「勲章」一思考
私は勲章に全く興味がない。それは民間人だからという意味だけではない。頭の中に安岡正篤先生が、叙勲をお断りなさったということを知っているが故でもない。
元々、勲章は天皇の直臣の付与されるものであった。
いつの間にか財界人さえ、受勲に奔走するようになり見苦しい気持ちを持った。地方公務員、即ち「陪臣」さえそれを希求するようになり不快感を持っていた。
体操の若い選手、白井クンなど20才で紫綬褒章を受章した、こんなのは拍手喝采である。大いに奨励したいとさえ思う。
反日的政治家、日教組のドンと言われた民主党の山梨県出身の、知性も教養の欠片も感じられない興石東クンが旭日大授章、防衛大臣した民主党の北沢俊美君、岡山県選出の神経質な民主党の法務大臣・江田五月クンが桐花大綬章、なんてのは、
「何だいな」、貰う方も罪悪感が無いらしく、バカバカしいの一語に尽きる。
ここで、ふと気づいた、若い時に反日した、こんな汚れた連中が叙勲される、貰う方も貰う方だが、これは人間最後になると、あれだけ反日しても貰っちゃうのですね。罪悪感の欠如した無責任野郎なんですがね。
ここで、思うのは、この
国というか、日本と言うか、天皇様からの叙勲の
効用の特色です。
これは、叙勲は、国の「徳」、否、「天皇の徳」なんですね。
こうして日本国の「徳」が国民に行き渡る、
国民に反体制的な、興石クンみたいなのも、抱擁し、
包含してしまう効用があるのですね。
時間が経てば、一世代の時間が経てば、日本の天皇は、左も、右も、反日も、大きく包含していることになる。
これが「天皇の徳」でしょうね。
中国とか、韓国の人間が、金が出来たら自国を脱出する歴史的現実があります。
これは、その国の政府とトップに、歴史的に「徳」が無かったからですね。革命の国だから「徳」が断絶しているのです。国の徳がないのです。
そういう意味での叙勲の効用とか作用を認識しているのであります。
まあ、いいとするか」
平成28年11月7日
鳥取木鶏会 会長 徳永圀典