徳永圀典の「日本歴史」その22
平成1912

世界大戦の時代

 1日 大学とジャーナリズム 明治時代、大学では、何よりも西洋の学問を理想として、日本の文化や歴史を西洋の考え方に当てはめる傾向が強くなったのである。それが更に敗戦により追い討ちをかけて日本の伝統破 壊に繋がっている。
新聞、雑誌などのジャーナリズムでは、自由な言論が活発に行われた。福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、文明の進歩は政府ではなく民間の人々の努力によってなされると説いた。
 2日 新しい潮流 中江兆民は、儒教の思想をもとにフランスのルソーの啓蒙思想を取り入れて民主主義の思想を発展させ、のちの自由民権運動に大きく影響を与えた。 明治20年代には徳富蘇峰が士族にかわって平民が活躍する平等な時代がきたと宣言して若い世代の強い共感をよんだ。内村鑑三はキリスト教信仰わ通じて日本人の精神再生を主張した。
 3日 医学・理化学の発展 西洋の学問が定着するにつけ医学や物理学、化学などの分野で日本人による本格的な研究が始まった。 明治後期には細菌学の野口英世、原子物理学の長岡半太郎らが世界的な発明、発見を行った。
 4日 新文学

坪内逍遥の「小説神髄」は日本の新しい文学の出発点になったと言われる。それまでの道徳的な内容から離れ写実を重んじることを主張した。これに影響されて二葉亭四迷は口語体で「浮雲」を書いた。日清戦争前後は人間の自由な感情を重視するロマン主義が起こり

島崎藤村、与謝野晶子らが活躍した。日露戦争の頃は、人生や社会の現実を有りの儘に描いた自然主義が盛んとなり田山花袋らが注目された。森鴎外はヨーロッパ文学を紹介し、晩年には、歴史小説を書いた。夏目漱石は「我輩は猫である」「明暗」などを書いて日本の近代文学隆盛に大きな役割を果たした。
 5日 明治の芸術 西洋の近代芸術が怒涛のように押し寄せた。日本の芸術家が必至でそれを吸収しようとした。と同時に、日本の伝統文化とは何かと深く考えた時代でもあった。 美術では、鹿鳴館の文明開化の頃、日本の古い美術や仏像は価値の無いものとする欧米崇拝の風潮があったのは驚きである。何時の時代にも付和雷同する軽薄な輩はいるものだ。
 6日 フェノロサ 日本美術の素晴らしさに感動したのが東京大学の外国人教師フェノロサで、岡倉天心と共に伝統芸術の保存と復興に努めた為日本の伝統芸術が再評価されたのである。日本人の愚かな一面でもある。 現代のブランド志向と通ずるものがある。岡倉天心が校長を勤める東京美術学校(東京芸術大学の前身)は、明治美術界の中心となり、その中から狩野芳崖や横山大観など西洋画法を取り入れた新しい日本画家が登場した。
 7日 洋画 高橋由一、浅井忠らが写実的な油絵を描いた。フランス絵画を学んで帰国した黒田清輝は、明るい光に満ちた作品を描いて外光派と呼ばれた。 明治期の洋画家は、ヨーロッパの画風をどのように日本で応用するか苦心した。江戸以来の文人画の伝統を維持しながら、富岡鉄斎のように西洋の表現主義に似た作品を描いた画家もいた。
 8日 彫刻 高村光雲が写実的な木彫りを製作し、ロダンに影響を受けた荻原守衛は西洋風の 近代彫刻をものした。
しかし多くは西洋との折衷にならざるを得なかった。
 9日 音楽 洋楽の輸入により西洋歌謡をもとにした唱歌が小学校教育に取り入れられ国民の間に親しまれた。 滝廉太郎は「荒城の月」「花」などを作曲し日本人の心を捉えた。
10日 仏像 法隆寺の夢殿にある救世観音像は、秘仏として古代から人目にふれることなく守られてきた。明治17年、1884年、フェノロサにと岡倉天心は、仏罰が下るとの 恐れる僧侶たちを説得して観音像との対面を果した。
その美しさが世に伝えられ、それまで崇拝の対象であった仏像が美術品として認識され始めたのである。
11日 輝いた明治の女性 岩倉具視使節団に随行した留学生は60人いたが、中にまだ18才の津田梅子がいた。この小さい女の子の肩には新しい日本の女性の模範になるという大きな任務があった。 津田梅子は幕府の農学者・津田仙の次女で幼少より聡明、習字なども得意であった。アメリカに渡った梅子は、ニューイングランドでもチャールズ・ランマン夫妻のもと、西洋的教養と文化の雰囲気の中で成長した。
12日 津田梅子 11年後、帰国した梅子は、日本語も話せなかったが使節団で一緒だった伊藤博文のつてで華族女学校で英 語を教えることとなる。
しかし自分のアメリカで受けてきた教育と日本の女性の現実との間の大きさに改めて思い悩んだ。
13日 津田塾 梅子は再び渡米し、アメリカの名門女子大に学ぶ。そこで梅子は日本で自分の理想とする女子教育に携わることを決意した。三年後帰国した梅子は、準備を重ね明治33年、少人数の生徒の個人指導を通して専門教育を行う私塾を開設した。 女子専門教育は当時では画期的なもので新しい試みに慎重な配慮をし世間から誤解や反対されないように、生徒たちの日常行儀作法、言葉遣いなど一見保守的な雰囲気の中で互いに個性を尊重し合う気風の育成に努めた。津田塾大学へと発展した。
14日 与謝野晶子 歌集の「乱れ髪」で一躍有名となった。
「その子二十(はたち)(くし)ながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
の如く、みずみずしい新鮮な情感が溢れている。
晶子の歌には、明治の自由な新しい情感表現がある。
それまでの形式化していた短歌の可能性を開いたのである。その上、与謝野鉄幹との激しい恋愛の末の結婚も話題となり晶子は奔放な女性のイメージが広がった。
15日 君死にたまふことなかれ 晶子の弟は日露戦争で旅順攻撃戦に参加していた。
あぁをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ」という節で始まる有名な歌を発表した。
当時、この歌は愛国心に欠けると非難を浴びたが晶子にとり、そうした非難は心外であった。
16日 晶子の真実の人間像 晶子は戦争そのものに反対ではなく弟が製菓業を営む和歌山の実家の跡取りでありその身を案じたのであった。家の存続を重く見ていたのである。大正期、平塚らいてうの婦人運動を当初支持したが晶子の人生観や思想は家族を重んずる堅
実にものであり大家族の主婦として務めを果たし続けていた。 12人の子供の親である夫鉄幹も文学上の同志であり支え続けていたのである。「(たい)らかに(いま)()とせほど(とう)とせほどに二十年(はたとせ)ほどもいまさましかば」と夫の死を歌っている。
17日 世界大戦の時代と日本

世界列強の仲間入り
日露戦争の勝利の結果、日本は世界列強の仲間入りを果した。立場は上昇したが、有利や安全も確保したのではなかった。 アメリカは日本の満州独占を警戒、日本が手に入れた南満州鉄道の共同経営を求めてきた。カリフォルニアでは、日系移民の排斥運動が起きた。日清戦争の頃から欧米で唱えられた黄禍論に再び火がついた。
18日 勝利の代償 アジア諸国は日本の勝利に勇気つづけられナショナリズムが起きた。トルコ、インドのような遠い国では単純に日本への尊敬や共感と結びついたが中国、韓国の ような隣国では自国へ勢力を拡大してくる日本への抵抗という形で現れてきた。また日本は大国として他の大国との力の均衡政策を保持する必要もあった。だが当時の日本人には充分な対応は困難であった。
19日 日ロ協約 日露戦争後、真っ先に日本に接近したのはロシアであった。それはアメリカの満州進出を警戒したからである。力の均衡時代、いかにもの出来事である。 ロシアの復讐を恐れていた日本はこれを歓迎、明治40年に日露協約が成立した。これに基づき、ロシアの外モンゴル支配と北満州の勢力範囲、日本の韓国支配と南満州の勢力範囲が相互に承認された。南下するロシアの脅威は一段落したのである。
20日 日仏・日米・日英協約 同様に明治40年、日本はフランスと協約を締結し、インドネシアの植民地支配の承認と引き換えに、フランスは韓国の日本支配を支持した。

またアメリカのフィリピン支配と日本の韓国支配が相互にアメリカと日本で確認された。日英同盟更新の際、日本の韓国支配を承認と引き換えに日本にインド防衛の同盟義務を負わせたのは明治38年であった。 

21日 韓国併合

(徳永圀典の近現代史)
日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置き支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が日本の安全と満州の権益防衛のために必要であると考えた。 イギリス、アメリカ、ロシアの三国は、朝鮮半島に影響力を拡大するのを互いに警戒しあっており、これに異議を唱えなかった。明治43年、日本は韓国内の反対もあったが、朝鮮人100万人の賛同もあり併合を断行した。
22日 併合の得失 それは一言で言えば他民族でありすべきでなかったに違いない。事実、韓国国内には併合受け入れの声もあった。民族独立を失うことへの激しい抵抗が起き、独立回復運動が根強く行われたことがその証左である。 すべきでなかったと確信する。だが、しなければロシアが間違いなく韓国を制圧し日本を恐怖に陥れるばかりかロシアの領土と化していたとは容易に想像できる。
23日 朝鮮半島の近代化促進

韓国併合した後、余りの前時代的な後進性の朝鮮半島の実情を見て日本政府は、朝鮮半島に鉄道、灌漑の施設を整備するなどの開発を行った。また土地調査を始めた、これにより、それまでの耕作地を追われた農民もでた。

日本のこの政策により朝鮮半島は正しく全土が把握され今日の先進国の基礎が与えられた。物事は両面から見なければならぬが日本が非難されるのは他民族であり感情からである。朝鮮半島の人々の成熟と偏見無き歴史を見る眼が養成されるまで待たねばなるまい。
24日 中華民国の成立

日清戦後、中国は日本に学ぶべく多数の清国留学生を送ってきた。1905年、孫文は東京で留学生達と共に中国同盟会を結成して三民主義(民族の独立、民権の伸長、民生の安定)を掲げた

中国の革命運動を開始した。翌年1911年、中国に辛亥革命が起こった。1912年には南京に革命派の代表が参集、孫文を臨時大総統に選び、中華民国の成立を宣言した。
25日

革命の失敗

清朝政府の実力者である袁世凱(えんせいがい)は革命派と結び、皇帝を退位させ清朝を滅ぼした。そして孫文から大総統の地位を譲り受けた。 だが、袁世凱は、権力の強化を図り革命派の弾圧を始めた。革命の理想は無視され中国は統一性を失い、武力を持つ地方政権である大小の軍閥がバラバラに各地方を支配するようになった。 
26日 大正政変 明治45年、1912年の夏、明治天皇が崩御され大正天皇が即位された。大正時代となり国際舞台で愈々高まる日本の困難を目の前に、国内の政界は混迷を深めていた。 陸海軍は、財政難をよそに軍備拡大を進め、これに同意しなかった第二次西園寺公望内閣は倒れた。代った第三次桂太郎内閣は、議会というより藩閥政府に基盤を置くものであった。
27日 大正政変 2 藩閥打破、憲政擁護の声は天下に溢れ第一次憲政擁護運動となった。内閣は新天皇の権威を背景にこれを抑えにかかった。 これは民衆の怒りを買い、議会は数万の民衆で包囲され、新聞社は焼き討ちされ、各地で国民大会が開かれた。騒乱は関西にも拡大し桂内閣は総辞職することとなる。これが大正政変である。
28日 大衆社会時代 日比谷焼き討ち事件、大正政変は、民衆の街頭での運動が中央の政治に影響を与えることを示したもので、日本の社会が大衆社会に入ったことを示すものであった。 この後、海軍の山本権兵衛内閣となるが、シーメンス事件という海軍汚職事件がもとで一年余りで倒閣された。この時も民衆が激昂して街頭騒動に発展している。民族、国家が青年期の現象であり今日のように成熟すると青壮年にその覇気が消滅している。
29日 三国通商 国内政治の混乱の一方、国際情勢も急変した。ヨーロッパでは列強間の対立が強まり一触即発の緊張状態が続いた。 日本が同盟や協約を締結していたイギリス、フランス、ロシアの間で三国通商が成立した。これに対してドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟が結成され三国通商と対立する形成となった。
30日 第一次世界大戦 1914年、オーストリアの皇太子がボスニアのサラエボで、セルビアの一青年に暗殺された事件を契機に、通商側と同盟側の各国が相次いで参戦し、第一次世界大戦が始まった。最初は短期間で終わるものと人々は信じていた。 それまでの支配的戦争観は、核兵器を経験した現代と全く異質なものであった。各国は問題解決に比較的安易に戦争に訴えた。戦争は外交手段であり政治の延長であった。負ければ賠償金、領土を失うが国民全部が同義的責任を問われるようなことはなかった。
31日 戦争観の変化

戦うのは軍人で国民総動員ではない。日清・日露戦争とてそうであった。しかし第一次世界大戦とともに総力戦の様相が新しい現実となってきた。大戦は予想外に長引き4年もかかった。

各国は持てる力を総て出しつくした。
植民地からも兵員を動員、国民生活は直接、戦争に巻き込まれた。戦車、飛行機、潜水艦そして毒ガスまで用いられヨーロッパは悲劇の惨状を呈した。