十一、「先進 第十一」
原文 | 読み | 現代語訳 | |
11月16日 | 一、 |
子曰く、先進の礼楽に於けるは野人なり、後進の礼楽に於けるや君子なり。如しこれを用うれば、則ち吾は先進に従わん。 |
先生が申された、「弟子達の先輩は、礼制と音楽に対して野蛮人のようだ。後輩は礼制と音楽に対して立派な君子のようだ。ただが実際に活用する場合は私は先輩たちのほうに従う」。 |
11月17日 |
二、 |
子曰く、 |
孔子が申された、 |
11月18日 |
三、 |
徳行には、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓あり、言語には宰我・子貢あり、政事には冉有・季路あり、文学には子游・子夏あり。 |
弟子たちの中、徳行に優れた者には、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓があり、言語に優れた者には、宰我・子貢があり、政事に優れた者には、冉有・季路がいて、文学に秀でた者には子游・子夏がいた。 |
11月19日 |
四、 |
子曰く、 回や我を助くる者に非ず、吾が言に於いて説かざるところなし。 |
孔子が申された、 「顔回(顔淵)は、私の学問を助ける者ではない。私の言う言葉を喜んで聴いてるだけだ」。 |
11月20日 | 五、 子曰、孝哉、閔子騫、人不問於其父母昆弟之言、 |
子曰わく、 孝なるかな、閔子騫(びんしけん)、人その父母昆弟(こんてい)の言をそしらず。 |
孔子が申された、 「閔子騫は親孝行だ。他人が彼の父母・兄弟を悪くいう言葉を聞いたことがない」。 |
11月21日 |
六、 |
南容、三たび白圭を復す。孔子、その兄の子を以て、これを妻す(めあわす)。 |
南容は、詩経にある『白き圭(たま)のかけたるは、尚(なお)磨くべきなり……』という言葉を一日に三度復唱していた。孔子は、このことを知って、自分の兄の娘を白容に嫁がせた。 |
11月22日 |
七、 |
季康子問う、弟子孰か(たれか)学を好むと為すか。 |
季康子が質問した、弟子の中で誰が一番、学問が好きか、孔子が申された、 「顔回という人物、学問を非常に好んでいたが、不幸なに短命で死にました。彼のような学問好きはいない」。 |
11月23日 | 八 顔淵死、顔路請子之車以為之椁、子曰、才不才、亦各言其子也、鯉也死、有棺而無椁、吾不徒行以為之椁、以吾従大夫之後、不可徒行也、 |
顔淵死す。顔路、子の車を以てこれが椁(かく)を為らんを請う。子曰く、才も不才も亦各々もその子を言う。鯉や死せしとき、棺あるも椁(そとひつぎ)なかりし。吾徒行して以てこれが椁を為らせざりしは、吾、大夫の後に従い徒行すべからざるをもってなり。 |
顔淵が死んだ。父の顔路が、孔先生の車を使って外側の棺桶(立派で高価な棺)を作りたいとお願いした。 先生が言われた、 「才能のある者とない者との差があっても、自分の子のためという思いは同じである。私の子の鯉が死んだ時も外側の棺桶(椁)は作らなかった。自分の車を壊して徒歩で歩くことになってまでは、子の棺桶を作らなかった。私も大夫の末端にいる者なので、車を使わずに徒歩で移動するというわけにはいかない」。 |
11月24日 |
九、 |
顔淵死す。 |
顔淵が死んだ。 先生が言われ、「あぁ、天が私を滅ぼした、天が私を滅ぼした」。 |
11月25日 |
十、 |
顔淵死す。子これを哭(こく)して慟す(どうす)。従者曰く、子慟せり。子曰く、慟することあり、夫の(かの)人の為に慟するに非ずして誰が為に慟せん。 |
顔淵が死んだ。先生は霊前で大声を上げて泣き、深い悲しみを表現された。従者が申し上げた。先生はさきほど、泣き崩れられました。先生は言われた「あの人のために大声で泣かずに、誰のために大声で泣くというのか」 |
11月26日 |
十一、 |
顔淵死す。門人厚く葬らんと欲す。子曰く、不可なり。門人厚くこれを葬る。子曰く、回や、予を視ること猶父のごとくす。予は視ること猶、子のごとくするを得ず。我には非ざるなり。夫の(かの)二三子なり。 |
顔淵が死んだ。門人たちが手厚い葬儀をしたいと申し上げた。 先生が言われた。 「それはよくない」。しかし、門人たちは顔淵を儀礼を越え盛大に葬った。 先生が言われた。「顔淵が私に接する姿はまるで父に対するが如くであった。しかし、私は顔淵に我が子のように慎ましやかに温かく葬って上げられなかった。これは私の責任ではない。門人たちが勝手にしてしまったことだ」。 |
11月27日 |
十二、 |
季路、鬼神に事うるを問う。子曰く、未だ人に事うる能わずんば、焉んぞ能く鬼に事えん。 曰く、敢えて死を問う。 曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや。 |
子路が、死者の霊魂へのお仕えの仕方を聞いた。 先生がお答えになった。 「生きている人間に仕えることが十分でないのに、どうして死者の霊魂などにお仕えすることができるだろうか、いや、できない」。子路は死について質問した。 先生は言われたね「まだ生について知らないのに、どうして死について知ることができるだろうか」。 |
11月28日 |
十三、 |
閔子騫、側らに侍す。ギンギン如たり。子路は行行如たり、冉子と子貢、侃侃如たり。子楽しむ。曰く、由が若きはその死然を得ざらん。 |
閔子騫が先生の側近くにいた。閔子騫は中立的で程よく落ち着いている。子路は力強くて剛直過ぎる感じである。 冉子と子貢の様子は和やかな雰囲気、先生は門人たちの様子を楽しみながら言われた、「子路のような激しい気質では、天寿まっとうは出来ないだろう」。 |
11月29日 |
十四、 |
魯人、長府をつくる。閔子騫曰く、旧貫に仍らばこれを如何せん、何ぞ必ずしも改めて作らん。子曰く、かの人はもの言わず、言えば必ずあたるあり。 |
魯国人が長府という倉庫を建設した。閔子騫が言う、旧来の慣習に従ったらどうだろうか。どうして旧来の慣習を捨てて全ての組織・建物を新しく作る必要があるのだろうか。孔子が申された、「あの人は普段はあまり話さないが、話すと必ず的確な発言をする。」 |
11月30日 |
十五、 |
子曰わく、 由の瑟(しつ)、奚為れぞ(なんすれぞ)丘の門に於いてする。門人、子路を敬せず。子曰く、由や堂に升れり、未だ室に入ず。 |
先生が言われた、 |
12月1日 |
十六、 |
子貢問いて曰く、師と商と孰れか賢れる。 子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。曰く、然らば則ち師まされか。 子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。 |
子貢が質問、子張と子夏では、どちらが優れていますか。先生が答えられた、 |
12月2日 |
十七、 |
季氏、周公より富む。而るに求や、これが為に聚斂して附益す。子曰く、吾が徒に非ず。小子鼓を鳴らしてこれを攻むるも可なり。 |
家臣の季氏一族は主君(魯)の周公よりも裕福であった。そういった状況があるのに、弟子の冉求が季氏の利益のために徴税の業務を行った。先生が申された、「冉求はわれわれの同志ではなくなった。お前たちよ、鼓を鳴らして、批判精神で攻撃し良い」 |
12月3日 |
十八、 |
柴(さい)や愚、参(しん)や魯、師やへき、由やがん。子曰く、回はそれ庶き(ちかき)か、屡(しばしば)空し。賜(し)は命を受けずして貨殖す。億すれば則ちあたる。 |
子羔(しこう)は愚直、曾子は魯鈍、子張は誇大、子路は粗暴。 先生が言われた、 「顔淵の徳性と学問は完全に近いだろう、しかし、彼は常に貧乏であった。子貢は主君の命令を受けずに商売を営んだ。子貢が儲かると推測した時にはいつも的中した」。 |
12月4日 |
十九、 子曰、論篤是与、君子者乎、色荘者乎、 |
子張、善人の道を問う。子曰く、迹を践まず。亦室に入らず。子曰く、論の篤なるのみこれを与(くみ)せば、君子者か、色荘者か。 |
子張が善人の道について質問。 先生がお答えになった、 「先人の歩んだ道徳の教えを実践しなければ、本当の善人の域(部屋)に到達できない」。 先生が申された、 「議論の誠実さだけを頼りにすると、本物の君子か、表面的君子なのか区別できぬ」。 |
12月5日 | 二十、 子路問、聞斯行諸、子曰、有父兄在、如之何其聞斯行之也、冉有問、聞斯行諸、子曰、聞斯行之、公西華曰、由也、問聞斯行諸、子曰、有父兄在、求也問聞斯行諸、子曰、聞斯行之、赤也惑、敢問、子曰、求也退、故進之、由也兼人、故退之、 |
子路問う、聞けば即ちこれ行わんか。 子曰く、 父兄在す有り、如何ぞ、それ聞かば則ちこれを行わんや。冉有問う、聞かば則ちこれを行わんか。子曰く、聞かば則ちこれを行え。公西華曰く、由や、聞けば則ちこれ行わんかと問うに、子曰く、父兄在す有り。求や聞かば則ちこれを行わんかと問うに、子曰く、聞かば則ちこれを行え。赤や惑えり。敢えて問う。 子曰く、求や退く、故にこれを進めり。由や人を兼ね、故にこれを退けたり。 |
子路が質問、聞いたらすぐにその通りに実行しましょうか。 先生がお答えになる、 「父兄がまだ生きていて心配しておられるのだから、どうしてすぐに実行することができようか」。冉求が質問、聞いたらすぐにその通りに実行しましょうか」。先生がお答えになる、「聞いたらすぐにそのまま実行しなさい」。公西華がお尋ねした。子路が「聞いたらすぐに実行しましょうか」と聞いた時には、先生は「父兄がまだ生きておられる」といって制止され、次に冉求が「聞いたらすぐに実行しましょうか」と聞いた時には、 先生は「聞いたらすぐに実行せよ」とお答えになりました。 私はこれを聞いて戸惑いました。どちらが正しい教えなのですか。 先生はお答えになった、 「冉求は慎重で消極的だから、すぐに実行することを勧めた。子路は積極性があるので、これを抑制した」。 |
12月6日 |
二十一、 |
子、匡に畏る。顔淵おくれたり。 子曰く、 吾汝を以て死せりと為す。 曰く、子在す、回、何ぞあえてし死せん。 |
先生が、匡の地で賊に襲撃された時に、顔淵が集団からはぐれ、遅れた。後で顔淵と再会した時に、 先生が申された、 「私はお前が死んでしまったと思った」。 顔淵が言った。先生が生きておられる限り私がどうして死ぬことなどありましょうか」。 |
12月7日 |
二十二、 |
季子然問う、仲由、冉求は大臣と謂うべきか。子曰く、吾、子を以て異をこれなす。曾ち(すなわち)由と求との問いか。所謂大臣とは道を以て君に事うることなり。不可なれば則ち止む。今、由と求とは具臣と謂うべきのみ。曰く、然らば則ちこれに従う者か。 子曰く、 父と君とを弑せば亦従わざるなり。 |
季子然が質問した。季氏に仕えている子路と冉求とは、大臣といえる者たちか。 |
12月8日 |
二十三、子路使子羔為費宰、子曰、賊夫人之子、子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必読書然後為学、子曰、是故悪夫佞者、 |
子路、子羔(しこう)をして費の宰とならしむ。 |
子路が、子羔を季氏が管轄する費の城主として採用した。先生が言われた、 「まだ未熟な子羔では城主の職務を十分に果たせないのではないか」。子路が答えた。費の町には、人民がおり、土地を守護する神社があります。どうして人民を治めて神社の祭祀を執り行わずに、読書をすることだけが学問と言えるでしょうか。 先生がおっしゃった、「この子路の口達者で相手を丸め込むところが憎々しい」。 |
12月9日 | 二十四、子路曾皙冉有公西華侍坐、子曰、以吾一日長乎爾、無吾以也、居則曰、不吾知也、如或知爾則何以哉、子路率爾対曰、千乗之国、摂乎大国之間、加之以師旅、因之以飢饉、由也為之、比及三年、可使有勇且知方也、夫子哂之、求爾何如、対曰、方六七十、如五六十、求也為之、比及三年、
可使足民也、如其礼楽、以俟君子、赤爾何如、対曰、非曰能之也、願学焉、宗廟之事、如会同、端章甫、願為小相焉、点爾何如、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、対曰、異乎三子者之撰、子曰、何傷乎、亦各言其志也、曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、浴乎沂、風乎舞樗、詠而帰、夫子喟然歎曰、吾与点也、三子者出、曾皙後、夫三子者之言何如、子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何哂由也、子曰、為国以礼、其言不譲、是故哂之、唯求則非邦也与 安見方六七十如五六十而非邦也者、唯赤則非邦也与、宗廟之事如会同非諸侯如之何、赤也為之小相、孰能為之大相、 |
子路・曾皙・冉有・公西華、侍坐す。子曰く、吾、一日爾に長ぜるを以て、吾を以てすることなかれ。居れば則ち曰く、吾を知らずと。如し爾を知るもの或らば則ち何を以てせんや。子路、率爾(そつじ)として対えて曰く、千乗の国、大国の間に摂して、これに加うるに師旅を以てし、これに因るに飢饉を以てせんに、由やこれをおさめて三年に及ぶ比(ころ)、勇あり且つ方(みち)を知らしむべきなり。夫子これを哂う。求よ爾は何如。対えて曰く、方六七十、如しくは五六十、求やこれを為めて三年に及ぶ比、民を足らしむべきなり。その礼楽の如きは以て君子に俟たん。赤よ爾は何如。対えて曰く、これを能くすと曰うには非ず。願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同のとき、端章甫(たんしょうほ)して、願わくは小相たらん。点よ爾は何如。瑟(しつ)を鼓く(ひく)ことをやめ、鏗爾(こうじ)として瑟を舎きてたち、対えて曰く、三子者の撰に異なり。子曰く、何ぞ傷まん、亦各々その志を言うなり。曰く、暮春には春服既に成り、冠者五六人・童子六七人を得て、沂(き)に浴し、舞樗(ぶう)に風し、詠じて帰らん。夫子、喟然(きぜん)として歎じて曰く、吾は点に与せん。三子者出ず。曾皙後る。曾皙曰く、夫の三子者の言は何如。子曰く、亦各その志を言えるのみ。曰く、夫子何ぞ由を哂えるか。子曰く、国をおさむるには礼を以てす、その言譲ならず。是の故にこれを哂えり。求と唯も則ち邦に非ずや、いずくんぞ方六七十如しくは五六十にして邦に非ざるものを見ん。赤と唯も則ち邦に非ずや、宗廟と会同とは諸侯に非ずして如何。赤これが小相たらば、孰か能くこれが大相と為らん。 |
子路・曾皙・冉有・公西華が、孔子の近くで座っていた。先生がおっしゃった、 |