仁徳王朝の大和遷都 大和へ入るための基礎工作

平成25年12月

1日 仁徳王朝の大和遷都

大和へ入るための基礎工作
仁徳天皇の難波遷都でもう一つ考えておかなければならないことがあります。それは、元々は九州に基盤をおく仁徳天皇が大和へ進入していくにはそれなりの抵抗を受けたであろうということです。崇神王朝の崩壊からまだ間もないその時期、その崇神王朝の根拠地であった大和に都を設けるにはまだ仁徳王朝の政治基盤は十分ではなかったとみなければなりません。
2日 難波の宮 従って、大和ではなく難波へ遷都したのは実はなかなか大和に入れなかった九州勢力が、まず九州から東遷する前提として、九州と大和とを結びつけるのに便利な瀬戸内海の要所にクサビを打ち込む目的もあったと見られます。まず難波に根を下ろし、それから徐々に大和へ入る為の基盤工作というわけです。仁徳天皇の後の履中・反正両天皇を加えた三代の皇陵は、いずれも従って、大和ではなく難波へ遷都したのは実はなかな か大和に入れなかった九州勢力が、まず九州から東遷 する前提として、九州と大和とを結びつけるのに便利 な瀬戸内海の要所にクサビを打ち込む目的もあった と見られます。まず難波に根を下ろし、それから徐々 に大和へ入る為の基盤工作というわけです。 仁徳天皇の後の履中・反正両天皇を加えた三代の皇陵 は、いずれも難波の宮のある、大阪の上町丘陵上に存 在しております。上に存在しております。
3日 原大和国家の中心地 「記紀」によれば、履中天皇は大和の磐余稚(いわれのわか)桜宮(さくらのみや)おられた時、反正(はんせい)(いん)(ぎょう)の両天皇の宮殿は河内にあったとされています。然し、履中天皇が和泉か河内の皇陵の周辺地域に宮殿を営んでいた公算は非常に大きく、最近では「河内王朝」という名称が古代史家の間に生じているくらいです。いずれにせよ、仁徳天皇に発する王朝はかなりの期間、難波や河内へ都を置き、原大和国家の中心地であった大和国内へ入る事が出来たのは、漸く安康天皇以後になってからと考えられます。
4日 このことは、後の継体王朝の始祖、継体天皇が越前三国から天皇として擁立された時、河内の国から大和の国の周辺を転々として、大和に入ったのは晩年になってからであったという事例がありますが、それと全く同じような状況を考えたらよいのではないかと思います。即ち、大和以外から出てきた王朝は、その初期においては前王朝以来の大和の氏族たちの存在を無視できず、大和に都を築くことができなかったわけです。
5日 聖帝・暴君が明かす王朝交替劇

仁徳天皇聖帝伝説
仁徳天皇には、その即位のとき、弟の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ってなかなか継承しなかった、とう物語があります。これは、中国の王道政治の理念にみる禅譲思想によるところの伝説であり、聖帝である所以を説くための話として作られたものとみられます。
即位後は民草の貧困を思い、長年に亘って免税を行って民の財源を豊かにしたため、天皇自身の衣服は破れ、宮殿の修理も出来ないままの生活をされた。そして、民が富んだ事は即ち自分が富んだのと同じだ、と云って満足されたという話がありますが、これも、この天皇が聖帝であるとする為に作り出されたものと思われます。
6日

武烈天皇暴君伝説

武烈天皇は、まれに見る暴君として伝えられています。18歳で崩じたこの幼い天皇は、8年間の在位期間に色々な暴虐行為を、だいたい1年に一つずつ行ったということが「日本書紀」にまことしやかに記されているのです。その為、この天皇は天皇の中で、暴虐無類の天皇とされているのです。
然し、万世一系の皇統を継ぐ歴代天皇の中に、この天皇だけが暴虐の天皇であると述べているのは、仁徳天皇の初代を示すための聖帝伝説の創作とは逆に、暴君天皇の出現によって皇統が断絶したのだ、ということを表すための作り話と考えます。
註 王道 儒家の理想とした政治思想で、古代の王者が履行した仁徳を本とする政道をいう。
7日 武烈天皇の暴虐行為

即位年

年齢

暴虐行為

2

9月

12

妊婦の腹を割き胎児を取り出してその形を見る。

3

10

13

生爪を剥ぎ取って(いも)を掘らせた。

4

4

14

頭髪を抜き、木の上に上らせておいて木を切倒し落ちて死ぬのを見て楽しみとした。

5

6

15

池の?に人を伏せさせておいて水の力で外へ流れ出てくるのを先が三叉になっている矛で刺し殺して楽しんだ。

7

2

17

人を樹にのぼらせて下から弓で射落として笑った。

8

3

18

裸女の前で馬婚をさせて見せ、女の情感の度合いを確かめ殺したり官婢にしたりして楽しむ。

8日 王朝交替の説明の為に作られた伝説 仁徳王朝の初代天皇が聖帝で、その王朝の最後の天皇と見られる天皇は暴君?実はこれは中国の王朝思想なのです。中国では、各王朝の初代の始祖の時には何れも聖帝であるという伝説があるわけです。そして、各王朝が倒れる時にはいずれも暴君が出てきて、それによって革命が起こって王朝が交替するという王朝史の筋書きができているのです。
9日 このような中国の歴史書の合理的な解釈の仕方が「日本書紀」の編纂者にも採用されているのです。つまり仁徳天皇のところで王朝が代わり、その王朝が武烈天皇で倒れて、次の継体手が迎えられて新しい王朝ができた、というようなおぼろげな記憶が残されていて、それを歴史に著すため。合理的に何らかの理由づけをしなければならなくなった、そこで「記紀」編纂者たちは中国の思想にならって、仁徳天皇にまず聖帝伝説を結びつけ、武烈という天皇を作り出してそれに暴君としての伝説をつけ、この聖帝・暴君によって仁徳王朝が興り、断絶したということを説明しようとしているわけです。そうであれれば、私が説く王朝の交替は、実はこの仁徳聖帝・武烈暴君の伝説によって「日本書紀」の編纂者たち自らが明らかにしているとも解釈できるのです。
23講 継体王朝の王朝交替
10日 継体王朝出現の経緯

雄略天皇で断絶した仁徳王朝
仁徳天皇の皇統は、雄略天皇まで続くのですが、その間に天皇位の継承を巡っていくつかの内訌(ないこう)(皇族間の争い)があり、雄略天皇に至って皇位継承者が断絶する危機をはらんだようです。
11日 清寧天皇に実録的な記述がない 「記紀」は、雄略天皇で皇位継承者が断絶したのでなく、(せい)(ねい)天皇で断絶したとしていますが、清寧天皇には雄略天皇のような詳しい実録的な記述がなく、「古事記」の崩年干支註記もないことから、その史実に信憑性は全くないと言ってよく、私は雄略天皇で仁徳王朝の皇統は断絶したと考えます。そこで、まず雄略天皇がどのような天皇であったかを検討してみましょう。
12日 雄略天皇の誤算 雄略天皇が「宋書」にいう「()(おう)()」に当たることは、殆どの史家の間に異論がないことです。その()(おう)()の宋朝に対する上表文の中に「甲冑をまとい、山川を跋渉して寧所(ねいしょ)にいとまあらず。東に毛人(もうじん)55国を制し、西に(しゅう)()66国を服し、海を渡りて北95国を平らぐ」と記された一文があります。
また雄略天皇の238月の条の「日本書紀」の「雄略記」に、「天皇が崩御に際し大伴(おおともの)大連(おおむらじ)室屋(むろや)東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)の手をとって、名残を惜んで崩じられた」ということが記されてあるのは、“歴代”意を尽くして東国の経営に当たってきたが、その成果がまだ十分に上がっていない、業半ばにして世を去るのは甚だ残念であると、信頼していた大連(おおむらじ)に後事を託して崩じられたという解釈ができます。
13日 宋朝への上表文やその言動などを見て分るように、雄略天皇は勇猛で責任感のある優秀な王といえます。然し、雄略天皇は即位前、自分が皇位を継承したいにもかかわらず皇位の継承ができなかったのでした。なぜかと言いますと、仁徳王朝の継承法が「長子・兄弟相続制」という制度をとっていたからなのです。通常では長男が皇位を継承し、次の代にはその長男の子供たちが継承しますが、これは男子の「長子相続法」です。
14日 継承法 仁徳王朝の場合の相続法は長子がまず皇位を継ぎ、その次に次男が継ぎ、さらに三男が継ぎます。四人兄弟だと四番目まで、兄弟が順番に皇位を継承していきます。そのようにして末子まで天皇の位を継承し終わると、初めて長男の子供に皇位継承が回ってくるという継承法なのです。
15日 処が、そこまでしてやっと皇位継承はしたのですが、今度は自分に息子がいなかったのです。その為、皇位継承をすることができなくなり仁徳王朝にとつて命取りになったのです。
16日 有力な皇位継承者がないということで、「日本書紀」では雄略天皇の崩御後、皇子探しの物語が始まります。そして、その過程で何人もの天皇が擁立され、最後には王朝の滅亡を表す暴君武烈天皇も出現するのです。
17日 男大迹尊 さらに、武烈天皇崩御後も何とか縁を求めて、前の代に皇位継承の資格者があったかどうか、あちらこちら探した挙句、やっと男大迹尊を見つけ出し、越前三國から迎え入れたという話になります。
18日 註 宋書 宋書
100巻、中国の南朝宋の歴史書。第97夷蛮伝の倭国の条に倭五王の記事がある。
19日 皇位継承の為に誅伐された者

皇位継承の為に誅伐された者

時代

被誅伐者

誅伐者

誅伐理由

加害者

方法

関係豪族

履中

住吉仲皇子

履中天皇

黒媛を姦?した罪

隼人刺領巾

平群宿弥木菟

木梨軽皇子

安康天皇

軽大娘皇女を姦?した罪

恭天皇

大前宿弥(物部)

20日

軽大娘皇女

安康天皇

皇太子と姦通した罪

恭天皇

大前宿弥(物部)

安康

大草香皇子

安康天皇

根使主の讒言

安康天皇

根使主

21日

安康

安康天皇

眉輪王

父の仇敵

眉輪王

葛城大臣円

雄略

八釣白彦皇子

雄略天皇

安康天皇殺害加担

雄略天皇

葛城大臣円

22日

雄略

坂合白彦皇子

雄略天皇

眉輪王合流の罪

雄略天皇

葛城大臣円

雄略

眉輪王

雄略天皇

安康天皇殺害の罪

雄略天皇

葛城大臣円

23日

雄略

市辺押磐皇子

雄略天皇

皇位窺?の疑念

雄略天皇

佐伯部売輪

雄略

御馬皇子

雄略天皇

身狭を訪ねた途中邀軍にあい捕われて刑さる

雄略天皇

三輪君身狭

24日

清寧

星川皇子

清寧天皇

大蔵の官をとり皇位窺?

大伴大連室屋

吉備雅媛・吉備上道臣

刑は刑死。

刺は刺殺。

自は自殺。

流は遠流。

斬は斬殺。

燔は火燔。

射は射殺。

本年はここまでとします。次回は平成26年元旦から再開します。
1月からのテーマは「継体王朝出現の背景雄略-継体間の四天皇は架空であります。請う、ご期待!!