佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その七 岫雲斎補注  

平成23年12月度

 1日 179.   

投剤と施政

虚実強弱を弁じて、而る後(ざい)投ず可し。時世習俗を知って、而る後(せい)施す可し。 

岫雲斎
平素、病人の体質が虚弱か強壮かをよく見極めた上で投薬する如く、その時代の国家内外の情勢、世論を知悉して政治を行うべきである。

 2日 180
 

全体と永遠を想え

一物の是非を見て、大体の是非を問わず。一時の利害に拘りて、久遠の利害を察せず。政を為すに此くの如くなれば、国危し。 

岫雲斎
一つの物の是非のみで全体のそれを問わない。また目先の一時の利害のみに拘泥して長い目での利害を勘案しない。為政者がこのようであれば国家は危い。

 3日 181

人情の気機
人情の気機(きき)は一定を以て求む可からず。之を(いざな)いて勧め之を禁じて(とどむ)むるは順なり。之を導いて反って()し、之を抑えて益々(あが)るは逆なり。是の故に駕馭(がぎょ)の道は、当に其の向背(こうはい)を察し、其の軽重を(つまびらか)にし、勢に因りて之を利導し機に応じて之を激励し(それ)をして自ら其の然る所以を覚えざらしむべし。(これ)を之れ得たりと()す。 

岫雲斎

人間の情とか心は一定の規則によらない。
時には誘って勧めたり、時には禁じて止めさせるのは順当なやり方である。
反対に誘導して却って悪を阻止したり、抑圧し却って盛んにならせてしまうのは逆手である。
民衆を誘導するには彼らの向う方向、反対する所を察して、物事の軽重をよく把握し、勢いを活用して有利に動かし、機会を捉えて励ましたりする、こう云う事が最も良いと覚らしめる、これが人を使う極意である。

 4日 182. 

難事に処する道

処し難きの事に()わば、妄動することを得ざれ、須らく幾の至るを(うかが)いて之に応ずべし。 

岫雲斎
難問に遭遇したら妄りに動かぬことじゃ。じっとして時を待つ、好機到来の機会を伺い、対応策を講じるがいい。

 5日 183
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私心を挟むな

事を処理するに理有りと雖も、而も一点の己れを便ずるもの、(さしはさ)みて其の内に在れば、則ち理に於て即ち一点の障碍を()して、理も亦()びず。 

岫雲斎

自分に理が有っても、事の処理は、僅かでも自己便益の私心が挟まれておれば、道理上の障碍となり道理が通じなくなる。

 6日 184
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人を教うる道

人を教うる者、要は須らく其の志を責むべし。聒聒(かつかつ)として口に(のぼ)すとも、益無きなり。

岫雲斎

人を教える者の大切なポイントは、立志が固いかどうかがポイントで、その他は口やかましく云わない方がよい。

 7日 185

慎言五則 その一

饒舌(じょうぜつ)の時、自ら気の暴するを覚ゆ。暴すれば(ここ)()う。(いずく)んぞ能く人を動かさんや。 

岫雲斎

多弁を弄している時、我ながら気の乱れているのを感じる。気が乱れると道理を欠いているものだ。道理の欠けたものでは人を動かすことは到底出来ない。

 8日 186
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慎言五則 その二

言を慎む処、即ち(おこない)を慎む処なり。 

岫雲斎
言葉を慎むことは行いを慎むことである。これは中々至難なことだ。人間修養の根幹かも知れぬ。言葉は「徳の響き」という言葉もある。

 9日 187
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慎言五則 その三
昏睡して(たわ)(ごと)を発するは、心の存せざるを見るに足る。 

岫雲斎

眠っている時に、うわごとを言う事は心が確固としていない証拠である。うーむ、きつい。

10日 188.   
  
慎言五則 その四

狂を病む人は言語に(じょ)無し。則ち言語に序無き者は、真の病狂を去るや遠からず。 

岫雲斎
気の狂った人間は言葉に順序がない。言葉に順序無き人間は狂人と変わらぬ。

11日 189
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慎言五則 その五

人は最も当に口を慎むべし。口の職は二用(によう)を兼ぬ。言語を(いだ)し、飲食を()るる是なり。言語を慎まざれば、以て()(まね)くに足り、飲食を慎まざれば、以て病を致すに足る。諺に云う、(わざわい)は口より出で、病は口より入ると。 

岫雲斎

人間は最も口を慎まねばならぬ。
口は二つの職務を持つ。
一つは言葉を発し、今一つは飲食を取り入れる。
言葉を慎まぬと禍を招く、飲食を慎まないと病気を招く。

諺にあるではないか「渦は口より出て、病は口より入る」と。

12日 190.

欲は制すべし

此の()(かく)を同じゆうすれば、則ち此の情を同じゆうす。聖賢も亦人と同じきのみ。故に其の訓に曰く、(おごり)は長ず可からず。欲は(ほしいまま)にす可からずと。(ごう)(よく)も亦是れ情種なり。何ぞ必ずしも之れを(だん)(めつ)せん。只だ是れ長ず可からず、(ほしいまま)にすべからざるのみ。大学の敖惰(ごうだ)も、人往々にして之を疑えども、吾は然りと謂わず。 

岫雲斎

人間はみな同じ身体と感情を持っている。聖賢も我々人間と同じだ。
だから教訓である礼記の「驕りを増長させてはならぬ。
欲望は放縦にしてはならぬ」の通りである。
驕りも欲望も我々の感情の一つであるからこれを殲滅しようとしても出来ることではない。
ただ濫りにそれを増長させたり放縦にしないことである。
大学も「驕り怠け過ぎるな」と戒めている。
世の中の人々はこれを疑問視するが自分はそれには不賛成である。

13日 191.

その心を問うべし
枚乗(ばいじょう)曰く、「人の聞く無からんことを欲せば、言う()きに()くは()く、人の知る無からんことを欲せば、()す勿きに若くは莫し」」と。(せつ)(ぶん)(せい)以て名言と為しき。余は則ち以て(いまだ)しと為すなり。凡そ事は当に其の心の如何(いか)なるかを問うべし。心(いやし)くも物有らば、已れ言わずと雖も、人将に之を聞かんとす。人聞かずと雖も、鬼神(きじん)将に之をうかがわんとす。 

岫雲斎

枚乗(ばいじょう)の発言、「人に聞いて欲しくないと思うなら言わないこと。
人に知られたくないなら、しないこと」。

(せつ)(ぶん)(せい)はそれを名言だと言った。
然し、自分はそれでは物足りぬ。一切は心を問うべきだと思うからだ。
仮に心にわだかまりがあれは、自分は言わなくても人がそれを知ろうとするであろう。人が聞こうとしなくても、鬼神がこれを知ろうとするからである。
要は心があればそれは人間には判らなくても神は知るであろうか。

14日 192.

心の火の如し
心は()お火の如く、物に()きて体を()し、善に著かざれば則ち不善に著く。故に芸に遊ぶの訓、特に()れを善に導くのみならず、而も又不善を防ぐ所以なり。博奕(ばくえき)()むに(まさ)るも亦此れを以てなり。 

岫雲斎

人の心は火のようなものだ。火は物につけば燃えるように心に火がつけば形を作り、善につかなければ不然につく。孔子「芸に遊ぶの」の教訓は人の心を善へ誘導するばかりでなく不善防止ともなる。
双六や囲碁は感心しないが何もしないより良いと言ったのもこの理由によるものだ。

15日 193.

心服させる言

(ことわり)到るの言は、人服せざるを得ず。然れども其の言激する所有れば則ち服せず。()うる所あれば則ち服せず。(さしはさ)む所有れば則ち服せず。便ずる所有れば則ち服せず。凡そ理到って人服せざれば、君子必ず自ら(かえ)りみる。我れ先ず服して、而る後に人之れに服す。 

岫雲斎
道理の行き届いた言葉に人は従わないわけには参らぬものだ。だがその言葉に激しいものがあると決して従わない。押し付けられる感じかあると服従しない。身勝手な私心を見抜かれたらこれ又服しない。自己の便宜を図る意図があると従わない。道理があるのに拘わらず人が従わない時、君子は反省する。そして自ら心から服従してこそ他人は納得するのである。これは真言である。

16日 194.       

聖人・禹の態度
禹は善言を聞けば則ち拝す。中心感悦して、自然に能く()くの如し。拝の字最も善く(うらわ)せり。猶お膝の覚えずして屈すと言うがごとし。 

岫雲斎
聖人と云われた禹王は、善い言葉を聞くとその人を拝礼した。心から喜びを感じ自然とそうなったのである。拝の字がよくそれを表現している。思わず膝を(かが)めるようなものである。

17日 195
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欲心と道心

人心()れ危ければ、則ち堯・舜の心即ち(けつ)(ちゅう)の心即ち堯・舜なり。 

岫雲斎
人間の欲望が盛んとなり人心が危険な状態になると、堯・舜の聖人のような人間も悪逆非道な(けつ)(ちゅう)の如くになる。また道理に従う心があれば(けつ)(ちゅう)のような人間も堯・舜のようになるものだ。

18日 196
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水気、山気、地気

水気(すいき)結びて(ぎょ)(べつ)()る。魚鼈は即ち水なり。而れども魚鼈は自ら其の水たるを知らず。山気(さんき)結びて禽獣と為り、草木と為る。禽獣、草木は即ち山なり。而れども禽獣、草木は自ら其の山たるを知らず。()()の精英結びて人と為る。人は即ち地なり。而れども人自ら其の地たるを知らず。 

岫雲斎

水気が凝結して魚や(すっぽん)となったのだから、彼らの本質は水である。

だが彼らは自分が水であるとは知らない。
山気は同様に禽獣や草木となるから禽獣草木は山であるがそれを知らない。
地気は凝結して人間となったのだから人間の本質は地である。
然し、人は自らが地であることを知らない。

19日 197         

人も物も地である

人と万物とは畢竟(ひっきょう)地を離るること能わず。人と物と皆地なり。今(こころみ)(しば)らく心を六合(りくごう)の外に遊ばせ、以て世界を俯瞰せんに、()だ世界の一弾丸黒子(こくし)の如きを見るのみにして、而も人と物とは見るべからず。是に於て思察す。「此の中に(せん)(かい)有り。山岳有り。禽獣、草木有り。人類有り。渾然(こんぜん)として此の一弾丸を成す」と。著想(ちやくそう)して(ここ)に到らば、(すなわ)ち人と物との地たるを知らん。 

岫雲斎

人も万物もこの地から離れることは出来ない、皆、地の気で出来上がったものだ。

試しに、心を天地の外に遊ばして、この世界を俯瞰して見たら、世界は一つの小さな球が見えるだけで人も物も見えぬであろう。

この小さな球の上に、川も海も、山も禽獣も草木もある、人類もいる。

これらが一塊になりこの地球を作っている。

ここまで考えると人も物も元々、地であることが分かる。

20日 198

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わが心は天なり
此の心霊昭不昧(しょうふまい)にして、衆理(そなわ)り、万事()ず。果して何れよりして之を得たる。吾が生の前、此の心何れの処にか(ほう)(ざい)せし。吾が没するの後、此の心何れの処にか帰宿(きしゅく)する。果して生没有るか。無きか。著想(ちゃくそう)して此に到れば、凛々として自ら(おそ)る。吾が心即ち天なり。 

岫雲斎

人間の心は、少しも(くら)からず、多くの道理も内在して霊妙なるものであり万事はここから発している。

かかる霊昭な心は何処から得たものであろうか。生前、この心は何処より放たれたものか。また死後は、どこに帰着するのであろうか。この心は果して生没があるのか。
このように考えると、凛々として私は懼れ慎む気持ちになってくる。理由は、我が心は実に、実に天そのものだと感得するからである。

21日 199

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勉励のすすめ

人の受くる所の気、其の厚薄の分数、大抵相()たり。躯の大小、寿(じゅ)(しゅう)(たん)、力の強弱、心の智愚の如き、大に相遠ざかる者無し、其の間に一処の厚きを受くる者有れば、皆之を非常と謂う。非常なるは則ち(しばら)く之を置く。(すなわ)ち常人の如きは、躯と寿と力との分数、之を奈何(いかん)ともすべからず。独り心の智愚に至りては以て学んで之を変化す可し。故に、博学、審問、慎思(しんし)も明弁、篤行(とっこう)、人之を一たび十たびすれば、己れ之を百たび千たびす。果して此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず、(あきらか)に、柔なりと雖も必ず強く、以て漸く非常の域に進む可し。蓋し、此の(ことわり)有り、(ただ)だ常人は多く遊惰(ゆうだ)にして然する能わず。()に亦天に算籌(さんちゅう)有るか。 

岫雲斎

人間、生を受けてからの気は厚薄あるも大体同じようなものである。
身体の大小、寿命の長短、力の強弱、馬鹿と利巧の度合は大きな差異はない。

特に一箇所だけ厚く受けた者があれば、皆それを非凡という。

非凡は別にして、常人の分け前はどうすることも出来ない。
一つだけ、心の利巧、馬鹿は、学ぶ事により変化させ得る。
だから、中庸に「博く学び、審らかに之を問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う。
人一たび之を良くすれば、己は百たび、人が十なら自分は千たびする。
この道をよくよくすれば、愚と雖も、間違いなく明となり、柔と雖も必ず強くなる」とある如く、この心掛けで日常怠らず励行すれば常人以上の域に到達することが出来る。

ただ、常人の多くは、この努力が出来ない。
これは天の計らいがあるのであろうか。

22日 200

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不肖の子多し

有名人の父、其の子の家声(かせい)(おと)さざる者(すくな)し。或ひと謂う、世人(せじん)其の父を推尊し、因りて其の子に及ぶ。子たる者(かん)(よう)に長じ、且つ(さしはさ)む所有り。遂に傲惰(ごうだ)の性を養成す。故に多く不肖なりと。(もと)より此の理無きに非ず。而れども独り此れのみならず。父既に非常の人なり。(いずく)んぞ(おもんばかり)(あらかじ)め之が防を為すに及ばざらんや。畢竟(ひっきょう)之を反りみしむる能わざるのみ。蓋し亦数有り。(こころみ)に之を思え、(すなわ)ち草木の如きも、今年実を結ぶこと多きに過ぐれば、則ち明年必ず(けん)ず。人家乗除(じょうじょ)の数も、亦然る者有り。 

岫雲斎

有名人の子供で家名を落とさない者は少ない。

某氏言う「世間が父親を尊敬し、その子まで誉める。

贅沢で子供は成長し父親の名を鼻にかけ、そして傲慢で怠惰な性格を身につける。

だから多くが愚か者となる」と。
かかる理由はあるが、これだけではない。
父親は既に優れた人物である、だからどうして、父親は子供に対する防止策を考えないのか。
予防の考えがあっても、多忙で手が届かない間に子供は既に転落して父親が子供に反省させる事が出来なかったというだけではないか。これは運命であろう。
考えて見よ、草木でも、今年の結実が多すぎると翌年は必ず不作となる。

人間の運命の盛衰も同様ではなかろうか。

23日 201.

神だのみ
人、(さいかん)(かか)れば、鬼神に(いの)りて以て之を(はら)う。(いやし)くも誠を以て?(いの)らば、或は以て(しるし)得可(うべ)し。然れども猶お(まどい)なり。凡そ天来の禍福には、数有りて、趨避(すうひ)す可からず。又趨避する能わず。鬼神の力、(たと)い能く一時之れを(はら)うとも、而も数有るの禍は、(つい)に免るること能わず。天必ず他の禍を以て之に()う。(たと)えば頭目(とうもく)(やまい)(これ)腹背(ふくはい)に移すが如し。何の益か之れ有らむ。故に君子は(したが)いて其の正を受く。 

岫雲斎

災難や心配事があると、神様に祈って払おうとする。

誠の心で祈れば効験はあるだろう。それでも人間は迷うものだ。

禍や幸は、運命であり避けるべきものでもないし避けられないものだ。
鬼神の力で一時的に払ったとしても運命により禍は
結局免れ難いものである。

天の神は必ず他の禍をもたらす、頭や目の病気を背や腹に移すようなものだ。

祈っても益はない。

だから君子は「天理に従い身を修め、正当な運命を受け容れる」と孟子は言っている。

24日 202

気運の流行と対峙
吉凶、理を以て之を言えば、君子は常に吉にして、小人は常に凶なり。気を以て之を言えば、流行有り對待(たいたい)有り。盛衰(たが)いに至るが如きは、是れ流行なり。憂楽相遇(あいぐう)するは、是れ對待なり。 

岫雲斎

道理で言えば君子は常に吉、小人は凶である。
現象の気によると流行なるものがあり吉と凶は交々である。盛と衰が互いに互換するのは流行で、憂いと楽しみが共に互いに現れるのが對待である。

25日 203.  

大丈夫の心境

天下の憂、一身に集るは凶に非ずや。天下の楽、一身に帰するは吉に非ずや。天下の楽を()ける者、必ず天下の憂に任ずれば、則ち吉凶果して何の定る所ぞ。召公(しょうこう)云く、(かぎり)り無く惟休(これよ)けん亦彊り無く惟れ(うれ)えんと。 

岫雲斎
天下の憂いを一身に集めるのは凶であろう。天下の楽しみを独占するのは吉ではないか。然し天下の楽しみを一身に受ける者は天下の憂いを解決すべき責任がある。従って吉凶は何処にあると見るべきか。周の成王に仕えた召公は「窮まりなくこれをよけん、窮まりなくこれを憂う」と云ったが天下を治めんとする者は「天下の楽しみを楽しみとし天下の憂いを憂いとする」ということであろう。

26日 204


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良知と良能

(けん)()を以て(つかさど)るとは、良知なり。(こん)は簡を以て能くすとは、良能なり。乾坤(けんこん)(たい)(きょく)()べらる。知、能は一なり。 

岫雲斎
乾、即ち天が易々と万物を統べているのは人間の良知に相当する。
坤、即ち地が簡単に森羅万象を成育させているのは人間の良能に当たる。

乾坤、則ち天地は根源の太極に統べられているから良知も良能も同じものなのである。

27日 205

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悪と善
()(きた)れば宇宙内の事、(なん)(かつ)て悪有らん。過不及(かふきゅう)有る処即ち是れ悪なり。看来れば、宇宙内の事、曷ぞ嘗て善有らん。過不及無き処即ち是れ善なり。 

岫雲斎
考えてみれば、宇宙のことで悪ということは本来あるわけはない。過ぎたり、及ばぬことが悪なのである。同様に善というものは本来あるわけはない、過ぎたり及ばなかったりしないのが善である。

28日 206

万物一体

万物相待ちて用を為し、相兼ぬる能わず。是も亦其の一体たる所以なり。 

岫雲斎
万物は、相寄り相待って役目を果たしている。互いに兼ねることはできない。それは万物が根底に於て一体であるからだ。

29日 207
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形質相似
形質相似たる者、気性も亦相類す。人と物と皆然り。 

岫雲斎
表面的形や性質の似たものは、気性とか外形も似ている。人間でも物でもみなそうである。

30日 208
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君子は人相を見ず

相法(そうほう)は道理()きに非ざれども、然れども其の人を惑わすこと(すくな)からず。故に君子は為さざるなり。(じゅん)(けい)の非相、言は武断なりと雖も、而れども亦説破して痛快なり。 

岫雲斎
人相を観るのは道理が無い訳ではないが人を惑わすことも少なくない。だから道理をわきまえた人間は人相を観ない。荀子の非相篇に人相を観る事は道理でない、と述べているのは思い切った言で痛快である。易を知る者は(ぼく)せずと同じであろう。

31日 209
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音楽の妙

雅楽感召(かんしょう)の妙は、百獣率いて舞い、庶尹(しよいん)(まこと)(やわら)ぐに至る。蓋し聴く者をして手の舞い足の踏むを覚えざらしむ。何ぞ(かつ)(ねむり)を思わんや。(てい)(えい)淫哇(いんあい)なる如きも、亦人をして手舞い足踏ましむ。故に以て雅楽を乱るに足るのみ。(すなわ)ち知る。魏の文候古楽を聴きて、唯だ臥せんことを恐れし者は、恐らくは已に先王の()(そう)に非ざりしことを。 

岫雲斎

高尚な音楽は人心を感動させ佳境に入ると動物たちが舞い踊り多くの官僚達も和むようになる。

このような音楽は聴くものをして手の舞い足の踏むのを忘れさせるもので決して眠りを招くものではない。

鄭国や衛国の淫らな音楽でも聴く人をしてそうさせるから正しい音楽が撹乱される。

禮記、楽記篇にある、魏の文王が古楽を聴いて眠くなったと言っているが、これはその音楽が先王の作った高雅な音楽でなかつたのであろう。