政治と国家を考える@  鳥取木鶏会レジメ 117

「乱れ亡びる国の主」  呂氏春秋 戦国時代の秦の宰相呂不韋がその食客たちに編集させた思想書

亡国の主は必ず自ら驕り、必ず自ら智とし、必ず物を軽んず。自ら驕れば士を(おろそ)かにし、自智とすれば専独し、物を軽んずれば(そなえ)無し。備無ければ禍を召き、専独なれば位危く、士を(おろそ)かにすれば(よう)(そく)す。

  国を亡ぼす君主というものは決まっている。自ら驕り、自ら智恵あるとし、人を軽蔑する。自分が驕れば人材をいい加減に取扱い、自ら智恵あるとすれば専制独裁をやる。相手を軽んずれば備えが欠ける。何事があってもびくともしないという用意がなくなる。備えがないと禍を招き、独裁をやると地位が危なくなる。人材を軽んずると全てが塞がれてくる。国会を見ると甚だしいものがあり異常である。こんなことでは日本を亡ぼす外国からの手が延びてくる。 (天地にかなう人間の生き方)

「政治家の資格」   出典=中説  王通 隋代の儒学者・王通と門弟たちとの対話記録。

士曰く貧賤に処して(おそ)れず。以て富貴なる()し。(どう)(ぼく)其の恩を称して以て政に従ふ可し。交遊其の信を称して以て功を立つ可し。貧賤の境遇に打ちひしがれないでいられる人こそ富貴の地位に値する人なのだ。召使どもが有り難がると言う人で初めて民を治めさせて宜しい。政に従わせてよろしい。これは実に(がい)(せつ)です。友人、知人がこぞって信用する人にして初めて社会的に役立つ仕事が出来る人なのだ。
特に「(どう)(ぼく)其の恩を称して」には、なる程と感心さ
せられる。役所や会社に行ったら、大臣だ、重役だと威張っているけれども、その召使だとか、料理屋、お茶屋などという所へ行き、その仲居や女将などに言わせると、クソみそなのが随分多い。こんなのは本当の政治家の資格はない。         (禅と陽明学)

「誤解しあう程に理解しあえれば」

子曰、民可使由之。不可使知之。 論語 泰伯第八―九

士曰く、民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」
この「民は之に由らしむべし」の、まず「由る」というのは、文字通りに依る-頼る-信頼する、という意味です。「之」は民衆を指すのでありまして、民衆をして信頼せしめよというのであります。政治家と云うものは、民衆から信頼を受けるようにならなければならないとの意。
後半の「之を知らしむべからず」は知らしめてはならない、と言うことではない。民衆に知らせる?理解させるということは、難しい?中々できない、と言うことです。そういう訳であるから、何はともあれ政治家というものは民衆から信頼される人間でなくいはならない、こういうことであります。    (人間の生き方) 
「政(まつりごと・政治)は正なり

季康子問政於孔子・孔子對曰、政者正也。子帥而()正、敦敢不正。     論語 顔淵第十二の三

季康子、政を孔子に問う。孔子對えて曰く、政とは正なり。

子帥いて而して正しければ、敦か敢えて正しからん」 
まさにこの通りで、政は正しくなければならない。政が間違っていてはいけない。間違うと云っても、過ちはまだいい。処が正は邪に対する。もう一つ偽に対する「正邪」「正偽」というのが相対的な問題で、また、従って相対的な用語であります。政は正でなけれぱならないというのは、政は邪であってはいかん。偽であってはいかん、と言うことです。それが近頃の世の中を見ると、いかにも邪・偽が酷すぎます。こういう時に、世を良くしよう、世界を良くしようとしたら、「これを帥いるに正を以()てする」人物が輩出するほかにない。これは論語に書いてある通りです。  (人間の生き方)

                     記 徳永圀典