世界の金融の仕組み  国際通貨体制の変遷

為替相場の歴史

 1871年( 明治4年 )、日本の円とアメリカのドルの交換比率

が初めて決まったが、この時の比率は、1ドル=

1円だった。 しかし、長い戦争を経験して経済がすっかり弱まり、

インフレも進んだ。 第二次世界大戦に負けた

直後の1949年、日本を占領していたGHQは、1ドル=360円

という固定相場制を決めた。

 実態は1ドル=320〜340円がのぞましかったようだが、日本

経済を発展させ、( アメリカのグループに入ると

こんなにいいことがあるぞ ) ということを示し、日本にショーウィン

ドーの役割をさせようとしたかったアメリカは

1ドル=360円にしたという。 これにより、日本はアメリカへの

輸出を伸ばし、経済が発展することになる。

 

 世界恐慌に対処するため、英米仏はブロック経済という排他的な経済圏を形成し、関税を引き上げて輸入を制

限したり、輸出を伸ばすために為替レートを切り上げたりするなど、保護主義的な貿易政策に走った。 それが

ブロック間の対立と貿易の縮小をもたらし、第二次世界大戦の経済的な要因となった。

 

 その反省から、アメリカを中心とした連合国は ――― 、

1944年( 戦争中 ) ―  連合国44ヶ国の代表が集まり、

ブレトン=ウッズ協定 が結ばれる。

※ ブレトン=ウッズは、アメリカのニューハンプシャー州の

さな村。

 ( 内容 )ドルを基軸通貨とする固定相場制を採用し、自由貿易を進

める。

IMF と IBRD の設立が合意され、関税と貿易に関する一般協定( GATT )が締結される。

IMF ( 国際通貨基金 )は為替相場を安定させるために作られた

機関で、国際収支が赤字の国には一時的

に短期の外貨資金融資が主な役割である。 為替管理の撤廃を促して

国際貿易を自由化・拡大し、融資対象国

の経済政策の運営を監視するのも役割の一つである。

( 1997年〜、アジア通貨危機では・・・ )

IMFから融資を受けたタイ、インドネシア、韓国などは、コンディ

ショナリティー( 融資条件 )を通じて

IMFの管理を受け、その監視下で経済改革に取り組んだ。

 

IBRD ( 国際復興開発銀行 )は、加盟国からの拠出金と借入金に

よって、戦後復興のための長期融資を行う

国連の機関である。 今日では、発展途上国のための長期融資を主な

業務としており、世界銀行とも呼ばれる。

IDA( 国際開発協会 )・IFC( 国際金融公社 )などからなる

世界銀行グループの中核として、戦後の国際経済の

発展に大きな役割を果たした。

 

 さらに、外国が、持っているドルをアメリカに対して 「 金と交換し

てくれ 」 と要求したら、アメリカは 1オンス=

35ドルで交換することになった。  こうして、金との交換を保証

されたアメリカドルを国際通貨( 基軸通貨 )と

定め、このドルと各国通貨とを固定相場で結ぶ固定相場制を基礎とし

て、国際通貨制度が築かれた

( = IMF

体制 / 金・ドル本位制 ) 。

 戦後、為替相場の安定を図り、自由貿易の拡大をめざすこうした

体制を、ブレトン=ウッズ体制 ( IMF=

GATT体制 )という。

 

 加盟国は自国通貨の変動幅を固定レートの上下1%以内に維持する義務を負うことになった。

 

 

 

 日本の場合、1949 〜 1971年まで為替相場を1ドル=360円に固定し、変動幅を上下1%以内にとどめる

 

固定相場制をとってきた。 これを維持するため、変動幅の上限(+1% )を超えそうな場合は、ドル売り・円買い

 

   アメリカの兌換義務

 

 IMFの発足当時、アメリカは世界中の金の4分の3を保有してい

た。 ドルは、この圧倒的な金保有量を

 背景に、戦後の基軸通貨となった。 そして、ドルに対する信用を

維持するために、アメリカは各国の中央

 銀行の求めに応じて、1オンス=35ドルで各国の保有するドルを

金と交換する義務を負った。 つまり、アメ

 リカがこの兌換に応じられる十分な金を保有していることが、

ドルの基軸通貨としての信用を維持する前提

条件なのである。

【ドル危機】

 

 戦後、徐々に、ヨーロッパ諸国や日本が経済的に台頭してきた。

 一方のアメリカは、@ヨーロッパ復興のため

にドルを流出したり、Aベトナム戦争による軍事支出の増大、

Bアメリカの多国籍企業の海外投資の増大、

CECや日本の経済力増大で貿易黒字の縮小  などからドルが海外に

流出し、国際収支が悪化し、経済

的優位は崩れた。 

 ドルが世界中にあふれるということは、アメリカの持っている金に

も限度があるので、やがて、金とドルが交換で

きなくなる日が来ることを意味する。

 各国は1960年代に入って、アメリカから大量のドルが海外に流出

すると、金との兌換に不安をもった各国が

競ってドルを金に変えようとした。 アメリカの金保有量が減少して

、ドルの基軸通貨としての信用が失われていっ

た( = ドル危機/ドル不安 )。  

 

【ブレトン=ウッズ体制の崩壊】

 ドル危機の進行により、アメリカが国際流動性のジレンマという泥

沼にはまった。 拡大する貿易を滞らせない

ためには、アメリカはドルを海外へ供給し続ける必要がある。 

そうすると、今度はドル危機が深刻化するというジ

レンマだ。

 そこで、ドル危機への対策として ――― 、

1970年 ――  IMFは、金・ドルにかわる新たな準備資金とし

て SDR( 特別引き出し権 ) を創設する。

 SDRは、IMF出資額に応じて各国に分配された。 国際収支が

赤字になった場合、外貨準備不足におちいった

加盟国が、IMFを通じて豊富な国から外貨を引き出すことができる

というもの。 ドルとちがって金との交換性が

ないという利点がある。

 しかし、ドル危機は止らなかった。

   1971年8月 ―― アメリカのニクソン大統領は 「 金とドル

の交換を停止する 」 という声明文を出す。

 これが、ニクソン・ショック( ドル・ショック ) で、ブレトン=

ウッズ体制=IMF体制 ( 金・ドル本位制 )は崩壊し

た。  ドルはただの紙切れとなり、ドルの価値が下がることが予想さ

れた。

1971年12月 ―― スミソニアン協定を結ぶ。 

    ( 内容 )  @ 各国通貨の平価( 対外価値を示す基準 )

調整が行われ、金の公定価格は1オンス=35ド

            ルから38ドルに変更、金に対してドルは

切り下げられた。

A           ドル以外の通貨は切り上げとなり、1ドル

B           =308円となった。

   ――― 変動幅も上下2.25%に拡大する。 

 その後も、アメリカの貿易赤字は続き、ドルに対する信頼性は失わ

れた。

1973年 ――― 各国は変動相場制に移行する。( 日本も、

変動相場制に移行する。 )

 

 それ以来、1ドルは300円台から200円台になり、やがて、

100円を切る時代になった。

 変動相場制のよい点は、貿易赤字や貿易黒字が小さくなるというこ

とだ。  円高 → 日本の輸出が減る →

貿易黒字が減る → 円安になる → 日本の輸出は増える、という

ように自動的に修正されるのだ。

 悪い点は、貿易の仕事をしている会社にとって、先の見とおしがた

たないということだ。 為替相場の上下に伴う

リスクをたえず、気にしなくてはならない。 そして、為替相場でも

うける投資家が出てきて、お金が商品となる時

代になった。

1976年 ――― キングストン合意が成立する。

 

                ※ 発効=1978年。 キングストンはジャマイカの都市。

 

 ( 内容 )  @ 変動相場制への移行を承認する    A SDRが金にかわる中心的な準備資産とする

 

B 金の公定価格を廃止して、金とドルを分離する

 

 

【プラザ合意】

 変動相場制へ移行して、為替レートが短期間のうちに、不安定な乱

高下を繰り返すようになった。 そのため、

先進国が協調して為替レートを管理していく重要性が認識され始めた

。 1980年代はじめ、日本は対米輸出の

急増により、世界最大の貿易黒字国となった。 

 1981年にアメリカの大統領に就任したレーガン大統領は、

アメリカの経済力と軍事力の強化を図ろうとした。

それまでのケインズ政策とちがって 「 小さな政府 」 を主張した

レーガンは、政府支出の抑制、大幅な減税、規制

緩和などのレーガノミックスと呼ばれる政策を行った。 

 しかし、一方で、軍事支出の激増によって財政赤字は拡大し、

アメリカは高金利政策をとったのでドル高にな

り、アメリカの輸出競争力を弱めた。 1980年代のアメリカは

財政赤字と経常収支の赤字が同時に進行する

 「 双子の赤字 」 に悩まされ、アメリカ国内では保護主義が台頭し

始めた。

 

 保護主義傾向に危機を感じた先進諸国は、会議を開いた。

   1985年 ――― ニューヨークのプラザホテルで、G5が

開かれる。

 ※ G5 ――― 先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議。 

5ヵ国とは、日・米・英・仏・西独である。

    ( 内容 )  ドル高を是正するため、各国がドル売りの

協調介入( 円高ドル安にしようとした )で合意する

  ( = プラザ合意 )。

 この結果、急激な円高ドル安が進行し、1ドル=240円台だった

為替レートは、1ドル=120円台まで円高とな

った。

 円高を利用した海外直接投資が増大し、資本収支は大幅な赤字と

なった。 この時期、日本企業によるアメリ

カの企業や不動産の買収が盛んに行われた。 

 この急激な円高は日本企業を直撃し、円高によって日本製品の国際

競争力は低下したので、輸出主導型で

成長してきた日本経済は円高不況に陥った( 1986年 )

 企業の中には円高の影響を回避するために、生産

拠点を海外に移すところも多く、産業の空洞化という事態が懸念さ

れた。

 

1987年 ――― フランスでG7が開かれ、ルーブル合意がなさ

れる。

※ G7 ――― G5の国に、イタリアとカナダが加わる。

( 内容 ) G5諸国は貿易黒字国の協調利下げと、アメリカの利

上げを決め、ドル安を止めようとする。

 

【アジア通貨危機】

   1997年 ――― アジア通貨危機が起こる。

 この年、タイの通貨バーツは米ドル連動制( ドルペッグ制 )か

ら変動相場制に移行して大きく下落し、アジア通

貨危機の発端となった。  最も深刻な被害をこうむったのは、

タイ、インドネシア、韓国である。

 

 これらの国には、外国から大量の短期資金が流入していた。

  為替レートは連動していたので、ドル高につれ

て自国通貨のレートも上昇していった。

 しかし、国内経済の状況はよくなく、経済破綻による為替レートの

下落を恐れ、海外から流入していた短期資金

が一斉に国外に逃避した。 アジア通貨を売ってドルを買う動きが起

きたため、為替レートが暴落した。 この背

景には、ヘッジファンドがタイバーツの大量売りを仕かけたことが

ある。

 

 アジア通貨危機に際し、IMFはタイ、インドネシア、韓国など

一定の制度改革を行うという条件の下に、巨額の

緊急融資を行うなどの金融支援策を実施した。

ブレトン・ウッズ体制 Bretton Woods system

1944年7月、米国のニュ・ーハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44カ国が集まり、第二次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議(連合国通貨金融会議)を開きました。これをブレトン・ウッズ会議といいます。

ブレトン・ウッズ会議では、安定した為替レートに基づいた自由貿易を発展させるための機関として、国際復興開発銀行(IBRD)が創設されました。また、国際通貨体制を支える機関として、国際通貨基金(IMF)が創設され、IMF協定が結ばれました。これをブレトン・ウッズ協定といいます。

また、ブレトン・ウッズで決められた国際通貨体制をブレトン・ウッズ体制または、IMF体制といいます。

≪金ドル本位制≫

国際通貨基金(IMF)は、金だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドルを金とならぶ国際通貨としました。1930年から1940年代には、世界のおおかたの金が米国に集中しており、米国は圧倒的な経済力を誇っていました。米国の豊富な金をもとに発行されたドルは、金と同様の価値があったのです。このように、ドルと各国の通貨価値を連動させたことから、ブレトン・ウッズ体制(IMF体制)のことを、金ドル本位制ともいいます。

金ドル本位制では、金とドルの交換率を、金1オンス=35ドルと決め、金との交換を保証しました。為替レートが固定されていたことから、この制度を固定相場制ともいいます。

また、為替相場の変動を平価の上下1%以内に維持することが決められ、ほとんどの加盟国が、ドルに対して1%より狭い変動幅に定めました。日本でも、平価を1ドル=360円に固定し、変動幅も国際通貨基金(IMF)に加盟した当初は上下0.5%、1963年以降は上下0.75%としています。 

金ドル本位制
(固定相場制)

金とドルの交換率 金1オンス=35ドル

為替相場の変動 平価の上下1%以内

≪ニクソン・ショック≫

米国は、1960年代にベトナム戦争での大量支出や、対外的な軍事力増強などを行った結果、大幅な財政赤字を抱えることとなり、国際収支が悪化して、大量のドルが海外に流出してしまいました。米国は、金の準備量をはるかに超えた多額のドル紙幣の発行を余儀なくされ、金との交換を保証できなくなりました。

1971年8月15日、米大統領ニクソンは、ドルと金の交換停止を発表しました。これをニクソン・ショックといいます。これにより、ブレトン・ウッズ体制は崩壊しました。米ドルは信用を失って大量に売却され、市場で大暴落しました。ブレトンウッズ体制の崩壊により、国際通貨制度は、同年12月のスミソニアン合意にいたるまで、一時的に変動相場制へと移行しました。

ブレトン・ウッズ体制(1945〜1971)

・国際通貨基金(IMF)国際復興開発銀行(IBRD)を創設

IMFは、ドルを金とならぶ国際通貨とした(金・ドル本位制

金1オンス=$35  変動幅 1% …… 固定相場

1971年8月のニクソン・ショックにより、ブレトンウッズ体制崩壊

ブレトン・ウッズ協定

ブレトン・ウッズ協定は、第二次世界大戦後半の19447月、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945に発効した国際金融機構についての協定である。

国際通貨基金IMF)、国際復興開発銀行IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。この協定は1929世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンス35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円(変動幅±1%[1]に固定された。 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋奇跡」とよばれた。安定した自由貿易の利益が先進工業国全体の経済を改善した[要出典]

結末

しかしその後、アメリカ合衆国と世界の諸国の経済や貿易や財政の規模が著しく増大し、金の産出量や保有量が、経済や貿易や財政の規模の増大に対応することが困難になった。

19718月にニクソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止し、ブレトンウッズ体制は終了した。

 

 

IMF体制

19447月、連合国44カ国が、米国のニューハンプシャー州ブレトンウッズに集まり第二次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議を開催、国際通貨基金(IMF)協定などが結ばれた。この際、これまでの金だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドルを基軸通貨とする制度を作り、ドルを金とならぶ国際通貨とした。ブレトンウッズ体制または金・ドル本位制