ヨーロッパの侵略時代の日本人 

それは、日本では織田信長時代以降であり、欧州では「大航海時代」と美称を使っているが、その実、世界へ植民地争奪戦のことである。東南アジアはインドも含めてすべて植民地化された。

日本だけ、なぜ彼らは植民地化出来なかったのか、それは日本人に特質があり、欧米人もそれを認識して日本植民地化は困難と判断したのである。 

現に当時のイタリアのイエズス会巡察使・アレツサンドロ・ヴァリニャーノは「日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本人は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服可能な国土ではない」と発言した記録が残っている。 

馬脚を現した発言である。当時のヨーロッパ人はキリスト布教の顔をした侵略を意図したものである。 

その日本植民地化困難の理由は五つある。

@武士の存在

日本人は名誉心が強く、人に誇りを傷つけられるのなら、死を賭してでも防ぐという武士は、彼らにはとても手強い存在であった。

A進取の気性

種子島に鉄砲が来て、二挺買ったらすぐそれを自らの手で作り上げ、10年の間に日本に普及させた日本人の凄さ。新しいものを取り入れる、気概と明敏さ、伝達網がしっかりしている。進取、自主の欠けた国民が植民地にされている。 

B民度の高さ

字の読み書きの出来る人々が多く、理知的で理解が早い。高い道徳性で秩序が高く保たれ、付け入る隙もない。 

C上の命令を良く聞き、統率が保たれている。

D地理的条件

日本はヨーロッパから遠く、また東南アジアの植民地からも距離があり、海に囲まれ征服の軍を出すにしても陸続きの兵站の供給が出来ない。勝つのは無理としたのである。 

これらの理由により、単純な征服は手控えたのであろう。そこで白人は作戦の変更をして、まずは宣教、貿易で門戸を開かせて足がかり作り、しかる後に戦争に持ち込むということであった。 

江戸時代、徳川家康らの指導者は、それを見抜き、いわゆる「鎖国」政策で対抗したのである。 

フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは、「習俗試論」の本文最終章は、なぜか、日本に関して記述している。 

17世紀の日本とフランスに於けるキリスト教の消滅について」というテーマである。そして次のように述べている。 

「日本人は寛大で、気安く、誇り高い、そして、その決断に関しては極端な一民族である。彼らは、最初、異国人たちを好意を以て受け入れた。処が自分たちが侮辱されたと信ずるや、彼らときっぱり縁を切った。」
と延べキリスト教の日本壟断の意図に対する日本の英断を称えている。
 

インドの首相ネルーは、この時期の日本に関して次のように述べている。 

「むしろ彼らが、ヨーロッパと殆ど交渉が無かったにもかかわらず、宗教という羊の衣をかぶった帝国主義の狼を見破ると洞察力を持っていたことこそ、驚くべきことだ」。 

このように欧米の恐るべき植民地化のワナから脱した日本は、世界史的にも特筆に価いする長期の平和な江戸時代を構築したのである。 

明治とて同様な決断をした祖先ばかりである。 

現代の日本人は、この我々の祖先の血の滲むような歴史を尊く学び、子々孫々にこの素晴らしい日本を残してゆかねばならぬのである。 

             平成1912月10日
            徳永日本学研究所 代表 徳永圀典