易学再考 その一
「序説」  

昨今は非常に変化の激しい時代、世界的に大変化あるいは大転換の時代、The age of the great change に在る。東洋では古来、易という学問があり、これが至れりつくせりにこの偉大な「変化の理法」を説いている。それはスタティックな学問でなく、ダイナミックな学問である。

トインビー

トインビーの「歴史の研究」という書物は世界的に有名だが、第一次世界大戦の直前にドイツのシュペングラーという哲学者・歴史家が、「沈みゆく黄昏の国」、或いは「西洋の没落」という書物を著して一世を風靡した。                                                                           

「人類の歴史は、一時見事に花を開いた民族の文明がやがて脆く散って行く、つまり文明ははかなく滅びる。世界の歴史というものは、幾度か文明の花を開かせた民族が、栄えては滅んでいった歴史である」ことを描写したのである。

シュペングラー   シュペングラーはドイツ人であるから「我々が誇りにしておる近代ヨーロッパ文明も既に黄昏に達し、やがて太陽が沈むように滅び去るのだ」とした。ヨーロッパ文明のことを「沈み行く黄昏の国」と名づけたので大変な刺激となり論議を呼びました。

「歴史の研究」と「易」

トインビーのこの書物も、シュペングラーに非常に影響を受けたものだが、彼が世界20有余のかって見事に開花し、やがて滅んでいった国々の文明を丹念に調査研究した結論はシュペングラーと同然であった。                          

そこで大変煩悶して「何とかこの行き詰まりを打開できないものりか」と考えていた時に、その道を開いてくれたのが、彼が不図(ふと)とした縁で知るに至った東洋の易学であった。これにより彼は窮地を脱したと申しますか、兎に角活眼を(ひら)くことができた。

 

「易」とは東洋において最も古い思想学問であると同時に、常に新しい思想学問でもある。要するに「易」とは、宇宙―人間の実体、本質、創造、変化というものを探究したもので、20世紀の今日にもその価値が再認識されたのは当然であります。然し、西洋では、特に新しい興味を喚起したようであります。                                         

日本では易の研究が次第に民衆化すると共に、その歴史的、学問的真義というものは専門家に蔵まつてしまって、当たるとか、当たらぬとか、専ら人間の運命、宿命というものを覗くものであるという具合に通俗化してしまい、シュペングラーとかトインビーのように苦心研究した学問に活路を拓いたというような意義価値等から遠ざかりました。易が民衆化するにつれて一つの脱線をして通俗化したのであるが、変態的問題である。

本筋にかえりますと、千古不変の思想学問であります。従って中々難しいものであります。

易の予備知識  

第一に、易という字は一般に使われておる通り、()わるという意味、変化するという意味をもっております。世界は常に変化する。停滞したり固定しない。つまり維新であります。                 

易とは人間、人生、生命等に関する維新の研究・維新の学問であります。俗にいう運命を予言するというようなものでないことをまず自覚しておく必要があります。

易普及の弊害      

思想とか学問は民間に普及するに従って、それだけの効果もありますが、同時に弊害もあって、通俗化すると異端、邪説におちいりやすい。暦というものを通じて易というものが又通俗化し、例えば「大安は吉日であり、仏滅は凶日であるとか、丙午の年に生まれた女は男を食い殺す」というようなことが普及致しまして、その弊害たるや測り知れないものがあります。大安の日を選んで婚礼―殆ど、これが世間の決まりのようであります。科学的ということを万能視しておるような人が、さて自分の息子だの娘だのの結婚式になると大安の日を選びます。やはり親の身になると弱いもので、俗説に従う。

暦の歴史から

大安のことですが、これはとんでもない間違いであります。暦の歴史を尋ねますと、その代表的なものの一つは安倍晴明(平安中期)で、中国唐で研鑽を重ね、帰国後宮中の陰陽寮の長官に就任して専ら暦の普及にあたりました。                                                                       またその子孫は代々、陰陽寮の長官に就任しましたので、この暦は主として皇室を中心に定着しました。また民間には加茂暦といい加茂氏が代々伝承して参りました暦、この二つが代表的であります。 

加茂暦による大安とは

加茂暦によりますと、大安とは一般に解釈されるような意味ではなく、「大いに安かれ、安んぜよ」、この日は安らかに居るがよい、静かにしておるのがよいというのが本当の意味であって、安泰を要する日で、何をしても大丈夫という意味ではなく、むしろ逆といって宜しい。

真理が世俗化すると、まるで正反対なことにもなりがちであります。大体、運命というものがそうでありまして、世間の人々の考える運命というものは、本当の運命とはおおよそ反対であります。