哲学すると言うこと
哲学すると言う事を難しく考えている人々がある。哲学するとはどう言うことか。
毎日、あらゆる現象が起きて連続して流れている。その表面現象だけでの対処のみで、やり過ごしているのが多くの人間であろう。
表面現象は、言うならばバブル、即ち泡沫であり、問題の本質から現れる様々な形態だと考える。バブル、泡沫の表面現象から本質を洞察するのが徳永流哲学である。
即ち、哲学するとは、私の流儀で言えば「その現象の、物事の本質を考える」ことであらうと思う。常に本質を考える事が哲学する事なのである。
この大自然、宇宙というものは、相対立し、相待つ、即ち相対(対立)と相待(待つ)の原理で動いていると思う。
例えば、男と女がある。男が陽で女が陰であるとは易経による謂いである。
樹木で言うと、枝や葉っぱは陽である。幹とか根が陰である。
枝葉は根に依存しつつ伸びる、ここで根すなわち陰が弱いと枝葉は伸びない。陰と陽の相対と相待の意味が理解できる。
その木の根と枝葉、男と女は、相対し、相待つ関係で成立している。単独では絶対に生きていかれないのが大自然の本質である。相対立しつつ相待って成長し、生存する。
枝葉と言うのは陽で、これが茂りに茂り繁茂すると、太陽があたらぬから虫が入り、幹も腐ってくる。やがて、根もやられてしまう。だから植木屋は、鋏でちょきちょきと剪定して樹木の適切な成長を維持している。陰陽の原理の分かり易い事例である。
この原理は広く適用できる。
人間の男と女との関係も然りであります。
文明でもそうであり、一定の期間文明が繁茂し繁茂すると必ず腐敗して文明も息が絶えて滅びるのは歴史が証明する処であります。
では、人間の場合はと言うと、人間の枝葉の知識は陽である。知識が過剰になると、頭デッカチになると、人間がおかしくなってくる。知識過剰は、樹木で言えば、枝や葉が繁茂している事である。それに対して陰の原理とは人間で言えば反省であろう。
科学とか枝葉は人間の本質ではないのであります。科学は枝葉の学問。科学がいくら発達しても、否、発達すればする程、陽の発達であり、人間がおかしくなる、だから人間の元、徳性に帰る努力をしないといけない。あのips細胞のウソつき森口の如き人間となる。
樹木であれば、枝や葉を剪定する事で陰の原理が働き適切な生存の条件が整えられる。
人間の場合は、知識の頭でっかちを「中」の状況にするには、どうすればいいのか。
それは、人間の本質は「徳性」であるから、内面の、心の充実を測ることである。徳性の充実である。それには、色々な方法があろう。脚下照顧のことでもある。
汗をかくのもよいことだ。我々の会のように、古典をひもとき内省することも必要である。ボランティアをやり無心に汗を流すことも良いかもしれない。
スポーツをする事も効果があろう。それは、みな陽原理の反対の陰原理に作用することである。
瞑想をして、自己の内省、反省をすることも陰原理の適用である。内省は求心力を働かす最も効果のある陰原理適用であります。
「禅」なども瞑想による救済方法でありましょう。
知識過剰による「自我」、「自意識」過剰は生命エネルギーの消耗なのであります。
生命エネルギーを補充する事こそ現代人に最も必要なのであります。文明が爛熟し、人間生活が枝葉の繁茂の状態となっておるからであります。
我、我、自我、自我意識過剰の状態は枝葉の繁茂と同様であります。
人間、頭を空っぽにしなくては、生命の充実とならないのであります。
健康な熟睡こそ、頭を空っぽ状態であり、最高の無我、無意識の状態であります。現代はストレス社会で社会的安眠など中々得られない。
坐禅とか瞑想は、強制的に無我、無意識をつくろうとするものであります。これは凡人には中々難しいことでもあります。
そこで、私は、山に登ることが知らずに無我、無意識を作っており、いつしか頭も空っぽになり、生命エネルギーが補充されているのだと確信しておるのであります。
きつい登山で太ももが翌日、パンパンに張っていても気持ちは充実しておる。山に登ると生命力が充実して来るのであります。元気になるのであります。
山に登ると、企画力も身についてきます。行程ルートとか準備とか、アクセスの企画とか記録です。
現代人は、知識偏向になり過ぎております。頭を空っぽにする事が陰の原理になっておるのでもあります。
男は、外に外にと外向的です。女房の意見も聞くのも陰の原理として効用があるのであります。
この世界、大宇宙は、陰と陽のバランスの上に成立しております。相対立し、相待つ、人間の体も弱アルカリ性が健康と言うではありませんか。
このように考えてくると、例えば、中庸ということがとても大切な要素だとなります。一つの薬とか食べ物が良いからと云ってそれだけでは弊害さえ生じてくる。
この大自然は、全て無駄なものはないのではないか。偏向しない食べ物こそ、宇宙の原理に適っている。
何故なら、我々人間自体が大自然そのものの産物だからである。