通商王国・倭奴国

平成24年12月

31日 註 鬼神
人の耳目では接し得ない、超人間的な魅力を有する存在。
30日 即ち、ドングリの背比べの国同士の戦闘は、「年を歴たれども主なし」の状態で、遂に各国の首長たちが集って、何とかしようということになったわけです。
29日 ともかく、第二世紀の後半、倭奴国の統率力が低下して倭国は大いに乱れ、激しい戦闘がいつはてることもなく続いたわけです。そして、いつまでたっても決着がつかない。悲惨な戦いに次第にどの国も疲弊し、犠牲者だけが折り重なっていき、とうとう厭戦気分が漂ってきた。
28日 当時、九州と大和に異なる文化圏があったことは、既に第11講で述べましたが、倭の大乱とはそうした二つの文化圏のうた九州の方に起っていた戦乱状態を指すわけです。もとより、そのころ大和の方でも戦乱状態はあったかもしれませんが・・・。
27日 ですから、ここで倭の大乱と言っても、その大乱は九州を中心に展開していたものであり、第一章の講義の中で出てきた原大和国家の領域の話ではないわけです。
26日 ちなみに、私は倭奴国を北九州に設定し、その倭奴国が束ねていた首長国もその周辺にあるとみなし「後漢書」や「魏志倭人伝」が言う処の倭国は、殆ど九州とその周辺地域を指していると考えているわけです。
25日 これも「男子をもって王と為し」ていた倭奴国が、初めで漢に朝貢した第一世紀中ごろから第二世紀初め頃まで、倭の諸国(30ほどの首長国)をまとめていたが、第二世紀中ごろから政情不安定となり、大乱が起った、と解せられるわけです。
24日 「魏志倭人伝」の方には、これに該当する記事として、「其の国、(もと)亦男子をもって王と為し、(とど)まること7-80年・倭国乱れ、相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す・・・」とあります。
23日 その期間に倭国では内乱が続いていた。私の考えでは、これは、倭奴国によって一応、束ねられていたであろう30ほどの小国、首長国の間で激しい戦いが繰り広げられたことを指しているのだと思います。即ち、 13講で述べましたように、第一世紀においては、北九州にあった倭奴国が30ほどの小国の代表者として漢に朝貢するほど優勢な勢力を誇っていたわけですが、その倭奴国の力が弱まり、各国が覇権を争う 時代になっていたというわけです。
22日 まず、卑弥呼登場の前に起ったいわゆる倭の大乱から。「後漢書」の記事中の「桓霊の間」というのは、後漢11代皇帝の桓帝と、12代の霊帝の2代の治世期間のことで、凡そ西暦147年から188年までの42年間の時代を言います。
21日 14女王卑弥呼の素顔に迫る卑弥呼の登場
卑弥呼登場の前提、倭の大乱
「後漢書」の倭奴国に印綬を授けたなどの記事(13講参照)の後に、「(かん)(れい)の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻め()ち、年を()たれども(ぬし)なし。一女子あり。名を卑弥呼と言う。(とし)長ずれども()せず。鬼神(きしん)の道につかえ、能く(よう)をもって衆を惑わす。ここにおいて共に立てて王と為す・・・・」という一節が出てきます。いうまでも無く卑弥呼についての記事です。中国の歴史書には、このほかにも「魏志倭人伝」で詳しく卑弥呼のことが出てきますが。そうした中国の文献を頼りに卑弥呼像を解明していきましょう。
20日 註 鯨面文身
鯨面とは入墨をした顔。文身とは身体に彫り物をすること。鯨面文身とは、身体に入墨や彩色を施す意。

揚子江  中国大陸中央部を横断する大河。
19日 それに対して、もう一つの宗像系の漁撈民は、潜水漁撈民として海岸地帯に定着しながら、潜ることによって魚貝をとって生活した人々です。その漁撈の流れは、宗像から日本海を北上して、出雲、能登、さらに東北地方まで及ぶ日本海沿岸に分布します。そして、日本におけるこれら漁撈民の二つの系統の、北九州はちょうどデッドクロスのように十字に交錯する地帯です。そこで、両漁撈民の文化が融合した北九州の地域に特殊な潜水漁撈民の国家が成立した、と考えることができるのです。
18日 南支那、揚子江沿岸の古代航海民が北上してきた、山東半島から遼東半島を通って朝鮮の西海岸に分布し、そこに分布した人々がさらに朝鮮半島かせ対馬・壱岐・九州へ入ってきて定着します。そうして、東南アジア系統の漁撈民の文化が、日本の北九州にまで入り、そこを一つの根拠地として志珂(しか)海人(あま)の分布がみられ、彼らはさらに瀬戸内を通って大和方面にまで及んでくるのです。
17日 この二つの漁撈民の中で特に古代の航海に携わっていたのは志珂(しか)海人(あま)ち、即ち後の海人部族の中心をなす人びとの集団であり、宗像系の漁撈民は、専ら潜水漁撈に携わつていた漁撈民の集団であったと見ることができます。そして、古代の航海者であった志珂(しか)海人(あま)の集団は、系統的に見ていきますと、どうも南支那の漁撈航海民の流れを汲む人々であったと思われます。
16日 漁撈民はどこから来たのか 古代漁撈民の二系統
「倭水人」について見ますと、この古代の漁撈民の中には早くから二つの系統があったと考えられます。一つは、宗像(むなかた)系の漁撈民であり、いま一つは志賀島を中心とした「万葉集」に出てくる志珂(しか)海人(あま)の系統の漁撈民です。
15日 そのために、「三国志」などは、殊更に、潜水、漁撈民や航海民のことを「倭水人」と表し、一般の倭人の言い方と同じに扱っていないわけです。私はそうした種族的に異なった人々の複合体によって形成された航海通商王国を考えていかなければならないと思っています。
14日 ちなみに、彼らを統率した通商王国の支配者、倭奴国王とか女王国の一大率と言われる人たちは、そうした航海者や漁撈民の出身者ではなく、大陸系の人々であったと見られます。恐らく、朝鮮や九州の支配者層を形成したツングース系の人々であり、彼らが朝鮮半島から九州へ移動してきて、土着の漁撈民を配下に収め、その力を利用して古代の航海王国を建てていたのだと解釈することが出来るのです。(この大陸系の支配者については第31講の騎馬民族の講義で詳しく述べ)
13日 例えば、「鯨面(げいめん)文飾(ぶんしょく)」、いれずみや彩色をして、海にって魚貝を取るなど、水人たちは呪術的な色彩の濃厚な生活を続けていたと記されているのです。
12日 古代航海者の民族性こうした通商・航海を行った航海者たちと、それを支配する船主或はその交易権を収奪した首長達との間には人種的な繋がりが無かったと見られる節があります。女王国の傘下にいた航海民は一般に「倭水人」と書かれていますが日本語で言えば「アマ」です。いわゆる海洋民族であって、彼らは一般の倭人とは風俗、習慣を異にしたと言うことが書かれています。
11日 註 海部
大化以前の部民の一。海辺に住む漁民で産物を中央に貢献した。
フェニキア
レバノン山脈の西、シリア地方の地中海沿岸に沿う狭長な地域に、セム族の一派フェニキア人が前3000年に建てた、シドン、ティルスなど都市国家の総称。海洋貿易で発展した諸都市国家群。
10日 倭奴国の場合には王がそういう航海民たちの支配権を持っていましたが、次の女王国の時代になると、女王が任命する「(いち)大率(だいそつ)」という宮司を置いて国外、国内の交易関係を統括させていました。その役人は交易を主宰するとともに国内に於ける(いち)の支配権を握っていてそれは非常に大きな権限であったということも書かれています。
9日 これは他の地域、例えばトロブリアンド諸島の住民の航海者たちの間で行われる交易遠征隊の場合にもやはり同じことが見られますし、当時の航海は全て呪術を基にして、呪術に頼って行われていたのだということがわかるわけです。
8日 船が無事目的地に到着して航海が終り、目的を達成しますと、船主初め乗員一同が持衰に対して物品を差し出して労をねぎらったと言うことが「三国志」に記されています。その反対に、航海中に船が危難に襲われたり、航海が順調にいかなかったり、或は航海中乗務員の中に病人が出たり、ましてや遭難したりした時は、それは持衰の行っていた行為が悪かった結果であるとされ。持衰は殺されてしまうこともありました。持衰には安全に船を航海させて目的を達させた責任があるのです。
7日 古代通商王国を支えた航海民の実体 倭国の古代航海民
古代の航海民には、色々な階級がありました。中には船主と共に航海中は船を支配する「持衰(じさい)」と称せられる(みこ)が一人乗っていました。その呪術(じゅじゅつ)師である船衰の命令に従って船は航行します。ですから、この人の役割は非常に重要でした。
6日

東アジアのフェニキア
日本の国家は全て水稲耕作を基盤とした農耕国家である。ということがよく主張されてきました。然し、北九州沿岸のような地域には、専業の古代航海者を配下に入れて、その彼らの通商航海民としての活躍によって利益を上げ、財力を蓄積していた国が存在していた、即ち古代航海者の国、通商王国が存在していたと私は考えます。

5日

考古学的な視点も入れて考えますと倭奴国は今の博多湾頭に位置していたと見られますが、地の利を得ていた倭奴国は、そこに交易による大きな国をつくっていたと解釈することが許されるでしょう。

4日

さらに北九州沿岸地帯の倭人の国の中なも、対馬や壱岐と同じように航海・通商を業としていた者があり、またそういう国があったと思われます。特にそれらの中で、後漢に使訳を通じて使者を送り、その官許を得て倭人の代表者として通商権を握っていたのが印綬を授けられた奴国の王であったとしますと、奴国というのは農業国と言うよりも通商を基盤にして成立していた国であると言えます。

3日

特に朝鮮と北九州の間に点在する対馬・壱岐の住民がそれに当っていたと見られます。それらの島の住民が夫々の島を一国としてそこに所属し、船を操って朝鮮と九州の間を往還して交易に従事していたと思われます。「三国志」の中の「魏書」、「東夷伝」の「倭人」の条にも出てくるそれらの住民は、対馬や壱岐が耕地が乏しい為に、自給自足の生活をする事が出来ないのです。そこで、彼らは、船を操って朝鮮や九州を往還して「市糴(してき)(米を買い入れる事)をしていたとあります。交易品としては海産物が持ち出されたことでしょう。彼らは航海と交易を業として生計をたてていたのです。

2日

そうした事を踏まえて考えてみますと、私は北九州沿岸に住んでいた日本人(縄文文化以来の日本列島の住民である原日本人)、即ち中国の史料に出てくる倭人の中に、海を航行して朝鮮半島の沿岸に往還し、或はさらに中国との間を往還して文物の交流に専業的に従事していた「航海民」がいたと考えるわけです。

1日

通商王国・倭奴国
航海と交易にも従事していた原日本人
「漢書」や「後漢書」という中国の正史を見る事で、私たちは今まで考古学だけでは殆ど知り得なかった次の事実を知ることが出来ました。紀元前第一世紀から紀元後第一世紀にかけて、中国或は朝鮮半島と日本(九州)の国との間に朝貢関係が結ばれたということ。而も、出かけて行って交易をするのは日本人自身であったということ。