死ぬ。しかし、信仰の有無にかかわらず、念仏を唱えることによってだれもが阿弥陀さまになれる。一遍はそう説いて全国を遊行(ゆぎょう)した。
 5日 はねばはね 踊らばをどれ春駒ののり(仏法)の道をばしる人ぞしる
 6日 超大国・元が2度、来襲する不安の時代だった。一遍の教えと「踊り念仏」という新しい布教のかたちは熱狂的に受け入れられた。妨害や非難もあったが、一遍は意に介さなかった。
 7日 死を覚悟したとき、冒頭のことば通り、彼は所持品を焼き捨てたが、弟子たちがその法話を『一遍上人語録』として後世に伝えた。
 8日 一休宗純 「我、本来迷道の衆生(しゅじょう)、愚迷、深き故に迷を知らず 」(一休宗純狂雲集』)
 9日 踊り念仏」もまた、現代に生きている。盆踊り、そして出雲(いずも)阿国(おくに)が創始した歌舞伎がそれである。
10日 1月1日が誕生日とされる偉人は古今東西を通じて結構多いのだが、室町時代中期、下克上が台頭する世を生きた一休宗純もその一人である。
11日 狂雲集』は雅号(狂雲)にちなんだ彼の主著。そこで筆をとっているのは「とんち和尚」ではなく、孤高の禅僧である。
12日 冒頭は「自分は愚かで迷いすぎて、迷っていることさえ知らない」の意だが、もっと強烈な詩句もある。
13日 たとえば「無間(むげん)地獄に落ちる大罪人はこのおれだ(()(ぎゃく)は元来、(なつ)(そう)に在り)」。
14日 その真意はどこにあるのか。「時代の病に毒をもって毒を制する『逆行(ぎゃくぎょう)』だった」と宗教学者、市川白弦は説き、ノーベル賞作家、川端康成は言う。
15日 「一休は魚を食い、酒を飲み、女色を近づけ、禅の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸(けいがい)に反逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでしょう」(『美しい日本の私』)。
16日 そんな一休は、混乱と虚飾の時代を変えるには時を浪費してはならぬ、と感じていた。『狂雲集』に次の句がみえる。「光陰(歳月)(おし)むべし/時は人を待たず/勤むべし励むべし」。
17日 怨霊になった天皇 あなたはご存じですか?怨霊(おんりょう)が日本国に(たた)らぬよう、歴代の天皇が真剣に祈ってきたことを。
18日 その地位や権力を巡って争いは絶えず、暗殺、変死、自殺、憤死など非業の死を遂げた天皇は多い。特筆すべきは、その中に(のろ)い殺された天皇や神の怒りで亡くなった天皇、怨霊となった天皇など、異常な死を迎えた天皇がいることである。
19日 その代表格が保元の乱に敗れ讃岐に流された悲運の帝・崇徳天皇(つめ)、髪、(ひげ)を伸ばし天狗のような姿で自らの舌を噛みちぎり、その血で大乗(だいじょう)(きょう)に天下滅亡の呪いの言葉を書き記し憤死。
20日 死後、飢饉や洪水、大火が続いたため崇徳院の祟りといわれ、鎮魂の神社や寺が建てられました。驚いたことに、孝明・明治・昭和天皇がその霊を鎮めるため祈りを捧げ、神社を建てるなど、近現代でも国家的な鎮魂が行われているのです。
21日 強い恨みを抱いて亡くなった天皇の霊を鎮めて(まつ)り「神」にし、その絶大な霊力を現世に活かそうとする。この日本独特の宗教観は天皇の存在と深く関係している。
22日 明治天皇の玄孫で山本七平賞受賞の研究者、竹田恒泰氏が独特の視点でひも解いた驚愕の「天皇の怨霊史」。
23日 崇徳院山陵はじめ数カ所の御陵に参拝した某氏曰く、機器故障や関係者の怪我など異変が続いた。幸い、ある日を境に異変は終わり、祈りながら執筆を続けた著者は、「祈る存在」としての天皇の意義を改めて実感したといいます。
24日 「裏の天皇史」から本当の日本人の姿が見えて来る。と著者は言う。(小学館・)小学館文庫。
25日 吉野作造 法律の規定に触れさへしなければ何をやっても()いと云ふ思想ほど、社会に迷惑をかけるものはない」(吉野作造
26日 吉野作造は明治11(1878)年、宮城県に生まれた政治学者。「大正デモクラシー」の指導者である。
27日 吉野によると、「デモクラシー」には「民主主義」と「民本主義」の2つの意味がある。彼は、国民主権を説く前者は天皇制と帝国憲法に触れる、として退け、後者を首唱した。
28日 その民本主義について「主権者はすべからく一般民衆の利福ならびに意向を重んずるを方針とすべしという主義である。(中略)主権の君主にありや人民にありやはこれを問うところでない」−と説明している。
29日 吉野は社会民主主義に理解を示す一方で、マルクス・レーニン主義の過激性を否定した。日本政府の対華二十一カ条の要求が尾を引き、学生による排日運動が激化したとき、彼は反感を覚える。
30日 しかし「彼らの奮起した精神」には共鳴し、「彼らの敵とする支那の官僚を操縦籠絡(ろうらく)した官僚軍閥の日本を排斥するのであって、彼らの思想に共鳴する。
31日 理想主義と現実感覚を併せもつ人−と同時に、彼は直言、勇気の人でもあった。冒頭は、統帥権の独立をたてに権限を拡大しようとする軍部に対する警告の一文である。