日本海新聞 潮流寄稿 平成11年6月2日

ある書簡1.

人生の大先輩に対しまして、若輩の私ごときが、未熟な体験にも拘らず、而も人類の英知でもあります古典に就いてお話しすることは身の縮む思いでございます。このような心境でございますので、古典についてお話申し上げると言うことではなく、常日頃私が古典について自分自身に言い聞かせていること等を自分なりの考え方を述べて御批判を仰ぎたく存じます。次に私の古典についての原体験と申しますか、古典との出会いそして、恐らくその原体験に誘発されましたでありましょう、その後の私の日常生活での活学方法について述べてご批判を仰ぎたく存じます。

先ず私が自ら言い聞かせていることでございます。優れた古典は字面だけ読んだだけでは到底わかるものではないと思う事であります。古典はいずれも血が通い、たくましくしたたかに生きた人間の命の躍動であり時代や社会の違いにより同じ内容でも表現の異なるものもあれば逆に表現は似ていても内容の違うものもございます。従いまして古典は落ち着いた気分で自分の体験と深い思索を通して読まねばとても本当に理解し得ないと思うものであります。

言い換えますと、古典の人と同じく、即ち老子なら老子、孔子なら孔子と同じく血の出るような生き方をしなくては本当に分からないのではないかと思うのであります。然し乍ら、心の琴線に触れる言葉が如何にみち溢れていいることか、時にうなづき乍ら熱い思いすら覚える事もしばしばございます。
兎も角、私は自分自身に対してでありますが、分かったつもりの表面的な理解や、良く分かっておらぬのに安易なコメントは深く慎みたいと思っておるものでございます。では、どおやって読んでいるかでございますが、私は心で噛み締めながら読むと申しますか、心で読む即ち心読をして自分の内側に目を向ける為に日々接することにしております。

宋時代、黄山谷の言葉に〔士大夫三日書を読まざれば即ち理義胸中に交わらず。便ち覚ゆ、面目憎むべく、語言味なきを〕がございますが、こうしなくてはとても不安な気持ちがするのも事実でございます。
人夫々の読み方があっていいと思うものであります。ただ、その古典はどれも素晴らしくて、人生の年輪を加える毎に古典の味は深まるばかりに思う昨今であります。噛み締めれば噛み締める程に味がでる。年令と共に思いがけない発見がある。そして、人間の内側に目を向けて自分の真の姿を知るためにも、また、自分自身の分裂を防ぐためにも、今後とも読みたい、もっと時間が欲しいと心から思っております。人間生活の内面に目を向けると人間の本質は昔も今もそれ程に変わらぬものだと共感すら覚えるのであります。

次に私の古典についての原体験を述べて見たいと思います。終戦の日、私は鳥取一中の二年生で五月より肋膜縁のため休学しておりました。病床にて終戦の詔勅を聞きました。その中に大人の話が耳に入る。ソ連が攻めてくると。その時本能的とも言える恐怖感を私は今でも忘れることが出来ません。一方で中華民国にいた日本の軍隊は陸続と無傷で復員してくる。身近な人も帰国し再会に歓喜する。やがて聞いた事は、悪のカタマリのように言われていた蒋介石総統が〔怨に報いるに徳を以てす〕と言ったと。私はこの壮大なる徳の実践とも申すべき歴史的事実を今尚決して忘れることができません。偉い方だな、立派な方だなと少年時代に心底深く刻みこまれたのであります。敬することを知ったのだと思っております。後にその言葉の出典は"老子"であると知りました。これが私にとって古典との出会いと申しますか感動的な原体験であります。やがて四十代の本格的興味へとつながってゆく遠因になったと考えております。

さて、四十代となり組織の長となり、人間は或いはリーダーたるものはどおあるべきか、多くの部下をもつ者は日々苦心するものであります。当時、偶々、当代の碩学安岡正篤先生が住友銀行支店長会で十回に亙り講義された。それは東洋思想十講、現在は"人物を修める"と言う本になっておりますが私は偶然のことから安岡正篤先生と面識を得ることとなるのでございます。(続く)
                               鳥取木鶏クラブ 代表 徳永圀典