日本古代史の謎 その七

4講義 架空の天皇はなぜ創られたか            

神武天皇は実在しなかった        
平成23年12月度

 1日

架空天皇の代表的人物・神武天皇

私は既に第2講と第3講に於いて、神武天皇が実在の天皇ではなく、つくられた天皇であると見るに十分な根拠を示してきたと思います。

しかし、私は架空の天皇は神武天皇だけではなく、「記紀」が記す天皇の多くが架空の天皇であると考える立場をとります。
 2日

こうした立場からすれば、まず最初に「記紀」の天皇の中には架空の天皇が確実にいるということを示しておくことも必要です。そうした観点から見ると初代天皇とされる

神武天皇はいはば架空天皇の代表者であり、また神武天皇の架空性がきっちり根拠づけられたことで他の天皇の架空性が自然、明らかになっていくという位置にあります。
 3日

そこで、今一つの視点から神武天皇の架空性を根拠づけ、その非実在を確実に立証してから、他の

天皇の架空性を指摘し、また何ゆえ架空の天皇がつくられたのかという話へ進みたいと思います。
 4日 「記紀」における神武天皇宝算の違い 「古事記」「日本書紀」ではともに神武天皇が初代の天皇であると決めておきながら、その宝算 になりますと両書でその年数が違います。ちなみに宝算とは、天皇の寿齢のことです。
 5日 10年の差

どこがどう違うかと言いますと、「古事記」が神武天皇の年を137歳としているのに対し「日本書紀」は127歳です。10歳だけ違っているのです。

そこで古くからこの10年の差ほめぐって「日本書紀」の127歳と、「古事記」の137歳とどちらが正しいのかということで、学者の間に色々な論争が起こっています。
 6日 十年の差

どちらかが誤写したのだということで、盛んに論議がなされ、それによって「古事記」「日本書紀」の優劣論までが展開されています。然し、よく考えてみますと、このような論議は馬鹿げたことなのです。私がなぜそういうのかと言いますと、ちゃんとした理由があります。「古事記」では、神武天皇が日向から浪速に渡ってくるに要した年数について、

各地の宮殿に滞在した年数を加えて、(おか)田宮(だのみや)に1年、多祁(たけ)理宮(るのみや)に7年、高島宮(たかしまのみや)に8年、都合16年を要したと記されています。それから高島宮を発して浪速を経て熊野に回り、大和を統一するのに「日本書紀」ではどうかと言うと、神武天皇が日向高千穂宮を発してから7年後に橿原宮で即位したと書かれています。

 7日 つまりこの時点で「古事記」は「日本書紀」よりも10年長くかかっているのです。従って、宝算について、「古事記」ず「日本書紀」と同じ「帝記」(天皇の系譜の記録・宝算算出の原資料になったと見られています。)に拠ったものとしても「古事記」の編纂者はその宝算に自分が採用した伝承にしたがって「日本 書紀」よりも、東征で長く日数を要した十年を加算しているのだと、一応の説明がつくわけです。「記紀」間で10年の差が生じたのはこうした理由によるのです。
これは伝承を重んじ、それも参考にして宝算を決めるとき、もとの宝算に東征にかかった年数ほ加えることで、一層事実らしく見せたのだと思われます。
 8日

即ち、120年というのは干支二運の120年。もとの宝算とはこの120年で、それに加えるのに、「日本書紀」は7年間を要して日向から浪速に来たとする7年を足して127年と決定しました。

処が、「古事記」ではそうではない。
自分が採用した伝承によれば17年かかったのだから、120年に17年足して137年としたのです。
 9日

このように宝算の年数の違いの理由は明らかに出来るわけで、単なる誤記や誤写によるものなどではないのです。寧ろ、その年数の違いから「日本書紀」と「古事記」の編纂者がどのような意識で編纂していったかが歴然としてくるわけです。

こうした宝算算出の一事から見ても最初に初代の天皇として神武天皇がおられたという伝承があったとしても、それを纏めて記録する際に色々な試算が呈出されて編纂者が取捨選択あるいは創作した結果、現在見るような「古事記」「日本書紀」が出来上がったのだと考えられるわけです。

10日

これを言い換えれば神武天皇を初代の天皇とする伝承はずっと後の時代になって作られたと見られるだけでなく(2講参照)。一旦作られた後でも、さらに「古事記」「日本書紀」成立までいろ

いろ手を加えているのだということです。
こうした事情が神武天皇の「記紀」の伝承は殆どが後世の創作であると云うことを根拠づけるのは言うまでもありません。
大和平定の伝承の疑問
11日 つくりだされた
神武天皇
2講に述べました通り、神武天皇が日向から浪速に移っていったという渡航伝説は極めて簡単で固有名詞や数詞からなる内容です。
処が大和地方にい入ってからの伝承は叙事詩的な部分が非常に多いわけです。
そして、この両伝説の本質的な相違から、私は神武天皇の建国伝説は大和平定の部分に中心があり然もその内容が実は大和地方の首長の英雄伝説に過ぎないと考えます。そのことと、これまで述べてきたような神武天皇の創作性或は架空性ということを考えますと次のようにまとめることができます。
12日 神武天皇そのものの初代の天皇としてての功業ではなく大和地方の豪族たちが大和を平定していった幾つかの地域伝承がかって存在した。そして、それらの地域伝承を総合して一人の初代の天皇の物語をつくりあげる意図を持って形成されたの が、神武天皇の大和統一の伝承であると。
そして、神武天皇が初代の天皇としてつくりだされたことによって、この天皇と結びつけて日本の皇室の万世一系の神聖なる皇統の思想が生み出されてくることになったわけです。
13日 吉野川流域が裏付ける神武天皇の非実在 神武天皇の伝承即ち大和平定の伝承は吉野川流域を中心とした地域を平定したとしますが、天皇の初代としての神武天皇 でなく、そこに伝承の基となったような原大和の国家首長王の発祥の地があったとするならば、そのことは考古学的にも立証されなければなりません。
14日

今日、大和地方の発掘が盛んに行われ、最も古い時代の遺跡が吉野川流域に多く見つけられています。

この吉野川流域が古代大和の人々にとって一つの聖地であるというような考え方が早くかに存在したと見て差し支えありません。
15日

そこで大和平定伝説のストーリーに近い形で吉野川流域から興った部族が南から段々大和盆地に進出してきて北へ勢力を伸ばしていき、やがて

大和を平定したその部族の首長が大和地方の首長王となったのだというようなことが考古学の上からも十分考えられます。
16日

然し、言うまでもなくこの場合の首長王は、日向から浪速を経てやってきた初代神武天皇ではありません。この首長王とは、吉野川流域に発し、しかも恐らく長い年月をかけて幾代もの首長に

よって成し遂げられた大和平定によって初めて大和地方に君臨したであろう首長王なのです。神武天皇のように日向からやってきたのでもなければ短期間に大和を平定した一人の英雄でもないのです。
17日 架空の物語と解釈

さて、ここまで証拠が出揃えば、もはや神武天皇が架空の天皇であることを疑う余地はないでしょう。そして、神武天皇の日向からの東征も大和の統一も、それによって

日本の建国というこれまで信じられてきた史実も、みな架空の物語と解釈できるのです。それどころか、「記紀」に記された他の天皇の実在も疑われるわけです。
架空の天皇を生み出した思想
18日 神聖化のためにつくられた九代の天皇 神武天皇が非実在の天皇であるならば建国の始祖としての初代天皇というに相応しい天皇は誰なのかー私は、その答えは崇神天皇であると考えるわけですが、それは私が唱える三王朝交替説と関係する問題で本講座では第三章において詳しく説くことになると思います。ここでは簡単に、初代の天皇を意味する称号、「ハツクラシラススメラミコト」が神武天皇と 第十代の()(じん)天皇の二人に与えられていること、そして神武天皇はその実在が否定されること、「記紀」の伝承を考証した結果、()(じん)天皇の方が当初から初代天皇として伝えられていたのだということ、原大和国家統一を完成したのが崇神天皇と思われること、などによって初代天皇とすべきは()(じん)天皇である、とだけ申しあげておきます。
19日

さて、それでは第十代崇神天皇が本来の初代天皇であるとするならば神武天皇を含めた前九代の天皇はどういう天皇なのかということになるわけ

ですが、私はこの九人の天皇の伝承は「記紀」などの国史編纂構想に基づいて一括してつくりだしたので、全て実在の天皇ではないと考えます。
20日

それでは、何ゆえに九人もの天皇を、初代天皇として古くから伝えられていたであろう崇神天皇の上に加上したのかー私は編纂者たちの構想は「神代」から

「人代」への推移を説明し、系譜の神聖化をはかることにあった、その為に神武天皇を含めて九人の天皇をつくりだしたのだと考えます。
21日

九人の天皇が国史編纂者によって初代崇神天皇の前に加上されたことは第2講で述べましたように、その天皇たちの和風諡号を見れば歴然としています。即ち
「記紀」編纂期の元明・元正天皇のときにやっと見ることの出来る「日本・やまと」という言葉がそれら一番古い時代の天皇の諡号

に使用され、編纂時期の意識が露の間、表出しているのです。また、それらの諡号に神代に活躍する神々を象徴する「ヒコ」や神々の尊称である「カム」が使われているのも、神代から人代への過渡期にある天皇として、殊更に天神として神格を有することを強調するためのものであると解せられるのです。
22日

さて以上のような理由で神武天皇を含めて九代までの天皇がすべて架空の天皇てであるならば、第十代崇神天皇から実在が確実となる第三十三代推古天皇までの二十四代の天皇はみな実在なのかという疑問も出てきます。はじめの九代の天皇が皇統譜の作られた時点 

で加上されたのならば、同じようにこの二十四代の天皇の中にも何らかの理由で後から作り出された天皇があるのではなかろうか。
そのような観点から、改めて文献史料を調べていくうちに、私はふと
空位期間の謎がその疑問を解く鍵ではないかと気づいたのでした。
基本思想に反する天皇の空位期間
23日 「日本書紀」の空位期間の謎 「日本書紀」に於いては神武天皇から持統天皇まで全てきちんと「書紀紀年」と称される即位年による年 代が定められていて、各天皇の即位の年と崩御の年が明確にされています。
24日

そして、皇位は一日も空白にしてはならないという思想も「日本書紀」の本文の中でうたわれています。それは仁徳天皇の詔勅の中に出ています。

即ち前天皇の崩御と新天皇の即位との間に天皇の不在な「空位」という期間があるべきではないということが十分な説明をもって言わば皇統に関する基本思想として打ち出されているのです。
25日

処が実際に「日本書紀」の年代を見ますと、しばしば三年とか二年とか長期にわたる空位期間が設けられています。これは実に「日本書紀」の編纂の基本態度としては由々しいことです。

「日本書紀」自体の精神に反する自己矛盾だということができるわけです。それでは、なぜ「日本書紀」は自己主張と矛盾するような不合理な空位を設けたのでしょうか。

空位期間算出表

26日

27日

天皇

 

書紀崩年

 干支

書紀崩年

 西暦

古事記崩年 干支

古事記崩年 西暦

在位年数

空位年数

1

神武

丙子

-584

 

 

76

 

2

綏靖

壬子

-549

 

 

33

2

3

安寧

庚寅

-511

 

 

38

0

4

懿徳

甲子

-477

 

 

34

0

5

孝昭

戌子

-393

 

 

83

1

6

孝安

庚午

-291

 

 

102

0

7

孝霊

丙戌

-215

 

 

76

0

8

孝元

葵未

-158

 

 

57

0

9

開化

葵未

-98

 

 

60

0

10

崇神

辛卯

-30

戊寅

318

68

0

11

垂仁

庚午

70

 

 

99

1

28日

29日

12

景行

庚午

130

 

 

60

0

13

成務

庚午

190

乙卯

355

60

0

14

仲哀

庚辰

200

壬戌

362

9

1

 

神功

己丑

269

 

 

69

0

15

応神

庚午

310

甲午

394

41

0

16

仁徳

己亥

399

丁卯

427

87

2

17

履中

乙巳

405

壬申

432

6

0

18

反正

庚戌

410

丁丑

437

5

0

19

允恭

葵巳

453

甲午

454

42

1

20

安康

丙申

456

 

 

3

0

21

雄略

己未

479

己巳

489

23

0

22

清寧

甲子

484

 

 

50

0

30日

31日

23

顕宗

丁卯

487

 

 

3

0

24

仁賢

戊寅

498

 

 

11

0

25

武烈

丙戊

506

 

 

8

0

26

継体

辛亥

531

丁未

527

25

0

27

安閑

乙卯

535

乙卯

535

2

2

28

宣化

己未

539

 

 

4

0

29

欽明

辛卯

571

 

 

32

0

30

敏達

乙巳

585

甲辰

584

14

0

31

用明

丁未

587

丁未

587

2

0

32

崇峻

壬子

592

壬子

592

5

0

33

推古

戊子

628

戊子

628

36

0