古墳の歴史探求
平成26年12月
1日 |
「墓制令」と末期古墳 「墓制令」の中身と律令体制 |
「墓制令」はどのような墓を要求しているのか。もう少し詳しく中身をみてみましょう。 例えば、王以上の身分の皇族などは、古墳の内部主体・石室の大きさが長さ九尺、幅五尺、封土は一辺が九尋、高さ五尋と決められ、さらに人夫の使役は千人以内、しかもその千人の人間を七日間使ってよいという規定です。それまでのように何千人も何万人もの人を使って墳墓を造る、一ヶ月かかろうが三ヶ月かかろうが、とにかく完成するまで自由に使えるということはなくなったたわけです。 |
2日 | どのような墓 |
上層の貴族に対しては、王以上の場合と同様、古墳内部は九尺と五尺ですが、封土は七尋と三尋、五百人の人夫を使って五日以内に仕上げろという規定になっています。下級の貴族も石室の九尺・五尺は同じですが、封土が五尋・二尋半となり、人夫は二百五十人で三日間となっています。 |
3日 | 細かな規定 |
それ以下の一般の官僚たちは石室のサイズが長さ九尺と幅四尺、高さ四尺で封土なし、そして百人の人間を使って一日で造れとなり、下層の官吏たちも石室のサイズは同じでず、五十人の人間で一日で造れとなっていて、実に細かな規定ができています。 |
4日 | 私有を禁止 |
問題はなぜこうした規定を作ったのとかいうことですが、これは律令国家完成を目指す大化改新で土地・人民の私有を禁止したからです。 |
5日 |
従来の氏姓制度の社会のように、権力のある者が権力に任せて自由に何百人、何千人もの人間を何年間も使うことを認めていては、律令国家の土地・人民の私有禁止という法令に合わないわけです。 |
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6日 | 墓制令 |
「墓制令」は墳墓造営において具体的な数字をあげ、その範囲内で人民を使えと命ずることで、律令国家の基本原則を徹底させる重要な法令であると考えます。 |
7日 | 註 尺と尋 |
尺 |
8日 | 法の網をくぐり抜ける末期古墳 |
律令制が守られていく限り、古墳は「墓制令」の範囲内で造らなければなりません。 |
9日 |
従って、「墓制令」はやはり氏姓制度の社会から律令制の社会へという社会改革に伴った埋葬形式の変革を意味する制度であったと位置づけられます。 |
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10日 |
然し、制度上では古墳造営は縮小されますが、法令が発布されたからと云って即座に人間の欲望をすべて抑えることはできません。 |
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11日 |
限られた数の人間しか造れず、また墳墓の大きさも規定されて小さくなりますが、それで満足しない力ある者は規定以外の方向で何とか立派な墳墓を造ろうという気持ちになったはずです。 |
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12日 | 規定外の高松塚古墳 |
そこで規定外の、高松塚古墳のように壁面に絵画を描いたりすることで、規模の縮小化を補おうとするかのような傾向が末期の古墳にみられます。 |
13日 | 末期古墳 | 末期古墳が内部の装飾などで「立派な古墳」を目指したこと。これは「墓制令」の基本理念である土地・人民の私有禁止という律令体制の浸透の一つの現れではないかと私には思えるのです。 |
高松塚古墳こ古墳文化の終焉 |
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14日 | 古墳文化の終焉 |
第七世紀の大古墳と言えば、奈良県明日香村に有名な石舞台古墳があります。これは巨石墳の代表のように言われる古墳ですが、巨石墳というのは一般に巨大な自然石からなる横穴式石室に対して用いられる呼称です。 |
15日 | 石舞台古墳 |
石舞台古墳は、一辺が約50米の方墳、一説では上円下方墳とも言われ、横穴式石室は19米に及び、一個70トンを超える巨石が積み上げられているのです。 |
16日 |
被葬者は蘇我馬子と言われ、同時代の聖徳太子の円墳が直径約50米ですから、いかにも当時の蘇我氏の権勢を表した古墳といえます。 |
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17日 | 蘇我氏の権勢 |
石舞台古墳は第七世紀前半の構築とみられ、こうした巨石墳はほかにも岩屋古墳などが存在しますが、そうした巨石墳も第七世紀後半には畿内には見られなくなります。 |
18日 | 小規模の古墳 |
大型古墳は既に第六世紀から減少していましたが、大七世紀も大化改新以後になると古墳自体の数もまばらな上、小規模の古墳しかみられなくなります。 |
19日 | 高松塚古墳 |
例えば、高松塚古墳は第七世紀後半から第八世紀初頭に構築された円墳とみられますが、大きさは直径約18米、高さかせ約5米に過ぎず、この時期にはもはや、かっての百メートルを越えるよう大型゜古墳は過去の遺物と言えます。 |
20日 | 横口式石槨 |
また、第七世紀後半には、横穴式石室が消滅し、それよりも工事の手間のかからない、羨道(玄室へ遺骸をおさめる為の石道・横穴式石室の一部)を省いて棺を入れるだけの横口式石槨がみられます。高松塚古墳もこの横口式石槨を採用しています。 |
21日 | 群集墳 |
さらに、第六世紀に爆発的な勢いで全国に広まった群集墳は、第七世紀前半にその勢いを減速し、後半には新しい古墳が群集墳に加わることはなくなります。 |
22日 |
既存の古墳への追葬もなくなり、群集墳域は文字通り死の領域として誰も振り向かなくなったのです。 |
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23日 | 古墳消滅 |
こうして畿内では第七世紀末-第八世紀初頭の高松塚古墳や文武天皇陵あたりを最後に古墳は消滅したと言ってよい状態になります。 |
24日 | 関東では |
関東では第八世紀になっててもまだ横穴式石室を持った立派な古墳も造られてはいますが、それも殆ど消滅寸前と言える状態です。 |
25日 | 東北地方には |
東北地方には、この後も群集墳の風景が見られるようですが、一応、第八世紀に古墳文化は終焉を迎えたといつてよいでしょう。 |
26日 | 註 石舞台古墳 |
奈良県高市郡明日香村にある古墳。から掘を巡らした方墳であったが、早く封土を失い、巨石で築かれた横穴式石室が露出。 |
27日 | 蘇我馬子 |
?--626年(推古34年)古代の中央豪族。稲目の子。父についで大臣となる。 |
28日- 31日 |
高松塚古墳 |
奈良県武市郡明日香村平田にある七世紀末―八世紀初頭の彩色壁画古墳。天武・持統天皇合葬陵の南方にあり、墳丘径18米、高さ5米の版築円墳。内部構造は凝灰岩切石を組み合わせた横口式石槨。石槨全面に漆喰が塗られ、北壁(奥壁)に玄武、東壁に青龍と日輪、西壁に白虎の月輪、天井に星宿、東西両側壁に男女各四人が一組ずつ描かれる。人骨・海獣葡萄鏡・刀装金具・玉類・漆喰木棺が出土。 |