蘇我氏は何処からきたか。
平成27年11月

1日 註 蘇我氏

 

出自は不詳。(かばね)は臣。本拠は大和高市郡蘇我の地らしい。大和朝廷の財務、対外関係を掌握して六世紀前半以来、稲目(いなめ)馬子(うまこ)蝦夷(えみし)()鹿(るか)と代々大臣(おおおみ)になり、大化改新の際、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに宗家は滅ぼされ傍系が石川()(そん)として存続。
2日

註 物部尾輿

生没年不詳。六世紀中ごろ大伴金村と並んで大連となった。金村の朝鮮政策の失敗を責めてこれを退け大連を独占。欽明朝の仏教伝来の際、中臣氏とともに排仏を主張し蘇我稲目と対立した。
3日 註 古語拾遺 古来、中臣(なかとみ)()と並んで祭政にあずかってきた斎部(いんべ)()が衰微したので嘆き、その氏族の伝承を記して朝廷に献じた書。記紀にみえない伝承も少なくない。一巻。807年、大同2年、斎部広成の撰。
4日 註 三蔵 斎蔵(いみくら)、内蔵、大蔵の総称。最初、斎蔵があり、その後、内蔵を建て、官物を神物と分離しておさめ、さらに政府の官物と皇室の私物を分けるために大蔵を建て、(はた)()(あや)()(ふみ)()などの渡来人がそり管理・出納を司ったという。

蘇我氏はどこから来たのか?

5日

蘇我氏の出自

権謀術数策を以て、急速にのし上がってきたと見られる蘇我氏は、一体どのような性格の豪族なのか。系譜上では、第八代孝元天皇の血筋を引く皇別氏族とされていますが、私は崇神天皇以前の架空の天皇に出自が求められている氏族には帰化系氏族が多いという考えに立ち、また蘇我氏に関するさまざまな状況証拠からみて、百済からの高句麗系帰化人であろうと考えます。
6日  蘇我氏の名 蘇我氏の名は、「()(ちゅう)天皇紀」210月条に「平群木菟(へぐりつくの)宿(すく)()蘇賀(そが)()満智(まちの)宿(すく)()物部伊こ(もののべのいこ)(ふの)大連(おおむらじ)葛城(かつらぎの)(つぶら)大使(おお)(おみ)、ともに国事を執れり」とあるのが初見です。
7日  雄略天皇のとき

また、「古語拾遺」には雄略天皇のとき「更に大蔵を立て、()(がの)()(ちの)宿(すく)()三蔵(みつくら)(けん)(ぎょう)せしむ」と記されており、蘇我氏はその文筆能力をかわれて帳簿記録を主職務とするような財務官吏から中央政界に進出してきたことが窺われます。

8日 韓子宿弥 蘇我氏の系図では満智(まちの)宿(すく)()の子が韓子(からこ)宿(すく)()で、この韓子宿弥は「雄略天皇紀」99月条で新羅征討軍の将軍の一人として派遣されています。この韓子(からこ)という名前ですが、これは朝鮮に渡った日本人の将兵や宮司らと韓人の女との間に生まれた子どものことを指す言葉です。
9日 韓人の出自

従って韓子(からこ)宿(すく)()満智(まちの)宿(すく)()が韓人の妻との間に生まれた子どもであろうと推測されるばかりか、恐らく蘇我氏が元来、韓人の出自であったために韓人の女を“妻”とし、韓すなわち朝鮮の状況に詳しいために新羅遠征軍の将軍となったのであろうと考えられるのです。

10日

さらに、韓子(からこ)宿(すく)()の子は高麗(こま)と呼ばれています。言うまでも無く高麗とは高句麗のことです。蘇我氏は百済からの帰化人であるとすれば、百済の支配層はもともと高句麗と同じ扶余(ふよ)族であり、その出自は扶余、即ち高句麗系ということができ、名前に高麗とつけても不自然ではないわけです。

11日 渡来人

ついでにその渡来の経緯まで想像してみれば、蘇我氏が第五世紀後半になって突如として中央政界に登場することから、渡来の時期は百済が高句麗の長寿王の侵略を受けて滅亡の危機に瀕した475年、このころ、朝鮮を追われるようにして日本に渡来してきたものと考えて無理はないと思います。

12日

蘇我氏の系図

武内宿弥-蘇我石川宿弥満智宿弥?韓子高麗--稲目
馬子-蝦夷入鹿
     -女子
--倉麻呂ー倉山田石川麻呂-赤兄-連子
13日

蘇我氏帰化人説が解く仏教受容の理由

蘇我氏を百済からの帰化氏族であったとみれば、蘇我氏が仏教普及の強力な推進者であった理由もおのずとうなずけます。つまり、蘇我氏は百済にあったころからの仏教信奉者の集団であり、仏教受容を進めたのは自然のこととみられるわけです。また、そうした蘇我氏であったればこそ、故国の百済から朝廷へ正式に仏教を伝えさせたと言えます。
14日 蘇我氏の女から生まれた聖徳太子

さらに、後に聖徳太子が仏敵を倒すという蘇我氏に与して物部氏討伐の軍に参加されたのも、蘇我氏の女から生まれた聖徳太子が、仏教的環境の中で成育されたことが大きく影響していたと考えられます。

15日 蘇我氏への加担

仏教崇拝の素養を身につけた聖徳太子は、まだ14歳という若さもあって、ただ蘇我氏の呼びかけに無批判に応じてしまわれたと考えてよいでしょう。仏教崇拝の帰化人氏族の中で生育と年齢を考えれば、本来、政治的信条に反するはずの蘇我氏への加担という行動をとられのもむべなることと言えるのです。

16日 35講 仏教受容と物部氏の滅亡

新旧二大氏族の対立の構造

物部・蘇我氏の対立 欽明朝に入って大伴金村が失脚させられましたが、その失脚劇を主導した物部氏は、当然、それまでの大伴氏に代わって勢力を占めました。しかし、その大伴・物部の旧豪族同士の対立り間隙を縫うようにして勢力を伸ばした蘇我氏も、物部氏と対立するほどの勢力へ成長していたのです。
17日 蘇我独裁体制を目指す

もともと物部氏による大伴氏追放も、蘇我氏が陰で糸を操っていたとみられ、大伴氏が消えたいま、蘇我氏は今度は物部氏を追放して独裁体制を目指すのです。もとより、物部氏の方にしても、大伴氏追放で共同戦線を張った蘇我氏が次ぎの標的であることは重々承知していたはずです。

18日 経済力によって伸長してきた進歩的勢力帰化系蘇我氏

この蘇我・物部両氏の対立は、単に似たような有力豪族が権勢を争ったという構図ではありません。物部氏はいわば、旧豪族の代表であり、蘇我氏は帰化人勢力や台頭してきた新興勢力の代表とみることができます。また、物部氏が軍事力に依存する保守的勢力であるとすれば、蘇我氏は経済力によって伸長してきた進歩的勢力であったと言えます。

19日 伝統を重視する物部氏

伝統を重視する物部氏に対し、帰化系民族である蘇我氏は日本古来の伝統に縛られず、新しい技術・文化の導入に積極的でした。即ち、蘇我・物部の両氏はさまざまな面で、対照的であり、その対決は宿命的なものだったと言えます。

20日−21日

仏教の公伝と帰化人勢力の伸長

仏教公的伝来年代比較表

西暦

日本書紀

法王帝説

水野私案

備考

AD600

-595

推古天皇

 

推古

 

590

崇神天皇

 

崇神

 

585

用明天皇

 

用明

 

580-575

備達天皇

 

備達

 

570-540

欽明天皇

32

欽明天皇

41

欽明

35

仏教伝来は欽明13年壬卯歳(日本書紀)

百済王仏教に関する願文を上奉(日本書紀)

535

宣化天皇

 

 

仏教伝来戌午歳(法王帝説)

欽明7

(元興寺縁起)欽明3

 

安閑天皇

 

安閑

 

 

空位

 

 

 

530?

AD510

継体天皇

25

 

継体

21

 

 

武烈天皇

 

 

 

22日 欽明朝のころ

上宮(じょうぐう)聖徳(しょうとく)法王(ほうおう)帝説(ていせつ)」では538年、百済王が仏教を公伝したと言います。

23 日本書紀 また「日本書紀」では552年に、百済の聖明王が仏教を賞賛する上奉文とともに金剛製の釈迦仏像や経綸を日本に伝えたと言います。時期については様々な説があるのですが、いずれにせよ、仏教公伝の時期が欽明朝のころであったことは確かです。
24日 公伝以前

仏教は公伝以前にも既に渡来人たちによって私的にもたらされていたわけで、そうした帰化人を中心にした勢力が、公伝を働きかけたことは間違いないでしょう。

25日 扶桑略記では

「扶桑略記」によれば、既に522年に案部(たらべの)村主(すぐり)司馬(しば)(たつ)()が大和国に草堂を建立して本尊を安置したとありますが、帰化系氏族である蘇我氏なども同様に仏教を私的に信仰し、その勢力の伸長とともに朝廷に対して仏教の受容を促したのです。

26日 政治的口実を提供した仏教

帰化人勢力を中心にして流伝された仏教は、新しい宗教文化の受容という意味を有するだけでなく、政治的支配のイデオロギーとして新興勢力を支え、旧勢力を打倒する政治的口実を提供することとなります。

27日 註 
上宮聖徳法王帝説
最古の聖徳太子伝。一巻。著者未詳。奈良時代初期の成立か。太子の誕生、一門、仏法興隆の事績などを記す。
28日 経綸 仏陀の説法を集成した経と、経を注釈した論。
29日 扶桑略記 神武天皇から堀河天皇に至る間の漢文の編年史。叡山の僧・皇円著。もと30巻、現存のものは残欠本で、16巻と抄本を伝える。(りっ)国史(こくし)以下の典籍及び寺院関係の古伝により条に出典を掲げているのが特色
30日 司馬達等 生没年不詳。仏教伝来のころ活躍した渡来人。「扶桑略記」には522年に来朝とあるが不詳。崇仏派の蘇我氏と結んで仏教文化受容の初期に大きな役割を果たした。