人物と教養C 平成24年12月  安岡正篤先生講話 

    第三講 人間の根本義 

平成24年12月

31日 ()

(しょう)老死(ろうし)

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愛と(しゅ)によって「()」、実存の世界に達する。いろいろ煩悩による悪業(あくごう)を重ねて、(ごしょう)の原因をつくってゆく。
(しょう)老死(ろうし)
そうして、「(しょう)」「老死(ろうし)」となって輪廻(りんね)転生(てんしょう)してゆく。と言うのが十二因縁であります。

30日 (じゅ)

(あい)

(しゅ)


(じゅ)
このように一定の限界を以て触することを「(じゅ)」と言うておるのです。無明・行という言わば過去の二因によって、識・名・色・六入・触・受の現在五果(げんざいごか)を生じ、

(あい)
この五果(ごか)を受けて「愛」、欲情が起る。
(しゅ)
その欲情を追求するのが「(しゅ)」で

29日 名色(みょうしき)

六入(ろくにゅう)

(そく)

名色(みょうしき)
この識が因となって「名色(みょうしき)」、客体としての複雑な表現の世界が始まるわけです。と同時に識は成長と共に色々の意識活動を作り上げてゆく。
六入(ろくにゅう)
そうして名色(みょうしき)からやがて「六入(ろくにゅう)」、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官ができ、出胎(しゅったい)して「(そく)
(そく)
いろいろの経験の世界が始まる。然し、その経験は決して無限ではない。例えば、我々の視覚にしても、光の全てをキャッチすることはできません。キャッチできるのは一番波長の大きな赤から紫までの七色で、その外側の赤外線・紫外線は光として捕えることはではない。

28日 (ぎょう)

(しき)

(ぎょう)
その無明が「(ぎょう)」、前世における行為を生み、
(しき)
(ぎょう)から「識」が生まれる。識は、過去一切を記憶するところ、つまり意識の世界で、ここで初めて入胎(にゅうたい)する。

27日 無明(むみょう)

我々には生まれながらにしてその根本に複雑・深刻な因縁があって、それによって生々流転しておるのであるが、その一番の因が「無明」である。無明は生きんとする盲目的意思とも言うべきもので、煩悩・迷いの根元である。

26日 十二因縁

この苦集滅道の四諦に基づいて人生の一つの解釈をしたのが十二因縁であります。十二因縁とは、無明(むみょう)(ぎょう)(しき)名色(みょうしき)六入(ろくにゅう)(そく)(じゅ)(あい)(しゅ)()(しょう)老死(ろうし)の十二を言います。

25日 道とは

昔、或る僧が師家に「道とは如何なるものですか」と訊ねた。師家は「道か、道ならそこにあるではないか」と言って垣の外を指した。それで、僧が「私の訊ねているのはそんな道ではありません、大道-仏の道を訊ねているのです」と言うたら、師家・言下に答えて曰く「大道なら、それあの通り都の長安に通っておるではないか」。仏の道というでも別段変わった道があるわけではない、実践の過程でそれを踏んでゆかなければ目的地に到達する事が出来ないも、それが道なのです。

24日 道諦(どうたい)

道諦は、その滅諦に達するための修行のことで、つまり実践して初めて目的を達成することが出来るわけです。

23日 滅諦(めつたい)

その苦を滅した解脱の境地が滅諦。

22日

集諦(じったい)

そうして、苦を余す所なく点検するのが集諦、
21日 苦諦(くたい)

苦諦は、人生は苦である事を認識すること。シヨウペンハウエルも大分この影響を受けております。

20日 仏教について
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四諦(したい)十二(じゅうに)因縁(いんねん)十如(じゅうにょ)()
さて、仏教と言うても、例えば釈迦の伝記から入るとすると、いくら時間があっても足りませんので、元来活学ですから、自由に今回は先ず原始仏教を理解する上で大切なもの、四諦・十二因縁から始めます。四諦は、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つを言います。
19日 東洋文化の本義

その我々の学問や教養の立本ということを考える時に、必ずぶっつかるのは東洋文化の本流である儒教、仏教、道教、神道等の諸教であります。我々は少なくとも、これらの教の根本義に対して、正しい認識と理解を持つ必要があります。そこで、肝銘深い道元老婆心の話のついでに、これから仏教にはいって、儒教や老荘に進み、最後に神道で締めくくるという順序で話を進めて参りたいと思います。

18日 一燈照隅を

今年はこういう内憂外患をきびきひと是正して、本筋にもってゆかねばなりません。と言うても、これを独り政治家に求めたり評論家に求めても、どうなるものでもありません。やっぱり国民の有識者・指導者の堅実な常識や良心、勇気を持った人々の一燈照隅に待たなければ達成できません。こういう時局になると単なる知識でばダメでありまして、全てに見識というものが必要です。そして、見識が出来ると、自ら勇気が生じて参ります。然し、その見識を養うには、我々の生活、感情、情操、学問、思想、教養といったものを雑駁・煩瑣にわたらせないで、本を務め・本を立てることが大切であります。

17日 外国勢力は国内の間隙を狙う

このまま進むと自由主義国はソ連や中共に屈従せざるを得なくなりましょう。北洋における漁業が思うようにならないとか、日中貿易が一方的に先方によって左右されるとかいう間はまだよいのですが、やがて一歩進むと、相手は戦わずして勝ちを収める。即ち日本に彼等の思うようになる傀儡政権を樹立して、それによって日本を自由にするわけです。現にその為に、先ず野党を連合させてこれを手先とし、同時に自民党の中に左派をつくって、この両者に国民連合の形で政権を握らせようと、丁度1848年のチェコ共産革命の時と同じ戦術を日本に用いようと、彼らは着々と手を打ってきておるのを知らねばなりません。

16日 質実剛健を

これに較べると、ソ連、中共などの共産主義国家は甚だバーバリズムの国であります。文明が頽廃すると、リ・バーバリゼイションが始まる、ということは歴史の教訓でありまして、一つ文明が頽廃すると必ず一方に於て野蛮復興、復朴還(ふくぼくかん)(しん)が現れてきます。ソ連、中共はその顕著な例でありまして、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの文明国が堕落し始めると、これらの国の指導者は好機到来というわけで、質実剛健を旗印に国民生活を犠牲にして、軍国主義政治を強行しております。

15日 麻薬

その極端な例は麻薬の流行です。ヘロインのようなものはまだしも、この頃はLSDというように化学合成の強烈なものができて、その患者が激増するにつれて、文学や芸術までサイケデリツクなどと言うてヒッピーとかフーテンとか言うものが文明国の若者たちの間に発生して参りました。世界一と言われるアメリカの麻薬患者は100万を超えると言われています。日本ははっきりした事は分りませんが50万は下らないと予想されています。事実、それに伴う精神病、神経患者が意外な程激増しております。そういう点から見ても、今や文明の頽廃、民族の文弱、堕落は覆い隠すことのできない現実となってきておるのでありまして、このままゆけば近代文明諸民族、自由主義国家は近い将来に於て衰退、滅亡して行くことは明瞭であります。

14日 外患 外患についてみましても、今の日本は本当に恐るべき状態になっています。何よりも国民に危機の意識が足りません。足りないだけでなく、危険な傾向を強める現象が深刻になっています。第一に、今、日本の国内に於て、民主主義思想と共産主義思想の二つの勢力の対立が次第に激しくなってきておるということです。それから、自由主義国は戦後アメリカを先頭に、ヨーロッパ諸国も日本も、大変な経済繁栄を実現しました。処がその繁栄に伴う頽廃・堕落によって、段々人間が惰弱になり文弱になってきておるのです。これは国家・民族にとって由々しき問題と言わなければなりません。
13日 一燈照隅・万燈遍照 私は多年「一燈照隅」(伝教大師が弟子達に与えた教訓)ということを唱道して参りました。自分の存在が如何に小さくささやかであっても、一燈となって一隅を照らして行く、そうすればやがてそれが百、千、万と集れば万燈遍照、あまねく社会を照らし、国を照らすことになる。自分を棚に上げていくら公害を論じても何にもなりません。国民の一人一人が夫々一燈照隅を行じて、光明の社会にもってゆくより外に公害の解決方法はないのであります。
12日 公害汚染問題

去年の九月、海洋科学の理論家達が集まって国際会議が開かれましたが、その時の報告によりますと、実に恐ろしい結果が出ています。何でも一昨年の一年間に世界中のタンカーが運んだ油は10億トンに達し、その中の500万トンから1000万トンの油が海上に流出している。その為に既に北極洋まで汚染されているということです。またソ連やアメリカを初めフランス、中共など盛んに核爆発、核兵器の実験をやっていますが、もうそれによる汚染は人間の手によって洗浄することは不可能なところまで来ておるそうであります。
然し悲観論では何も解決しません。「人事を尽くして天命を待つ」と言われるように、やっぱり問題が重大であればある程、全力をあげて解決に努力しなければなりません。そして、各自が夫々の分野において己の本分を尽くすことです。

11日 公害の真の意味

公は「私」に対する文字であるところから、内に対して外という風に解釈して、公害を何か自分からかけ離れた外の害のように思っている。処が公害というものは、全てこれ私害の大きくなったものです。各人がよく心得て正しく生活しておれば、こんな問題は生じなかった害であります。処がその心がけと智慧が足りなかったことが積もり積もって現在のような結果になったわけでから、とても一朝一夕に改まるものではありません。だから、悲観論者は文明は公害によって亡ぼされるとまで言うております。

10日 活学と日本の内憂外患

そこで、現代日本の内憂外患について考えることは、我々の知識や理論、学問というものを空にしない、遊戯にしない、という意味に於て大事なことであります。先ず、内憂から考えて見たいと思います。これは時代に立脚して考えれば際限がありません。然し、その中で我々にとって一番切実な問題は、何と言うても今盛んに言われている公害でありましょう。これについては、今更お話するまでもありませんが、そもそも公害の「公」の字の意味を皆が誤解しているように私には思われます。

9日 大切なのは
生きた学問、活学

また、こういう微妙な老婆心を会得するのがこの講座の精神であります。新しい知識は大切にものですが、これは知識人、専門家と称する人達のものを読んだり聞いたりすれば、幾らでも自分のものとすることが出来ます。然し老婆心というようなものは、そんなことで会得できるものではありません。人間は、妻子を持ち、友を知り、多くの人と交わり、或る程度の年齢に達して漸く本当の意味での学問・求道ということがわかり始めます。独身時代や学生時代というものは、とかく知識だとか理論に興味を持つものでありますが、そういうものは突き詰めて言うと別に大したことではありません。そういうものは、現実に何の力にもなりません。我々にとって大事なものは生きた学問、活学であります。

8日 老婆心と進歩

老婆心は人に対してだけではありません。学問の場合でも、まあ、これぐらいにしておこうかと言うのが一番いけないので、これでもまだ足りない、もう少しこうしてみたらどうだろうという、つまり老婆心が無ければ進歩しません。禅というものは、痛いのを我慢して坐禅を組んだり、何だか突拍子もない問答をやつたりすることのように心得ている人が多いのでありますが、決してそういうものではありません。非常に細やかな老婆心が禅というものにもあるものです。

7日 真心は至誠でありは人類最高の思想

才智・技能に勝れるということは良いもので、望ましいことではありますけれども、それだけでは人間として失格です。やっぱり人間として至る為には、人に真心を尽くす、世間から言うならば、うるさがられる程の思いやるということが大切です。

6日

すると禅師は、あれはよくできる、出来るけれども老婆心が足りない、とおっしゃった。亡くなる時も枕元にかけつけた義价(ぎかい)に禅師は、お前はよくできるが、老婆心が足りない。これから先も常にこの老婆心を心掛けよ、と遺言しております。

5日 懐装(えじょう)

懐装(えじょう)は非常に道義の厚い人でありましたので、弟分の印可が下がらないのを大変に苦にしまして、或るとき禅師に、なぜ師匠は義价(ぎかい)に印可をあたえられないのですか、と訊ねました。

4日 老婆心

道元の遺訓

今、日本の禅宗の中で最も普及しておるのは曹洞宗でありますが、曹洞宗は道元禅師を開祖としていることは周知のことと思います。この道元に懐装(えじょう)という弟子と義价(ぎかい)という弟弟子がおりました。二人は門下の中で特に頭が良く、才長けた立派な人材で、当然師の印可(いんか)を受けるべき人であったが、どうしたわけか道元禅師は義价(ぎかい)には許されなかった。

3日 礼は敬の心から

その礼は、敬の心から生ずる。相手を敬すればこそお辞儀をする気持ちにもなるのです。人間と他の動物との限界線はどこにあるかと言う事を突き詰めてゆくと、結局はこの敬の心に帰する。よく「愛」だというのでありますが、愛だけならば、他の動物も多少はみな持っておる。人間である以上、愛は愛でも敬愛でなければいけません。論語に「敬せずんば何を以てか分たんや」と言うてありますが、敬の心は人間に到って始めて生じた感情であるばかりでなく、そま敬によって人を敬し、己を敬することによって始めて人間は自他共に人間となるのです。従って、その大事な礼を忘れると、色々の弊害が発生するのは当たり前であります。

2日

然し、それは大違いでありまして、礼というものは、相手にすると同時に、自らが自らに対してする、というのが本義であります。在る時、一人の雲水が師家を訪ねて、礼拝した処が師家曰くお前は何故礼拝をしたのかはい、御師家を敬って致しました。すると師家はこう言われた、それは礼ではない、礼というものは、汝に依って我を礼し、我に依って汝を礼す、つまり、自分を通して相手にお辞儀をすると共に、愛手を通して自分が自分にお辞儀をする、これが礼というものだということです。

1日 礼の真義

この頃、特に気づくのでありますがお互いに礼をするということが少なくなって参りました。こりは社会学的に考えても大問題でありますが、そもそも最近の人達は、なぜ互いに礼をするかということの意義を知らぬようであります。頭を下げて礼をするのは相手の人の為にするのだ、と大部分の人は思っておる。