日本、あれやこれや その44
平成19年12月

 1日 久米の(けい)(がん) 久米邦武は言う、「アメリカ人は「共和と自由」の原理を信じて、その弊害を知らず、世界を挙げて、己の国是に就かしめんとす」と洞察している。またウイーンの万国博覧会のことでは 欧州各国がフランス革命の影響で人民が自主独立を得たので、それが工芸製作の世界に百花繚乱の様相を呈した原因だとして「欧州の文明は、この改革の深浅に源し、その精華は発して工芸の産物となり、利源は滾々(こんこん)として湧出す」と書いている。
 2日 哲学を持っていた久米 使節団のまとめには、黒か白かではない、それを越えた哲学ほ持っていたのだと分かる。それは教養・素養に深さであり鎖国時代の武士で、この視野の高さと驚くと共に改めて敬意を表する。それは、現実世界は、黒か白かでは断定できぬ、当然矛盾がある。 その矛盾の中に真実があるのだ。リーダーのバックボーンである禅的発想ではごく当たり前で、そうした教養が久米等の背骨を組成していたのである。トータルで物を見れば、右も左も、上も下も、東も西も一つのものである。それらを包括した思想「中庸の思想」こそ久米等の心底に潜在していたから分明できたのであろう。
 3日 したたかなリアリスト明治人 久米邦武は「実記」ロシア編でこう記録している。「世界の真形(まことかたち)(りょう)()し、(てき)(じつ)深察(しんさつ)すべし」と。小沢一郎や現代政治家に教えてやりたい言葉である。 世界の真の姿をはっきりと認識し、的確に深く洞察すべし、ということである。いつの時代でも通用する核心をついた表現である。本当の姿、実際の状況を実地に見聞することの尊さを指摘したものである。 
 4日 真のリアリスト大久保利通 大久保は、常に現実を踏まえて、沈着(ちんちゃく)重厚(じゅうこう)軽挙妄動(けいきょもうどう)から最も遠い存在であったと言われる。 その大久保は、政治について「ややもすれば坐論と言えるものは、実地を末にして道理を本とする故、必ず事上に疎く、その弊全国に及んでは、つまり天下の大患と相成候事、御座候」。全て政治は「土地、風俗、人時情勢の関連でのみ考察すべき」で、普遍的に妥当する「至良」の政体など認めないというものであった。
 5日 国家の経略 「凡そ国家を経略(けいりゃく)しその彊土(きょうど)人民を保守するには、深慮遠謀なくんばあるべからず。故に進取退(しんしゅたい)(しゅ)は、必ずその機を見て動き、その不可を見て止む。恥ありと雖も忍び、義ありと雖も取らず。これその軽重をはかり時勢を鑑み大期する所以なり」 実情を無視して目標に直進するのは空論であり、状況に埋没して目標の展望を欠くのも因循(いんじゅん)姑息(こそく)である。同様に、いずれも目測能力の不足を示すものである。不可と見れば潔く転換し決して無理押しはしない。そして機会の来るのをじっくり待つ。義と見ても時に行わない。恥と見られても敢えて動かない。時勢を待ち事を成すのでなくては仕損じるのである。
 6日 米欧回覧記評 観察が鋭い、冷静な分析が見て取れる。
偏らず公平である。
現象の背後にある思想・原理まで洞察している。

見事な表現力がある。「漢語の豊富な語彙と、その表現能力に改めて驚嘆する。こう述べて絶賛したのは、東大名誉教授の芳賀徹である。 

 7日 近代紀行文学の白眉(はくび) 芳賀は更に、「鋭敏でのびやかな感性と犀利な観察をもとに豊富な漢語を駆使して米欧文明の諸相を活写した」とした。 その背後にうる彼らの教養に関して「一旦引用すると、どこまでも書き写したくなるのが久米の文章である」と述べている。同感。
 8日 明治人の勉強は 久米邦武や福沢諭吉は、どんな勉強をしていたのか。当時のサムライたちの教養の素地は、具体的には「四書五経」、「記紀」、「万葉集」、「日本外史」など の漢学や国学であり、中国と日本の古典双方から学んだ「歴史と倫理」に裏打ちされたものであった。洋学の代表選手であった福沢諭吉や中村正直も漢学の素養はたっぷり持っていたのである。
 9日 福沢諭吉の読書は 彼の自伝によると、経書を専らとして、論語、孟子は勿論、すべて経義の研究を勉め、ことに先生が好きと見えて詩経に書経というものは本当に講義をして貰ってよく読みました。 それから、(もう)(きゅう)世説(せせつ)、左伝、戦国策、老子、荘子のようなものもよく講義を聞き、その先は私ひとりの勉強、歴史は、史記をはじめ前後漢書、晋書(しんじょ)、五代史、元明史略(げんみんしりゃく)というようにものを読み」とある。
10日 諭吉の勉強振り ことに私は左伝が得意で大概の書生は左伝十五巻のうち三、四巻で仕舞うのを 私は全部通読、やよそ十一度読み返して、面白いところは暗記していました、とあるのだ。
11日 久米邦武は 佐賀藩の上級武士であり要職を歴任した能吏の父の下で育ち、七歳で既に「和漢三才図会」という百科図鑑に熱中したという。十二歳の頃、父から買い与えられた「史記評林」、「四書大全」、「歴史綱鑑」、「明鑑易知識」、「詩林良材」 「前太平記」「北条時頼伝」などを読破している。
十六歳で藩校・弘道館に入り、さらに江戸の昌平黌に留学した。父の邦郷は実務家で「算を知らずしに生活を遂げんと思うにや」と言い、数学や実務の勉強の必要性も強く説いたという。
12日 エッセンスは歴史と倫理 久米の回想、「余が父は儒学をがい(やく)(おろかな学)看過(みな)して、余が読書熱をさまし、実務に心をよせしめんとするにあり。然れども余は才知を発達さするには、古の聖師賢友に(つい)てより(ほか)にその便りはなしと 信じたる反動力の衝突により、斜めに史学研究の方針をとりて走りたるなり」。
福沢や久米の勉学歴から当時の教養の培われた背景が伺われるではないか。エッセンスは要約すれば「歴史と倫理」であろう。歴史から社会のルールや知恵を学び、倫理から人間としてのルールと知恵を学んだのである。
13日 素読 素読の繰返しによるその学習方法は、勢い熟読玩味して血肉に至るものとなり、大事な所は暗記してしまう迄習うところに、身についた真の教養というべきものとなって行くのである。 明治の元勲たちは、このようにして、程度の差はあれども、素養と教養があったからこそ、西洋文明に遭遇しても正面からこれを見据えてよく対象を把握し得たのである。
14日 リーダーの条件 1 司馬遼太郎の「明治という国家」を読んだことがある。その中で、当時の政治家は「透き通った格調の高い精神で支えられたリアリズム」を持っていたと語っている。日清・日露戦争ま では現実を踏まえたリアリズムが生きており、その上で政策が決定されていたのである。
明治も末期から大正に入ると愈々目が見えなくなってしまい、現実から足が離れてしまい、虚像の上に判断が行われるようになった。
15日 リーダーの条件 2 虚像の上の判断、原因の
第一は「幻影」である。耳学問、机上の論、理想論は幻影を生む。現場知らずの、観念だけで捏ね上げたものは、事実から遠く離れてしまう。主義、イデオロギーにより構築された政策は、生きた世界を反映せず虚影なのである。
第二は、奢りである。慢心、傲慢である。目標達成と成功が契機で、ふわふわと舞い上がってしまい、大地から足が離れてしまい現実が見えなくなってしまう。
16日 夏目漱石の名演説

明治44年、和歌山で漱石は有名な講演をした。漱石は言う「現代日本の開化は、皮相上滑りの開化である。・しかしそれが悪いからお止しなさいというのではない。事実やむを得ない。

涙を呑んで上滑りに滑っていかなければならない。体力脳力ともに我らより旺盛な西洋人が百年の歳月を費やしたものを僅かにその半に足らぬ歳月で通過しようというのだから、上っ滑べりに滑るしかない。 

17日 日露戦争後 日露戦争に勝利したから日本人は、すっかりふわふわしてしまつた。「戦争以後、一等国になつたんだという高慢な声は随所に聞くようである。中々、気楽な見方をすれば出来るものだ」 と漱石は嘆いた。
日本はその頃からだんだんおかしくなるのである。明治維新の心を体していた初代の元老たちが健在の間は「明治という国家」はなんとかうまく操縦できたのである。
18日 三代目 明治も代替わりして二代目、三代目となると、途端に現実を忘れ、知らず知らずの間に慢心して傲岸となり、目が見えなくなって、国家の運転の仕方を間違えてしまった。 あの絆創膏の元赤城農林大臣のようなものとなったのである。彼の祖父は私でさえ記憶にある程、立派な人物であった。政治家の世襲は断固として反対する、まあ人にもよるのだが。
19日 昭和60年代 ジャパン、アズ、ナンバーワンと言われた戦後40年の経済大躍進。おだてられていい気になって、驕れる日本人になり戦勝気分、精 神も経済もおじゃんになった。おっと、どつこい、それは冷戦によりアメリカが対ソ連・中国への安全保障の保護下の繁栄であったことを忘れていたら過ぎない仮の繁栄であったに過ぎない。
20日 歴史は繰り返さず? 敗戦後の経済発展を受けた今日のそれは架空の繁栄といえる。富国気分でいるけれども、国家の安全を自分で支えていないのは架空の繁栄に過ぎないという自覚がないからだ。 足許を必ず覆される日が到来しよう。
架空の繁栄に酔いしいれ、国民の人格は愈々堕落し、衰弱し、架空の繁栄が消滅したら、今度こそ、立ち上がれないのではないか。
21日 明治人に見るリーダー像 1 リーダーたる者は、国家であれ地方公共団体であれ、会社であれ、また大学から小中学校の教員も含めて、幾つかの条件を備えていなくてはならぬ。 一つは、使命感、明快なる問題意識、目的、青写真、ビジョンである。
第二は、トータルに物を見るバランス感覚、木を見て森を見ざることにならぬこと。
22日 明治人に見るリーダー像 2 第三は、リアリズム、したたかな現状・現実認識である。

単なる知識とか、マニュアル依存でなく、歴史と倫理に裏打ちされた素養であろうか。 

23日 モデルは武士道精神 日本には、サムライ精神が伝来のものである。それは「君子たるものの精神」ともいえる。まだ地下水のように流れている。 その伏流水を汲み上げて日本人の再生を図らねばならぬ。明治維新の颯爽たる精神からの学び直す必要がある。
24日 歴史の簡単法則 政治が腐敗し、国家の経営が堕落すれば国は滅亡するのは歴史の自然である。それは国家だけではない、家庭も企業も同様である。 その盛衰・興亡には一つの原則がある。「唐様で、売り家と書く三代目」は川柳だが、「三代サイクル論」に通じている。
25日 「三代サイクル論」 初代が何も無い所から粒粒辛苦して財を作り基礎を構築する。二代目は、その蓄積や土台の上に立派な建築を造る。そして三代目はその富家の中で暖衣飽食して遊芸文化に耽溺し経済を蔑ろにして没落して行く。 二代目は初代の苦労を見て、創業者の教育を受けているから初代の厳しさや創業精神を何とか受け継ぐ。大体二代目までは維持される。三代目になると、その恵まれた環境の中で遊芸に現を抜かし経済を忘れてしまう。
26日 日本という国家 近世の歴史であるが初代の明治の20年間は創業時代であった。憲法が制定され、国会が開設された頃から二代目に入る。日清・日露戦争に勝ち欧米列強と漸く対等と認められ、宿願の条約改正も達成されたのが、明治40年代の明治末期。 そのあたりから、親の借金も返済したことだしと、気も緩み、慢心、奢り、名声欲、野心、遊惰、浪費、退廃などが特徴の三代目に入るのであります。没落の契機は、二つ、遊びと野心である。日本は帝国主義の野心に駆られて戦争という巨大投機に身代を投じてしまって没落したのである。
27日 戦後初代 敗戦後初代も焦土の中からのゼロスタートでありました。国の安全はアメリカにお願いして経済一辺倒でやってきました。様々の幸運もあり努力もあり20年近 く経て日本はすっかり立ち直りました。
万国博覧会、オリンピックをやるまでとなり、遂に日本は自動車と鉄鋼の世界一の生産になり、世界第二の経済大国という大建築を築いた。
28日 戦後二代・三代 経済大国と言われだしてから戦後初代の経営者が姿を消して行く、代替わりして二代目から三代目へと世代が交替する。そして1985年あたりを一つのピークとして、日本は三代目的特徴が段々と顕わにしてきた。平成元禄、浪費、遊興 大国と一億総白痴、総投機時代でした。三代目が必ず没落するとは限らない。四代、五代と続く国家や家庭もある。それは、二代目、三代目がいかに創業精神を保ち得るかにかかっている。奢り、慢心、遊惰、投機からいかに節制し謙虚に着実にやって行くかにかかっている。
29日 歴史は鏡 一代を20年と見るか30年と見るかはケースバイケースであろう。徳川時代は十五代で約270年続きましたから平均一代は18年となる。徳川も何回は没落の危機に直面するが、そこで必ず中興の租と言われ る大人物が出て立て直している。現代的には、体制のリストラであり構造改革であります。贅肉をとり、コレステロールを除去し、遊惰の気を排出して、心身を浄化する。その繰返しが組織の長命に役立つ。過去の大ローマ帝国も唐の大帝国も然りでありました。
30日 世界気運の変 明治維新の大改革は、久米の言葉を借りれば「世界の気運の変」によるものだという。それでこそ、徳川270年の大建築が崩壊するのでありますが現代日本 もそれに匹敵する「世界気運の変」に遭遇していると考えねばなりません。19世紀の大変化の契機は、蒸気機関であったとすれば、現代の大変化のトリガーはコンピューターでありましようか。
31日 明治のはつらつたる元気を 1872年当時、ジュール・ヴェルヌは、「100年前よりも十倍速く世界一周できる」と言いました。今日の我々は100年前よりも百倍速く世界を一周している。 とすれば、現代の我々は、明治の廃藩置県と欧米回覧に類するような思い切った行動、それもグローバルなスケールでの決断が必要ではないか。その意味であの明治初代のあの「はつらつたる元気」、「目の覚めるような断行力」を学び直さなくてはならないのではないか。