鳥取木鶏研究会 11月例会
安岡正篤「易学」
「運命の理法」
不易と変化
易と言うものは文字通り変わるということであります。天地自然、即ち造化というものは、大きな変化であるということを表す訳です。
変化というものは反面に「不易」「変わらぬ」ということがあって始めて変わるのであって、変わらぬということが無ければ、変わるということもない訳です。変わらぬから変わる、変わるから変わらぬ、というものが底に本体にある。
易の三義
易に三義あり、と申しまして、第一は「不易」、永劫不変であります。それに即して「変化」というものがある。
この不変に即する変化というものは最も根本的、本質的、明々白々であり、これが易の三つの意味、即ち三義であります。
易に六義
易はその原理に基づいて、どこまでも伸びていく、窮まる所が無いという訳で、易という字に伸びるという読み方があります。
又、そういう原理に従って我々の人生をつくり上げていく即ち、修める、治める、という意味もあり、これ程の神秘はありません。この点を挙げれば、易に六義ありということが出来ます。
変化創造の原理
普通、易の書物には三義を挙げておりますが、詳しく申しますと先述のように色々の意義を含むものでありまして、変化極まりない処に変らないものを含んでおります。
それを発見し体認する。そしてそれに基づいて「不変の中の変化創造の原理」を知って生活に取り入れていく、つまり人間の存在に欠くことの出来ない生活行動の原点ということになるわけであります。
易・通俗易
「不変の中の変化創造の原理」を知って生活に取り入れる、人間にとってこれくらい永久不変、切実なものはありません。元来、易は中国の周時代から特に普及発達致しまして、それが春秋から戦国時代を経て漢代になり、大体この思想体系ともいうべきものが出来上がりました。
それと同時に、民間にも次第に普及発達しました。易本来の学問というものは非常に深遠なものでありますが、これが民間に普及するにつれて色々通俗な応用も行われまして、本来の学問としての易―易学そのものと、通俗易―通俗にいう易、とは大変な相違があります。
通俗易と四柱推命
一般にはこの通俗易が一番普及しておりますから、よく知られております。そこでこの通俗易と、それに従って色々派生して参りました易に基づく民間の思想、或いは解説と言ったもの、即ち九星であるとか、方位であるとか、淘宮であるとか沢山あります。
そのうちで一番実用的に優れたものは「命理学」と申しまして運命の理、通俗には「四柱推命」と言います。四柱推命は中々複雑で難しく、一般の算木、筮竹、その他家相だとか方位だとかいうような所謂通俗易ほど普及しておりません。
四柱推命
四柱推命は、生・年・月・日・時の四つの柱から運命を推すというので四柱推命と言い、原名は「命理」―運命の理法と申しまして、これは民衆に伝わっておりますので通俗易説の中では一番内容があり、妥当性にも富んだ面白いものであります。
然し、人間はこういう理法を学んでも、いかにこの理法に従って修業するかということが肝腎でありました、どういう家庭、とどういう両親から生まれ、どういう性質だ、どういう運命だ、どうすればどうなると言うような興味本位に調べて楽しむと言うようでは真の推命学になりません。
真の推命学
真の推命学は、そういう事を調べて、それを総合して自分をつくつていく、自分の生活を創開して行くという実践的なものにならなければなりません。
然し、人間というものは、兎角当たるとか当たらぬとかいうことに興味を持って一種の博打と同じようにこれを誤用する向きも多いのであります。これは確かに大変興味の深い、またその中に理論も大いに含んでおる面白いものであるが、とかく邪道に走り易い。
「生・年・月・日・時」と干支
干支の干は幹、支はそれから派生する枝であります。干は十、支は十二ありまして、これを組み合わせますと六十になりますから、六十で還暦を迎えるわけであります。推命学は人間の存在及び生活活動を六十の範疇に分けて組み立て、これを「生年月日時」に照らして推命するのです。時間まで分かりますと、かなり面白い結果を知ることができます。
持って生まれた天分が、どういう過程で進展し変化するかということが分かります。然し、前にも申したと通り結論は、それに基づいていかに邪を去り、真を立て、つまり純化大成するということでありまして、大抵はそこまで行かず宿命的に考えます。然し、これを立命的に考えると大変応用のきく、また通俗性のある面白いものであります。
運命
私達はよく運命という言葉を使います。処が、運命というものを多くの人は、どうにもならない、持って生まれた、決まったものであるというふうに考えがちであります。
そこで運命とはいかなるものかと申しますと、命とは動いてやまないもの、天地自然というものは、永久に動いておるように、その一部分である人間の生というものも動いてやまない、創造進化をしていくものであるという意味と、運はめぐり動くというので運命であります。
宿命
処が、宿命の宿の字は、やどいう字であり、とまるという字であります。活動を停止する、休止するという意味があります。人間は母の体内から出て、呱々の声をあげた瞬間に一生のことが決まっておる。
その後の人生、即ち次第に成人して花を開き、実を結ぶ、或いは嵐にあって全うできず、中途で滅びる等のことが、きまりきっているというふうに考えるのが宿命であります。
立命
然し、自然は創造無限のクリエーション、creation
でありますから、宿命ではクリエーションになりません。
本当の運命というのは、運命の法則、理法を知ってそれに従って開拓していくべきもの、自主創造していくべきものであるというのでこれを立命と申します。
命
従って、命には、運命、宿命、立命がありますが、運命は命の全称でありますから、運命の中に宿命と立命があると考えて宜しい。処が人々はとかく宿命観に堕し易く、その宿命の内容を色々と調べることに興味を持って、九星であるとか、四柱であるとか、民間易が流行しております。
然し、本来は、あくまでも立命―自分で自分の運命を創造していくというのが本筋なので、真の易学は、宿命の学問ではなく立命の学問であります。これは易を学ぶ者の最初によく知っておかなければならぬ大事な点でありまして、これを忘れますと易は卑俗になります。
平成19年11月7日 徳永圀典