日本の心の軌跡 11

有史以来の日本文学・あるいは文系の軌跡を時系列的に辿ってみた。

平成18年11月

 1日 三経(さんきょう)義疎(ぎそ) 推古天皇14年、611聖徳太子「三経(さんきょう)義疎(ぎそ)」著わす。三経義疏は、聖徳太子によって著されたとされる法華義疏(伝615年)、勝鬘経義疏(伝611年)、維摩経義疏(伝613年)の総称。それぞれ法華経勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)の三経の注釈書。 日本書紀に推古14年(606年)聖徳太子が勝鬘経、法華経を講じたという記事があり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。 法華義疏のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、勝鬘経義疏、維摩経義疏に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。
 2日

「天皇記」「国記」

推古天皇28年、620
「天皇記」「国記」撰録さる。
天皇記(てんのうき、すめらみことのふみ)は、620推古天皇28年)に聖徳太子蘇我馬子が編纂した歴史書帝皇日継帝紀とほぼ同様の内容、天皇家の系譜を記したものだと考えられている。また未完であった可能性が高い。 
国記とともに編纂された。645皇極5年)に起きた乙巳の変の際、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき国記とともに焼かれた。国記のみが焼ける前に取り出されて残ったが、国記も現存していない。200511月13日奈良県日本書紀の記述通り、蘇我入鹿の邸宅跡が発見され、今後の発掘しだいでは『天皇記』・『国記』の一部が出土する可能性があるとされる。
 3日 古事記 古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば、和銅五年(712)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ太安万侶。)によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。日本書紀のような勅撰の正史ではないが、序文に天武天皇が「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と詔しているから、勅撰といってもいい。序によれば、稗田阿礼が暗誦していた帝紀(天皇の系譜)・旧辞(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。

『古事記』は、帝紀的部分と旧辞的部分から成り、天皇系譜が帝紀的部分の中心、第1代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げるならいであった。それが六世紀の半ばになると文字によって書き表わされた。旧辞は宮廷内の物語とか、天皇家や国家の起源に関

する話をまとめたもので、同じ頃書かれたもの。帝紀や旧辞は、6世紀前半ないし中葉頃までに天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するため朝廷の貴族によって述作されたもの。

構成は、上つ巻(序・神話)、中つ巻(初代から十五代天皇まで)、下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の三巻よりなる。内容は、神代における天地(アメツチと読まれる)の始まりから推古天皇の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話伝説等を含む)を収録。また数多くの歌謡を含む。本文はいわゆる変体漢文を主体としつつも、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記スタイルを取る。一字一音表記の箇所には、まれに右傍に「上」「去」のように漢語の声調を表わす文字を配して、当該語のアクセントを示すこともある。いずれも、いかに効率よく正確に記述するかで悩んでいた(序文参照)編者・太安万侶の涙ぐましいまでの苦心の跡である。

元明天皇、和銅5年、712

「古事記」撰上、(おおの)安万侶(やすまろ)

 4日 「風土記」 元明天皇、和銅6年、「風土記」編纂命じる。奈良時代初め713和銅65月、元明天皇諸国風土記(ふどき)の編纂を命じた(この時点では風土記という名称は用いられていない)。官撰の地誌。詔により撰進したのは各国国庁。漢文体を主体とした文体で書かれた。『続日本紀』の和銅65月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき 内容として、郡郷の名(好字を用いて)
1.   産物
2.   土地の肥沃の状態
3.   地名の起源
4.   伝えられている旧聞異事 が挙げられている。完全に現存するものはないが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記肥前国風土記常陸国風土記豊後国風土記が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。
 5日 日本書紀 元正天皇、養老4年、720

「日本書紀」撰上、舎人(とねり)親王(しんのう)
日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、日本における伝存最古の正史六国史の第一。舎人(とねり)親王らの撰で、720養老4年)に完成。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文編年体

全30巻、系図1巻。系図は失われた。『続日本紀』の720(養老4年)五月条に「先是一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀三十巻系図一巻」とある。その意味は「以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」である。
 6日 出雲風土記 聖武天皇、天平5年、733出雲国風土記(いずものくにふどき)は、出雲国風土記。現存する風土記の中で一番完本に近い。 出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。天平5年(7332月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたという。
 7日 懐風藻(かいふうそう)

孝謙天皇、天平勝宝3年、751懐風藻(かいふうそう)は、日本文学史上最古の漢詩集。奈良時代天平勝宝三年(751)に編纂された。撰者は良くわかっていない。詩人略伝に近江朝に同情的な筆致が伺われ、大友皇子の曾孫にあたる淡海三船を作者に擬する根拠の一つとなっている。64人の作者による約120篇の詩からなり、その大半が五言である

。作者は大友・川島大津の三皇子をはじめ、ほとんどが皇親・官人。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きい。
『懐風藻』成立当時は、和歌より漢詩の方が重要視され、また漢文が公式な文書とされていた。この集が収める作品も、多くが公の宴席で詠まれたものであり、当世の気風を反映している。
 

 8日 万葉集

万葉集は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集。『萬葉集』が本来の表記。天皇貴族から名もない防人遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759(天平宝字3)以前。『万葉集』の名前の意味については、幾つかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するもの。これは古来仙覚賀茂真淵らに支持された。仙覚の『万葉集註釈』では、古今和歌集の仮名序に、

やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける

とあるのを引いている。その他にも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、古事記の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」と取る考え方である。
淳仁(じゅんにん)天皇(てんのう)、天平宝字3年以前、759

「万葉集」大伴家持編集。

 9日 続日本記(しょくにほんぎ)

桓武天皇、延暦16年、797

続日本紀(しょくにほんぎ)は平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『日本書紀』に続く六国史(りっこくし)の第二。菅野真道らが延暦16年(797)に完成した。

文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで九十五年間の歴史を扱い、全四十巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。
10日 三教指帰(さんごうしいき)

桓武天皇、延暦16年、797年。空海三教指帰(さんごうしいき)、空海

空海が青年期に著した最初の著作。3巻。三教とは儒教・道教・仏教の意,三教の中国における推移をみながら,仏教の優越を説き,聾瞽指帰ともいわれる。791年(延暦10)空海は18歳で大学に入学,未来の国吏としての儒教習得を棄ててほどなく大学を去る。その出家は忠孝の道に外れるとする親戚筋からの非難に対する反論が執筆の動機とされる。成立年には諸説があるが18歳ごろ初稿

がなり,24歳で追補完成されたらしい。儒を棄て仏を選びとった思想的根拠を確たる見識で論述している。内容は,儒者亀毛先生・道者虚亡隠士がそれぞれの教を説き,最後に仏道修行中の仮名乞児(かめいこつじ)が登場,仏教の優れた内容を説く。仮名乞児は空海自身がモデルと思われ,亀毛先生は,空海が3年間学んだ叔父阿刀大足と察せられるから自伝的要素をもつ書でもある。日本最初の思想小説でもあり,特筆すべきは思想の優劣を戯曲ふうに展開した全体の構成にある。稀有の文才が示される。  

11日 古語(こご)拾遺(しゅうい) 平城(へいぜい)天皇、大同2年、807年  斉部(いんのべ)広成(ひろなり)古語拾遺(こごしゅうい)は奈良時代文献である。 官僚・ 斉部広成大同2年(807)に編纂したもの全1巻。
12日 風信(ふうじん)(じょう)

嵯峨天皇、弘仁4年、813年 空海
空海の書信の一つ。日本書道史に残る逸品。京都・教王護国寺(東寺)所蔵。第一巻は空海から最澄にあてた書論3通。第1通の冒頭に〈風信雲書……〉とあるので古来から「風信帖」の名で俗称。第2通目の書き出しの部分に〈忽抜枉書……〉第3通目は〈忽恵

書札……〉とあるので,それぞれ「忽抜帖」,「忽恵帖」ともいわれる。空海の傑作中の傑作。この一巻はもとは3通、全体的には王羲之を示唆したもので顔真卿らの書風も反映。その筆跡は潤達自在で,唐の書の模倣を抜き出て堂々たる風格をそなえた作品。年代的には811812年前後。行草体の文字である。 

13日 新撰(しんせん)姓氏録(しょうじろく)

嵯峨天皇、弘仁5年、815年 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は平安時代初期、815に編纂された古代氏族名鑑。各氏族を皇別、神別、諸蕃に分類して、その祖先を明らかにする。日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料。「1182氏姓」が記録。

記録に見える日本氏族以外の渡来系氏族数

14日 (りょう)雲集(うんしゅう)

嵯峨天皇、弘仁5年、814年、小野岑守が主任
 勅撰漢詩集。卓越した詩文という意味から凌雲とし,また『凌雲新集』ともいう。嵯峨天皇の勅をうけ,小野岑守が主任となり,菅原清公・勇山文継・滋野貞主を撰者とし,賀陽豊年の意見も入れて撰集。782814年(延暦1〜弘仁5)に至るまでの33年間の作品91首を収める。作者は24人。

詩の配列は平城天皇から始めて作者の上位の人より配列されており,無位の巨勢志貴人で終わっている。嵯峨天皇22首,岑守・豊年が各13首,淳和天皇5首,清公4首などのほかは,それぞれ1首または2首である。5言・7言が多いが,全体からみれば7言が多い。これは唐詩の影響。平城天皇の詠桜詩はわが国の桜の漢詩の最初のもの。内閣文庫・神宮文庫に写本がある。そのほか,群書類從本が活字本としてある
15日

文華(ぶんか)秀麗集(しゅうれいしゅう)

嵯峨天皇、弘仁9年、818年、嵯峨帝ほか勅撰漢詩集。全3巻。平安時代初期(818年ごろ)成立。。三大勅撰漢詩集の2番目。最初の勅撰漢詩集は『凌雲新集』で,814年(弘仁5)ごろで,2番目が『文華秀麗集』。3番目は『経国集』で,827年(天長4)の成立。この時代は,一に唐風によるといわれ,唐風文化の最も華やかなとき。 書名の「文華」とは,文(章)の華やかなものという意味,「秀麗」とは秀れて麗しいの意味。【撰者】この集は,藤原冬嗣が勅を奉じて,菅原清公(きよとも)・勇山(いさやま)文継・滋野貞主(さだぬし)・桑原公腹赤(はらあか)らと仲雄王(なかおおう)が編さんし,仲雄王が第52代の嵯峨天皇にたてまつったものである。  
16日

経国集

淳和(じゅんな)天皇、天長4年、827年、良岑安世ら。
平安時代初頭の勅撰詩文集,20巻,現存は6巻。良岑安世が南淵弘貞,菅原清公,安野文継らとともに編集,宮廷人の漢詩・漢文を集め,827年(天長4)。
 
序文には,作者178人,詩917,賦17,対策38あるというが,現存するものはそれより少ない。詩賦は七言の律や絶句が多く,唐の影響を受けることが少なくなく,当時の貴族社会の好尚がうかがわれる。
17日 日本後記 (にん)明天皇(みょう)、承和7年、藤原冬嗣ら続日本記に続く勅撰の歴史書。六国史の三番目。 792年より833年に至る桓武・平城・嵯峨・淳和天皇の時代42年間の記録を編年体でまとめたもの。 819年に嵯峨天皇の指示で藤原冬嗣・藤原緒嗣らが編纂。 840年に完成。内容は廷臣の人物を痛烈に批判した記述に特色がある。
18日 続日本後紀 清和天皇、貞観11年、869年、藤原良房「続日本後紀(しょくにほんこうき)」は、869年(貞観11)に朝廷が編纂した仁明天皇の即位(833年《天長10》)からその薨去(850年《嘉祥3》)までの間の出来事を記した歴史書。 この時代は、古代律令国家が中国的な支配の方式の踏襲から脱皮して、日本的な代国家の仕組みを模索した時代で、政治・社会・文化のうえで大きな転換点。原本の文書を復元する作業が進められている。
19日 日本文徳天皇実録 陽成天皇、貞観13年、871年。藤原基経『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書、六国史の第五にあたる。文徳天皇の代、嘉祥3年(850年)から天安2 (858) までの8年間を扱う。略して『文徳実録』ともいう。編年体、漢文、全10巻。 序文によれば、本書の編纂は清和天皇貞観13年(871)、藤原基経南淵年名都良香大江音人らに編纂を命じた。音人の逝去後、元慶2年(878)に菅原是善を加え、基経・良香との3人で翌年879に完成成立させた。六国史中、最も期間が短い。政治関係が少なく、下級貴族の人物伝が多いのが特徴という。
20日 類聚(るいじゅう)国史(こくし)

宇多天皇、寛平4年、892年、菅原道真類聚国史(るいじゅうこくし)は六国史をジャンル別にまとめたもの、菅原道真の編纂により、892寛平4年)に完成・成立した歴史書。もとは本文200巻であったが、現存するのは62巻のみ。

神祇帝王刑法仏道風俗、といったジャンル(類聚)ごとにまとめられており、先例を調べるのに便宜を図ったもの。「日本後紀」の多くが失われているため、復元する資料にもなる。
21日 新撰字鏡(しんせんじきょう) 宇多天皇、寛平4年、892年、僧・昌住編集。日本で作られ、現存している最古の辞典。中国の字書に倣って作られたと言われ、漢和辞典のようなもの。 全12巻。約2万字を集録。
部首160に分類されており、発音、和訓なども付けた本格的な辞典。
22日 菅家(かんけ)文草(ぶんそう) 醍醐天皇、昌泰3年、900年。菅原道真献上。菅原道真(845-903)平安時代前期の人、学者、政治家、文学家。代々学者である菅原家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作るなど、幼い頃からその才能を発揮。学者としても政治家としても重職に登用・抜擢され、醍醐天皇のもとでは右大臣にまで出世。異常な出世ぶりに反感を買い嫌がらせを受けていた。左大臣・藤原時平の策略により九州・大宰府に左遷されてた(901)。道真は、配所の大宰府にて、失意のうちに亡くなる(903)  菅家文草は、菅原道真が醍醐天皇に依頼されて編纂(900年)、自作の漢詩文集。道真若年期から編集当時までの漢詩文が600作品。道真の集大成ともいえる菅家文草の編纂直後、道真は左遷された。後に編纂された『菅家後集』には、大宰府で詠まれた道真の漢詩文が集められており、左遷先での哀しみ・感傷・望郷の想いが描かれている。
 道真の文学・学問の才能は後世まで称えられ、全国各地の天満宮に
学問の神様””天神様としてまつられ親しまれている。
23日 日本三代(さんだい)実録(じつろく)

醍醐天皇、延喜1年、901年、藤原時平等日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、901年に成立。六国史の第六にあたる。

清和天皇陽成天皇光孝天皇の三代、天安2年 (858) 8月から、仁和3年 (887) 8月までの30年間を扱う。編者は藤原時平菅原道真大蔵善行三統理平。編年体、漢文、全50巻。
24日 竹取物語

醍醐天皇時代か、延喜以前、890年代か。竹取物語は、日本最古物語。光かがやくの中から出てきたかぐや姫が、竹取の翁の夫婦に育てられ、に帰っていくまでの物語。

書かれたのは平安時代の前期と考えられているまだよくわかっていない。万葉集巻十六の第三七九一歌には「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌がありこの物語との関連が疑われる。 
25日

伊勢物語

平安時代初期、編者不詳。伊勢物語は、平安時代初期に成立した編者不詳の歌物語。「在五が物語」、「在五中将物語」、「在五中将の日記」とも呼ばれる。全125段、ある男の元服から死にいたるまでをと歌に添えた物語。歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼んだりしている

(第63段)ところから、主人公には業平の面影がある。ただし作中に業平の実名は出ず、また業平に伝記的に帰せられない和歌や挿話も多い。中には業平没後の史実に取材した話もあるため、作品の最終的な成立もそれ以降ということになる。書名の文献上の初見は源氏物語(絵合の巻)。
26日 古今和歌集 醍醐天皇、延喜5年、905年。紀貫之ら。『古今和歌集』、醍醐天皇の勅命によって編まれた初めての勅撰和歌集延喜五年(905)頃成立。略称『古今集』。真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が執筆した。和歌集としてだけでなく、古今和歌集仮名序は日本最古の歌論としても文学的に重要。

天皇が勅命を出し、国家事業として和歌集を編むという伝統を確立した書でもあり、八代集二十一代集の第一に数えられる。平安中期の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』では古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたことが記されている。 

27日 倭名(わみょう)類聚(るいじゅ)(しょう)

朱雀天皇、承平年間、源順(みなもとしたごうう)和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書。承平年間 (931 - 938) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂。中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の

読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁をとる。今日の国語辞典の他、漢和辞典百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として国文学日本語学日本史の世界で重要視されている書物。 

28日 土佐日記 朱雀天皇、承平年間、紀貫之土佐日記は、紀貫之が土佐の国からまで帰京する最中に起きた出来事や思いなどを書いた日記。古くは土左日記(とさ成立は935承平5年)頃と言われる。930延長8年)から934(承平4年)土佐の国国司だった貫之 が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女の作者を装って平仮名で綴った。この時代男性の日記は漢文で書くのが当たり前であり、そのため、紀貫之に従った女性と言う設定で書かれた。57首の和歌も含まれている。執筆の内容はさまざまであるが、中心には土佐国で亡くなった愛娘を思う心情である。
29日 将門記(しょうもんき)

平安時代。『将門記』(しょうもんき)は、平安時代中期の関東地方豪族であった平将門について記した古文書の通称。「しょうもんき」と訓ずるが、「まさかどき」と言うこともある。将門記の原本とされるものは残っておらず、『真福寺本』と『楊守敬旧蔵本』の二つの写本があ

るが、いずれも冒頭部分が失われており、本来の題名はわからない。鎌倉時代頃には「将門合戦章」、「将門合戦状」と呼ばれたようである。平将門が一族の私闘から国家への反逆に走って最後に討ち取られるまでと、死後に地獄から伝えたという「冥界消息」が記されている。
30日 後撰和歌集 村上身天皇、天暦5年、951年。後撰和歌集(ごせんわかしゅう)は、村上天皇の下命によって編纂された第二番目の勅撰和歌集。体裁は『古今和歌集』に倣い、春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の二十巻からなり、総歌数は1425首。離別歌と羇旅歌とを、賀歌と哀傷歌とを併せて収めた所が独特である。 後撰和歌集の成立年時は不明だが、天暦五年(951)十月、宮中に撰和歌所が置かれ、その寄人に任命された源順大中臣能宣清原元輔坂上望城紀時文(以上、梨壺の五人)が中心となって『万葉集』の訓詁と新たな勅撰集の編纂に当たり、藤原伊尹が別当となってそれを統括した旨、史書に見えるので、遅くとも天暦末年には奏覧されたと見られる。