万葉集 地域別 I  11

平成18年11月

1日 唐泊(からとまり) 韓亭(からとまり) 能許(のこ)の浦波 立たぬ日は あれども家に 恋ひぬ日はなし

博多湾口西側、糸島半島の東北端の湊。仮泊して数日経た、浦波も立たぬ凪ぎの静寂さの中に懐旧の思いが湧いてくるのであろう。

遣新羅使人 巻153670
 2日 引津(ひきつ)可也(かや)の山 草枕 旅を苦しみ 恋ひ()れば 可也(かや)の山辺に さ男鹿(をしか)鳴くも  現在の引津浦、東方に可也山(小富士)、玄海灘の波浪を避ける港。静寂の港で仮泊し、旅愁・妻恋をする。明日は遠く海波を壱岐島へと向うのである。(みぶの)宇太(うだ)麻呂(まろ) 
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3674
 3日 (ちん)懐石(かいせき)伝説地 ・・真珠(またま)なす 二つの石を 世の人に 示し給ひて 万代(よろづよ)に 言ひ()ぐがねと (わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に み手づから 置かし給ひて・

神功皇后が新羅征討の時、深江の子負の原の二つ石を御裳の中に入れて鎮懐(懐妊を鎮める意)としたものだとの伝説あり山上憶良の歌の序文にその由来を述べて「公私の往来に馬より下りて跪拝(きはい)せずというこことなし」とある。
子負原(こふはら)八幡(はちまん)と称する小社の森
がある。―山上憶良 巻5-813

 4日 玉島川 松浦(まつら)なる 玉島川に 鮎釣ると 立たせる子らが 家路(いえじ)知らずも 神功皇后が三韓征討の時、ここで鮎を釣り事の成否を占ったという。その後春には毎年女子が若鮎を釣る習いとし男子は一魚も釣れないという。(肥前国風土記)
大伴旅人 巻
5856
 5日 玉島川2. 春されば 吾家(わぎへ)の里の 川門(かはと)には 鮎児(あゆこ)(ばし)る  君待ちがてに 

鮎児さ走る、透き通った清流、渓谷を潜り抜けて明るい所へ出た地形。恋しい人を待ちかねて鮎児さ走る水辺に思いをこがす乙女。 
大伴旅人 巻5-859

 6日 ひれふりの嶺 海原(うなはら)の沖行く船を 帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 松浦佐用(まつらさよ)比売(ひめ)

行く船を 振り(とど)みかね 如何(いか)ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用比売

大伴狭手彦がこの地で情を交わした松浦佐用比売と分かれて出船となると姫は別れの易く遇うことの難いのを嘆き、高山に領巾(婦人の肩にかける布)を振って船を招いた(領巾振りの嶺)と名づけた伝説、今の鏡山。唐津湾の大景色と伝説。大伴旅人巻5-874 
5-875
 7日 壱岐の島 新羅へか 家にか帰る 壱岐(ゆき)の島 行かむたどきも 思ひかねつも 一行が周防灘で遭難漂流した時、一員の雪宅麻呂「大君の 命恐(みことかしこ)み 大船の 行きのまにまに やどりするかも 巻153644」と心細い歌はその折の挽歌。もう行くすべもない茫然とした気持ちで哀悼を捧げている。六鯖(ろくさば) 巻153696
 8日 壱岐・(いは)田野(たの) (いは)田野(たの)に 宿(やどり)する君 家人(いへびと)の いづらとわれを 問はば如何(いかに)に言はむ

石田野を眠り場所としている君よ。都に帰ってから家の人がどこにいるかと私に尋ねたら、なんと答えたらいいだろうか。春のようなののどかに風景が浮かぶ。 
作者未詳 巻153689

 9日 対馬海峡 ありねよし 対馬の渡り 海中(わたなか)に (ぬさ)取り向けて (はや)帰り来ぬ

対馬の海路の海上で幣帛を神に手向け祭り無事で早く帰っていらっしゃい。「ありねよし」は枕詞、「在り嶺よし」で目立つ山のある意。 
春日(かすがの)(おゆ) 巻162

10日 大船越 百船(ももふね)の ()つる対馬の 浅茅山(あさじやま) 時雨の雨に もみたひにけり 浅茅湾は屈折した丘陵の間に海水をたたえた絶好の泊所。「もみたひ」はモミツ、黄葉するの継続を現す語。
遣新羅使人 巻
153697
11日 竹敷(たかしき)(うら) 黄葉(もみちば)の 散らふ山辺ゆ  漕ぐ船の にほひに()でて 出でて来にけり 対馬出身の娘子(おとめ)玉槻の歌。おそらく遊行女婦(うかれめ)、海岸の黒い岩肌に低く迫る丘のもみじは手も届きそう、その美しさにひかれて出てきた。
玉槻
(たまつき)
 巻15
3704
12日 浅茅湾 天ざかる (ひな)にも月は 照れれども (いも)ぞ遠くは 別れ来にける 月を見上げての、はるばるの妻への慕情。浅茅湾からは東の対馬海峡、西の朝鮮海峡に挟まれた上島の全容、落日の雄大さ、入り江の奥の岬の陰に潜み停泊し慕情を募らせる。
遣新羅使人  巻
153698
13日 みみらくの崎 ・・ここに、荒雄(あらを)許諾(うべ)なひて、遂に()の事に従ひ、肥前国松浦県(まつらのあがた)美弥(みみ)良久(らく)の崎より発舶(ふなだち)して、(ただ)に対馬をさして海を渡る。登時(すなはち)忽に天暗冥(くら)くして暴風に雨を交へ、つひに順風無く、海中に沈み()りき。・・・ 「筑前国志賀白水郎歌十首」の左注の一節。遣唐使にとり日本最後の停泊の地。163869」の左注
14日 朽綱山(くたみやま) 朽綱山(くたみやま) 夕()る雲の (うす)れ行かば われは恋ひなむ 君が目を() 朽綱山(くたみやま)は大分県の名山・久住山の古名である。久住山を主峰として大船山、星生山、三俣山、黒岳などからなる塊状火山で総体的に九重山と云われる。久住山は朝晴れて午後雲のかかることの多い山。夕方かかっている雲が薄れていったら、私は恋しく思うだろうよ。あのお方のお顔が見たくて。作者未詳 巻112674
15日 水島

聞くが(ごと) まこと(たふと)く (くす)しくも (かむ)さび()るか これの水島

八代市の球磨川、南河口左岸堤防前の小島。いまも湧水があるという。景行天皇巡幸にちなむ清泉伝説。岩山の緑の枝ぶり、由緒あり神秘の魅力があったのであろう。
長田王
(ながたのおおきみ) 巻3
245
16日 薩摩の迫門(せと) 隼人(はやひと)の 湍門(せと)(いはほ)も 年魚(あゆ)走る 吉野の滝に  なほ()かずけり 隼人は九州南部に住んでいた人種名、ここでは古名または総名となり「隼人の湍門(せと)」は「隼人の薩摩の 湍門(せと)」で黒ノ瀬戸のこと。遠い異郷の荘厳な海景に深い感動と共に吉野の清流の回想。大伴旅人 巻6960
17日 石見(いわみ)の海1. 柿本朝臣人麻呂、石見国より妻に別れて上り来る時の歌

石見(いわみ)() (つの)浦廻(うらみ)を」浦無しと 人こそ見らめ (かた)無しと 人こそ見らめ よしえやし 浦は無くとも よしえやし 潟は無くとも」(いさ)()取り 海辺(うみべ)をさして 和多豆(にぎたづ)の 荒礎(ありそ)の上に か青なる 玉藻(たまも)沖つ藻」朝羽(あさは)()る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆうは)()る 浪こそ()寄れ」浪の(むた)  か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り()(いも)を」(以上A)

人麻呂は晩年、石見(島根県浜田の近くの国司)、辺鄙なとこで「天ざかる鄙」。国庁跡から北東に都野津(つのづ)(江津市)の町があるが当時は「(つの)の里」と言われここに人麻呂の愛する妻がいた。この歌は上京に際し妻に別れる慕情の歌。「よしえやし」は「よしままよ」の意。 

柿本人麻呂 巻2131
18日 石見(いわみ)の海2.

露霜(つゆしも)の置きてし()れば」この道の 八十(やそ)(くま)(ごと)に (よろづ)たび かへりみすれど」いや(とお)に 里は(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ」
(
以上B)

角の里の恋人と別れて来てとりとめない茫漠とした心情、荒涼寂寞の実の風景と密着、心情は景観と互いに染み入り停滞し、あらがい、寂寞から抜けようとする心は海景の一微細点の玉藻に定着、そのまま恋人の姿態への思慕感へ一転統一される。かよりかくよる玉藻はかよりかくよる恋人の姿態、別離の苦悶焦燥へ急迫した心情にせりあがずにはおられない。 

19日 石見(いわみ)()3.

夏草の 思ひ(しな)えて (しの)ふらむ (いも)(かど)見む」(なび)けこの山」(以上C)

「思い萎えて偲ぶらむ妹」をそこに在る如く想像させ「靡けこの山」の激しい急迫したた衝動を極めて自然に完結させる。これは犬養孝先生の評である。 

20日 高角山(たかつのやま) 石見(いわみ)のや 高角山(たかつのやま)の ()()より わが振る袖を (いも)見つらむか

小竹(ささ)の葉は み山もさやに さやげども われは(いも)思ふ 別れ来ぬれば

これは先述の長歌の反歌である。石見のやのやは感動の助詞。妹見つらむかのかにより求心内攻のわが心の嘆きにおさめている。

柿本人麻呂 巻
2132
柿本人麻呂 巻
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21日 からの崎 つのさはふ 石見の海の (こと)さへく 辛之崎(からのさき)なる (いくり)にぞ 深海(ふかみ)松生(るお)ふる 荒磯(ありそ)にぞ 玉藻(たまも)は生ふる 玉藻なす (なび)()し児を・・・ 犬養孝先生は、辛之崎を千畳敷・畳が浦一帯のうちの岬と推定されている。ここは海蝕崖の断崖の連続で化石が出る。唐鐘はもとカラカネと呼んだ、その東北の山が唐山(からやま)としその麓の出端が唐の崎と沢潟博士も推定された。
柿本人麻呂 巻
2135
22日 鴨山 柿本(かきもとの)朝臣人(あそんひと)麻呂(まろ)石見国(いわみのくに)に在りて臨死(みまから)らむとする時、自ら(いた)みて作る歌

鴨山(かもやま)の 磐根(いわね)()ける われをかも 知らにと(いも)が 待ちつつあらむ

人麻呂は六位以下の微官とされる、鴨山はその埋葬地、湯抱温泉のある湯抱は三瓶山麓の女良川の谷間、人麻呂終焉の地とされている。

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23日 石川 (ただ)()ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ(しの)はむ 依羅(よさみの)娘子(をとめ)は人麻呂の妻、「もう直かにお会いすることはとうていできない、川に雲が立ち渡っておくれ、その雲を見てあの方をお偲びしよう」。石川は(ごう)の川か。依羅(よさみの)娘子(をとめ) 
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24日 浮沼(うきぬ)の池 君がため 浮沼(うきぬ)の池の (ひし)摘むと わが染めし袖 濡れにけるかも 三瓶山の雄大な高原の西麓のはずれに浮沼池と山湖がある。「愛するあなたの為に池の菱の実を摘もうとして自分で染めた着物の裾を濡らしてしまいましたよ」、可憐な野趣に満ちた田舎乙女の恋情である。
柿本人麻呂 巻
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25日 志都(しつ)石室(いはや) (おほ)(なむち) 少彦名(すくなひこな)の いましけむ 志都(しつ)石室(いはや)は  幾代経(いくよへ)ぬらむ 大国主命と少彦名命と国土経営の伝説は諸国にあり各地に信仰として生きていた。この「二神がおられた志都の石室」し島根県大田市静間町の垂水海岸に岩屋―静の窟―の大洞窟がある。自然の驚異の前にしばし無言になるのは少しも変わらない。
生石
(おほしの)真人(まひと) 巻3
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26日 飫宇(おう)の海 飫宇(おう)の海の 河原の千鳥 ()が鳴けば わが佐保川の 思ほゆらくに

出雲守門部王 (みやこ)を思ふ歌とある。出雲国風土記に出る「意宇(おう)」の地名伝説の残る、出雲郷川(あだかいがわ)が北流して注いでいる、飫宇(おう)の海は中の海のこと。 
門部(かとべの) (おほきみ) 巻3371

27日 因幡国庁跡(いなばこくちょうあと) 三年春正月一日、因幡国(いなのくに)の庁にして、(あへ)を国郡の司等に賜へる(うたげ)の歌。
(あらた)しき 年の(はじめ)の 初春(はつはる)の 今日降る雪の いや()吉事(よごと) 
右一首は守大伴宿禰家持作れり。
鳥取である。淳仁天皇の天平宝宇三年(759)正月一日も饗を国や郡の役人らに賜わった新年賀会の折の、因幡国守大伴家持の歌。
万葉集最後の歌でもあり、また家持がこの世に残した最後の歌でもある。

大伴家持 巻
204516
28日 因幡国庁 鳥取駅の東南4キロの岩美郡国府町の地にあった。稲葉山とその南方の丘陵地帯の間の平原が、国府を中心とした集落のあった所で、昔の稲羽郷の域内であある。

こんにち大字庁の村落の中、公民館と村の共同粉挽小屋に隣接して、むくの木と、たもの木の大樹の下に因幡国庁址の碑と大正十一年建碑の万葉歌碑、昭和三十四年建碑の佐々木信綱博士の碑を建てている。 

29日 因幡国庁址 農家を囲む木立のほかは平野は見渡す限りの青田で、庁の南方今木山の麓には法花寺の村、その四方には国分寺の村があり、碑の南方の田は小字屋敷田と呼ばれている。 国庁址は恐らく、この碑の付近であったろう。鳥取駅前からバスで約25分、国府町宮ノ下に出て、稲葉山の中腹にある、因幡の国の一宮宇倍(うべ)神社の社務所の庭に立つと旧国府の全貌を展望できる。
30日 宇倍神社 宮の下から国府川(袋川)沿いに中郷橋の上手の町屋橋を渡り南へ0.3キロ、穀物ななどを干した畑道を突き当たれれば石碑の処にでる。ひっそりと誰にも荒らされぬ村なかだ。宇倍神社は因幡の一宮であり、祭神は竹内宿禰であり、日本銀行券最初の一円札の裏に宇倍神社社殿と宿禰の肖像画が印刷してある。 山陰沿線は防雪林を設けている程、雪が多く、この付近も二月中は殆ど根雪の消える時はない。日本海から送られる寒風に、密度も濃く積雪度も早く一夜で一メートルに及ぶことさえあある。「地に積むこと数寸」の奈良とは比べ物にならない。延喜式の行程「上十二日、下六日」、天ざかる異土の因幡で迎えた初めての元旦、野も里も白一色の中に、国守家持の双眸に映る雪片の飛来も想像できるではないか。