田中角栄と石原慎太郎
石原慎太郎の知事時代のガバナンスが東京都行政の諸悪の根源でありましょう。彼は法律的には違反ではないが、週二回の出勤であった。
都民の行政に対して、真摯でなく、副知事任せにしていたのであろう。大きな穴を開けていたのは都民銀行失敗400億円損失だけではなかった。
石原は、やはり、まじめ、真摯に都政を総覧していなかった、その「ツケ」が出ている。
田中角栄は、苦労人で人情の機微を心得ており人間・役人の心理を知っていた。それだけなら良いがカネを彼らにバラまき過ぎた。第一、政治家になりあの目白の御殿をものにするなど、やはり可笑しい。
どこか間違っている。
安岡正篤は宰相の師と言われ、歴代総理が先生の前で屹立の礼を取っていた。私はこの目で見ている。師とは、そういうものであります。先生の前での、師友会の聞学起請文の朗読の緊張感を私は忘れません。戦前は荒木大将をして師と呼ばせた安岡正篤、戦後は平成の年号、終戦の詔勅の事前検閲、佐藤栄作、福田、大平の師であった。田中角栄だけ安岡正篤を学ばなかった。素養が欠落していた外交事例がありましたね。
記憶しておられますか、「言必信行必果」。
「言必ず信、行必ず果」、日中国交回復の時、中国の周恩来がスピーチでこの論語は「子路」の一節を引用しました。
通訳がこれを咄嗟に訳せなかった。それで周恩来が自らテーブルの紙に書いて田中首相に手渡した。
すると田中角栄は、
「日本にも同じ言葉がありますよ。「信用は万事の基」と答えた。
皆さん、どう思いますか。
これを後で聞いた安岡正篤が激怒されたのです。
周恩来が引用した一文は、「小人」、つまらない人間の条件として述べられた一節だったのです。
その意図を見抜けなかったのだ・・・。
二十、子貢問曰、何如斯可謂之士矣、子曰、行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣、曰、敢問其次、曰、宗族称孝焉、郷党称弟焉、曰、敢問其次、曰、言必信、行必果、脛脛然小人也、抑亦可以為次矣、曰、今之従政者何如、子曰、噫、斗肖之人、何足算也、
読み、
子貢問いて曰わく、何如ぞ、すなわちこれを士と謂うべき。子曰く、己れを行うに恥ずるあり、四方に使いして君命を辱しめず、士と謂うべし。曰く、敢えてその次を問う。曰く、宗族は孝を称し、郷党は弟を称す。曰く、敢えてその次を問う。曰く、言えば必ず信、行えば必ず果、コウコウ然として小人なるかな。抑も亦以て次と為すべし。曰く、今の政に従う者は何如。子曰く、噫、斗肖(としょう)の人、何ぞ算うるに足らん。
現代語訳
子貢がお尋ねした。どのような人物でならば士というか。先生がお答えになった。「行動する時に恥の気持ちを持ち、外国への使節として君主の威厳を辱めることがない、これは士だろう」。子貢がお尋ねした。さらなる士の条件について教えて下さい。先生、「親族から孝行者と呼ばれ、郷土の人々から年長者を敬うと賞されることだ」。子貢はさらに聞き、まだ士といえる条件は。先生は答えられた。「言葉に真実があり、行動は果敢で迷いがない。これは、がちがちの小人ではあるが士といえる」。子貢が言った。今の為政者はどうでしょうか。先生は言われた、「ああ、器量の小さな小人ばかりで、数え上げる必要もない」。
確かに、古今東西、外交は、宰相の、当事者の、教養素養が試される場なのであります。
これはエグゼクティブの社会、大企業、上級指導者、経営者、管理者の教養が試される場でもあるのです。
田中角栄は試されていた。やはり、かかる人物の治世だから多くの人間を堕落させてしまった。
安岡正篤の薫陶を受けた経営者が第一線を引き、田中角栄に象徴される「古典教養」に欠けた人物が、
政財界に君臨し始めた辺から、日本はバブルという名の「拝金主義」、その後の「失われた20年」に突入したままであります。
古典は、人間洞察数千年の叡智の蔵なのですね。田中角栄には、それが欠けていた。
そして、石原慎太郎も先人に学ぶことなく、自らに厳しさが欠けていた。
平成28年11月7日
鳥取木鶏会 会長 徳永圀典