徳永万葉集その二 平成23117

さて、万葉集を始めましたが、いかがでありましょうか。秋たけなわであります。今月は、「秋」に因んだ歌を拾ってみました。

先ずは、やはり歌聖・柿本人麻呂です。

1. 宇陀の安騎野  1-48 柿本人麻呂

ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて

  かへりみすれば 月かたぶきぬ

有名な歌です。雄大、雄渾の歌と言われる。

昔は「東野炎立所見而(あづまののけぶりのたてるところをみて)」という風に()んだそうですが、江戸元禄時代の学者・賀茂真淵が「ひんがしの野にかぎろひの 立つ見えて」と云ってから、その訓み方が定着したと言われる。賀茂真淵は、遠江国浜松の賀茂神宮の神主岡部家の生。真淵の学問は万葉集注釈的研究、万葉歌風とその精神を把握、古代精神の特質、古道の精髄を明らかにしたと言われる。真淵の古典精神とは、「ますらおぶり」であり、対する中古文学の「たおやめぶり」に比して、力強い精神であると共に、真情の率直な表現をもつ精神である。本居宣長の先生。

ご存知のように、日本の古代は文字を持たなかった。古事記の伝承は口承でしたね。稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗誦したものを太安万侶が古事記編纂しました。

漢字の音読みと訓読みです。

「音読み、漢字を古代支那で発音したままの音で読むこと。

「訓読みは、漢字を日本での意味を当てはめて読んだ読み方です。

中国語は原則的に「一字一音一意」、発音が一音の方が音読みです。
人:「ジン」一拍だから音読み
  「ヒ・ト」二拍だから訓読み
新:「シン」一拍だから音読み
  「ア・タ・ラ(・シ・イ)」たくさんだから訓読
歌:「カ」一拍だから音読み
  「ウ・タ」二拍だから訓読み
目:「モク」一拍で音読み
  「メ」一拍だけど訓読み

太安万侶の墓は、光仁天皇陵のすぐ近くにある。昭和54年1月18日に発見された太安万侶の墓は、それまで非実在説もあった太安万侶が実際に生存した人物であった事を証明した。古記録の信憑性を一層高める事にもなった。墓の底に木炭が敷き詰められ その上に墓誌の銅板が置いてあったので、太安万侶と特定できた。屍は火葬され、その後 改葬されていた。近くの森の中には太安万侶を祭神とする、延喜式神名帳に見える「小杜神社」がある。

「左京四条四坊(じゅ)四位下(よんみげ)勲五等太朝臣安萬侶(おおののあそんやすまろ)(みずのと)()年七月六日(かのと)之養老七年十二月十二月乙巳(きのとみ)

の銅版の墓誌が茶畑で発見された。

延喜式(えんぎしき)神名帳(じんみょうちょう)

延長5年(927)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。

延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)式社(しきしゃ)といい、一種の社格

「神名帳」は古代律令制における神祇官が作成していた官社の一覧表のこと、官社帳ともいう。国・別に神社が羅列されており、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などについては記載がない。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座するの数は3132座である。

式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。

干支

1
甲子

2
乙丑

3
丙寅

4
丁卯

5
戊辰

6
己巳

7
庚午

8
辛未

9
壬申

10
癸酉

 

 

11
甲戌

12
乙亥

13
丙子

14
丁丑

15
戊寅

16
己卯

17
庚辰

18
辛巳

19
壬午

20
癸未

 

 

21
甲申

22
乙酉

23
丙戌

24
丁亥

25
戊子

26
己丑

27
庚寅

28
辛卯

29
壬辰

30
癸巳

 

 

31
甲午

32
乙未

33
丙申

34
丁酉

35
戊戌

36
己亥

37
庚子

38
辛丑

39
壬寅

40
癸卯

 

 

41
甲辰

42
乙巳

43
丙午

44
丁未

45
戊申

46
己酉

47
庚戌

48
辛亥

49
壬子

50
癸丑

 

 

51
甲寅

52
乙卯

53
丙辰

54
丁巳

55
戊午

56
己未

57
庚申

58
辛酉

59
壬戌

60
癸亥

 

 

 

正位と従位  正位は死者に対しの贈位

余談が過ぎました。まあ、こうして古代史も学習して行くのであります。

かぎろひ  朝の第一番の光です。この歌の

雄大さ、雄渾さ、を感じます。

軽皇子(後の文武天皇)が安騎野に宿りましし時の歌とある。

軽皇子のお父さんは、有名な草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子供)。天武天皇崩御の後に父の思い出の狩りの場所にきたわけです。草壁皇子は天皇になることなく27歳で早世。岡宮御宇天皇の称号が贈られている。

ここは高原です。この歌は692年、持統天皇61117日の作。軽皇子は10歳。

山また山の高原、その夜明け、父親を偲んでの歌、父親の霊魂の現れそうな凄愴な感じもする。

朝がすみ 巻2-88 (いわの)(ひめの)皇后(おおきさき)

第16代仁徳天皇の皇后。葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘。
民間から、皇后になった最初の女性。五世紀前半。履中、反正、允恭の三天皇の母。記紀によると大変に嫉妬深い女性。
仁徳天皇と他の女性との関係で悩み、宮中を出て山城の国筒木宮で生活する。「天皇を思ひて作りませる歌四首」は有名。相聞歌です。

2.君が行き()長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ    巻2-85 

あなた様のお出かけは随分と日が長くなった、やりきれないから、山を訪ねてお迎えに行こうかしら。この方は竹内宿弥の孫、
3.
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根(いわね)()きて死なましものを   巻2-86 

家にいて、こんなに恋い続けてなんかいないで、いっそ出かけて行き、高山の岩の根を枕にして死んでしまってもいいわよ、でしょうかね。

すると三番目は、

4.ありつつも君をば待たむ打ちなびく我が黒髪に霜の置くまでに    巻2-87

やはり、家に居続けて、貴方を待つことにします。この長く靡いている黒髪に、夜の霜が降ったっていい。

そこで四番目が

5.秋の田の穂の()()らふ朝霞いづへの方に我が恋ひやまむ      巻2-88

秋の田んぼ、想像できますか、田の穂の上に、もうもうとかかっている朝霧です。朝霧は、もうもうとして晴れないですね、恋の思いは、これだというわけです。秋の田の穂の上に霧らう朝霞の、その形が、そのまま私の心だと。もうもうとして晴れない,「いづへの方に我が恋やまむ、どちらを向いたら私の恋心は無くなるのだろうか、なくならない、というわけです。

一番目は「迷っている。」第二番目は「絶対行く」

三番目で、やはり夜霧が降りたって待っていよう。

四番目で、とうとう徹夜したみたいですね。ため息をつく感じですね。どこまで行っても止まない恋心を実によく表現している。

この皇后のお墓は、奈良平城京の北側、磐姫皇后坂上陵としてある。静かないい所の素適な陵です。

四つを、続いて歌ってみましょう。

6. 小倉の山  巻8-1511 舒明天皇

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は

     今夜は鳴かず ()ねにけらしも

岡本の天皇の御製とある。飛鳥の岡本の宮で治世された舒明天皇。夕されば、は去るのではなく、進行形。場所は櫻井市の近郊らしい。鹿の鳴き声は、キーンというような声、夕方の静かな空気の中はよく響く。今夜は聞こえない、寝たのだな。妻を得て、安らかに寝たのだなという気持ち。人間の気持ちを注入している、きれいな歌でする。人口に膾炙していますね。

7.暁露       大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)

 (わが)背子(せこ)を 大和へやると さ()()けて

    あかとき露に 吾が立ちぬれし 巻2-105

大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は大津皇子の姉。大津皇子となると歴史を話さねばなりません。悲劇の皇子・大津皇子、話せば長いのですが。

大津皇子の父は「天武天皇」、崩御されたのは68899日、皇后の「鵜野(うのの)皇女(ひめみこ)」は大津皇子を殺しておかないと我が子・草壁皇子が困ることになる。策略をするのです。新羅僧・行心という人相見に言わせる、「貴方はとても普通の人ではない。天皇になるべき人だと暗示する」。それで大津皇子は天皇になる以外にないと決心し行動を起こす。

姉の大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は伊勢の斎宮となって13才の時から伊勢にいる。大津皇子は24才、姉は26才。伊勢の姉に会いに行く。秘かに伊勢神宮に行く。夜遅くなっても帰らなくてはならぬ、多分、鈴鹿山脈、青山峠を越えるのでしょうね。姉と謀反の話でもしたのでしょう。姉は、気が気でないでしょう、家の中に入る気もしないでしょう。いとしい弟、我が背子を大和へ返すのは姉としては忍びない。「さ夜更けて、あかとき露に」、いい言葉ですね。夜の11時から午前3時までのことらしい。あかとき露に自分は立ち濡れて心配していたのです。もし発覚して謀反が起きれば、弟は殺される。

この世の別れかもしれない、ああ、あの山を弟は大和へ帰って行く、どんな気持ちでいるのだろうかと。弟に愛情を寄せる素晴らしい歌です。

大和へ帰ると、親友の川島皇子がいて、遂に、この大津の坊っちゃんは秘密を洩らした。川島皇子は天智天皇の息子だから、身を守ることか苦しい。とうとう、川島皇子は、皇后の「鵜野(うのの)皇女(ひめみこ)」に一部始終を密告した、102日でした。だから、直ちに捕えられ、翌日には絞首刑となったのです。

母が違うだけの兄弟、兄弟が故にこのような悲劇。

大津の母・大田皇女は、草壁の母・鵜野皇女の姉、

大田皇女はすでに死亡していた。

皇后として実権を握るのは妹・鵜野皇女。姉妹である母親たちがこの大津皇子の運命を定めてしまった。

『懐風藻』は大津皇子をつぎのように紹介する。

皇子は浄御原の帝の長子なり。

状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す。これによりて人多く附託す。出来る人物だった。

懐風藻は、天平勝宝三年(西暦751年)に成立、我が国最古の漢詩集。撰者は未詳です。 「懐風」とは「古い詠風を懐かしむ」という意味で、「藻」は美しい詩文のこと。
近江朝(七世紀後半)以後約80年間における64名の漢詩約120首を作者別、年代順に配列されています。

今は飛鳥の都ですが、次ぎは藤原京
694-710(持統8-和銅3)持統・文武・元明天皇三代の都。畝傍・耳成・天香具山の三山に囲まれた地域にあって、飛鳥京に対して(しん)(やくの)(みやこ)と称された。京内は条坊制により東西、南北に大路・小路が走り、薬師寺、紀寺などの寺院が営まれた。

大津の皇子の有名な歌があるのです、

8.(もも)(つた)ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く(かも)

   今日のみ見てや 雲隠りなむ 巻3-416

今日と言う、今日を最後にして、この水鳥を見たまま、自分は死んでゆくのであろうか。

その磐余の池の水に、二上山がきれいに写るのです。にじょうさん、或は、ふたがみやま、有名な印象深い山です。ここに大津皇子の石碑があります。私は幾度となく登山しました。人気の山なのです。

大津皇子は24才にして、絞殺されます。大津皇子の奥さんは山辺(やまべの)皇女(ひめみこ)、これも天智天皇の娘、日本書紀によると、この皇女は髪をふり乱して裸足で処刑場まで走って夫が事切れている姿を見て自殺してしまう。

大津皇子の屍は、葛城の二上山に移し葬った。遠くに葬り隠そうとした。二上山には、雄岳と雌岳があります。雄岳の山頂に埋葬した。

9.姉の大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は弟の死を分って、歌を詠む。

現身(うつそみ)の 人なるわれや 明日よりは

  (ふた)上山(がみやま)(いろ)()とわが見む   巻2-165

生身の私は弟の幽冥境を異にしている。生身の人間である私は、明日からは、せめて二上山を弟と思って見よう。

10.  大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は続けて歌う

磯の上に ()ふる馬酔木(あしび)を ()(おら)めど

 見すべき君が ありといはなくに  巻2-166

磯の上に生えている馬酔木を手折ろうと思うけど、それを見せてやる弟はこの世にいると誰も言わない。

口惜しい気持ちがよく現れていますね。人に隠す為に二上山に埋葬した鵜野(うのの)皇女(ひめみこ)の思惑は外れた。この山は却って有名になってしまっている。大津皇子は悲劇の皇子として今てでも人気が高い。

天皇の代が変わり、即ち天武天皇が亡くなると、姉の斎宮さんの大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は斎宮を止めて大和に帰った。