鳥取木鶏研究会 12月例会 安岡正篤先生の言葉
礼の本義
最近の人たちは、なぜ互いに礼をするかということの意義を知らぬようであります。頭を下げて礼をするのは相手の人のためにするのだ、と大部分の人は思っておる。しかし、それは大違いでありまして、礼というものは、相手にすると同時に自らが自らに対してする、というのが本義であります。その礼は敬の心から生ずる。相手を敬すればこそお辞儀をする気持ちになるものです。人間と他の動物との限界線はどこにあるかということをつきつめてゆくと、結局この敬の心に帰する。よく「愛」だというのでありますが、愛だけならば、他の動物も多少はみな持っておる。人間である以上、愛は愛でも敬愛でなければいけません。「論語」に「敬せずんば何を以てか分たんや」というてありますが、敬の心は人間に到って初めて生じた感情であるばかりでなく、その敬によって人を敬し、己を敬することによって、初めて人間は自他共に人間となるのです。
(人物を修める)
運命は測り知れない
宇宙の創造活動を「命」と謂う。それは己自らに足りて何ら他に待つことなき作用、即ち絶対自由なものであり、同時に、どこまで行ってもこれで十分ということのない作用、すなわち永久不慊なものである。
それは動いて已まぬものゆえ、また「運」とも謂い、これに続けて「運命」とも謂う。
だから運命は誰に依ることもなければ、何故と疑うこともない。
俺は誰の為にこんなに貧窮な家に生まれついたろうとか、俺は何故こんな愚かに生まれついたろうとか、考えるぐらいナンセンスなことはない。
それこそ妄想である。
富貴に素しては富貴を行い、貧賎に素しては貧賎を行えば善いのである。
人間の運命に至っては到底凡人の独断し得るところではない。
この俺が如何にけちな野郎に過ぎない様でも、案外どんな美質が含まれていて、如何なるお役に立つかも知れないのだ。決して棄てたものではない。 (経世瑣言より)
瞋(いかり、怒り、立腹)
「瞋」、いかり。昔の人は偉いですね。目に角立てて瞋りという字だ。瞋は目の枠いっぱいに目をむき出すこと、かっと目をむくこと。瞋恚の炎などという。
私心私欲で腹を立てる、神経を尖らせるのを瞋という。これは最もいけない。世界最古の医書といわれる「素問霊樞」の開巻第一頁に上古天真論というのがある。そこで人間のあらゆる病気の一番悪い原因は怒りだということを説いている。それがアメリカの医学者によって究明されて、我々の息を冷却装置の試験管に入れたら息のカスができる。その息のカスの中の凶悪犯人の息をとって調べたら栗色のカスができて、それをモルモットに舐めさせたら頓死した。
快感楽易
本当に人間はつまらんことに、ことに自分の欲望や感情から、私欲私情から腹を立てるということくらいよくないことはない。そういう人間というものは、まあ非常に微妙なものでありまして、心を練る。そして退屈しないで、無心になつて仕事に打ち込むということは、非常にいいことである。人生の一つの秘訣である。
と同じように、くよくよするということは、大変エネルギーの消費になるばかりでなく、人間そのものを暗くする。血液も従って暗くなる、よどむ。これに反して笑みを含む。しよっちゅう笑みを含んだ楽しさ、愉快、快感というものを「快感楽易」(心地よく、楽しく、安らかであるの意)という。
これを失わんようにする。いつも笑みを含むということはいいことだ、「くよくよせず、いつも笑みを含んで」あれ。
友達
人間というものは一つには自然の存在でありますから、自然の法則にも支配されるので、我々の精神や生活が単調になりますと、物の慣性、惰力と同じ支配を受けまして、じきにエネルギーの活動が鈍ってくるのであります。つまり人間が詰らなくなってくるのです。眠くなってくるのです。それを防ごうとするならば、就中やはり良い師友、良い先生や友達を持つ、つまり交際に注意するということが第一です。毎日見馴れておる顔をみて、定りきった話をして、定りきつた生活を繰り返しておるために、だんだん無内容、無感激、いわゆる因習的マンネリズムというものになってしまう。出来るだけ生活内容を異にした友達、交際をもつ。つまりなるべく広く味のある、変化に富んだよい交友を豊かに持つという心掛けがまず第一に必要なのであります。我々の仕事は案外思いがけない示唆によって活気を与えられる。思いがけない人から思いがけない話を聞いて、その話が思いがけない影響、示唆を与えるものなのであります。
(暁鐘)