徳永の「古事記」その9 
      「神話を教えない民族は必ず滅んでいる」

平成24年12月

31日 天之(あめの)()(ぼこ)  3 天之(あめの)()(ぼこ)は妻を追って渡ったが海峡の神に(さえぎ)られて難波に入ることが出来ず、また戻って、多遅摩(たじまの)(くに)(但馬国)に至り、そのままこの国に留まった。垂仁天皇の御世に、常世の国へ行った多遅(たじ)()()()はその子孫である。
天之(あめの)()(ぼこ) 2 だが、天之(あめの)()(ぼこ)が思い上がって妻を罵るので遂に、「私は貴方の妻になるような女ではない、先祖の国に行く」と小舟に乗って逃げた。海を渡り、この国の難波に到る。これが難波の比売碁曾社(ひめごそのやしろ)(いま)()()()()(めの)(かみ)である。
29日 天之(あめの)()(ぼこ) この名前は奇妙に覚えてきた。(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)の母方を遡ると新羅国王の子・天之(あめの)()(ぼこ)に辿り着くという。海を渡ってきたのである。「新羅国に一つの沼あり。名は阿具沼と謂ひき。この沼の(ほとり)に、(ある)(いや)しき(をみな)昼寝しき。ここに()虹の如く耀(かがや)きて、その陰上(ほと)に指ししを、また(ある)(いや)しき(をとこ)、その(さま)(あや)しと思ひて、恒にその女人(をみな)(わざ)を伺ひき」。この女は紅い玉を産む。男はその玉を持ち腰につけていたら国王の子の天之(あめの)()(ぼこ)に会う。経緯あり玉を差し出して赦される。その玉を床に置くと美しい娘となり天之(あめの)()(ぼこ)は正妻として迎えた。
28日 (さか)(くらの) 御子と建内宿禰(たけのうちのすくね)が都へ戻ると。母の(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)が待つ人の無事を祈る()(しゅ)を醸して御子に捧げて歌われたのが「この御酒(みき)常世(とこよ)に坐す少毘古那(すくなびこなの)(かみ)(まつ)ってきた酒」と。そこで、建内宿禰(たけのうちのすくね)が御子に変って歌った。

「この御酒(みき)()みける人は その(つづみ) (うす)に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかもこの御酒(みき)の 御酒の あやにうた(だの)し ささ」

これを(さか)(くらの)歌という。やがて御子は軽島の明宮で即位した。この天皇の御世には新羅・百済からの渡来人が多く、和邇(わに)吉師(きし)は論語や千字文を献上した。鍛冶、機織り、酒造りなどの技術者も渡来してきた。

27日 気比(けひの)大神(おおかみ)
皇后は神の教えの通りにして海を渡り新羅と百済を帰順させた。新羅討伐の終らぬうちに、御子が産まれそうになるが腹を鎮めて帰路に着いた。筑紫で御子を生む、品陀(ほむだ)和気(わけの)(みこと)であり応神天皇である。建内宿禰(たけのうちのすくね)が御子を(おふ)()若狭(わかさ)を経巡った時、(つぬ)鹿()の地に坐す伊奢紗(いざさ)和気(わけの)大神(おおかみ)が現れて御子に「名を取替えよう」と言われ承諾した。翌朝、神の贈り物のイルカが浦に満ちた。そこで、この神の御名を称えて「御食津(みけつの)大神(おおかみ)」と名付けた。神の御食(みけ)を下さったからである。現在でも気比(けひの)大神(おおかみ)と申している。
26日 天照大神の御心 「ここにその神、(いた)忿(いか)りて()りたまひしく、「凡そこの(あめ)の下は、(いまし)の知らすべき国にあらず。汝は一道(ひとみち)に向ひたまへ」。
おまへは人の行くべきただ一つの道(
死の国)へ行け」と神の怒りを受け琴を弾きながら天皇は事切れた。
殯宮(あらきのみや)(もがりの宮)に遺体を安置し大祓を行った。真意を問うと、神は「この国は皇后の胎内にいる御子の治める国、これは天照大神の御心であり、また(そこ)筒男(つつのお)中筒男(なかつつのお)上筒男(うはつつのお)の三神である」と名乗り、西の国を帰順させる為の手立てを教えた。
25日

(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)

仲哀(ちゅうあい)天皇は帯中(たらしなかつ)日子(ひこの)(みこと)と申す。熊襲を撃つべく筑紫の()志比宮(しひのみや)に坐して琴を引いていた時、后である(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)こと神功皇后が神意を伺っていた。建内宿禰の大臣(おおおみ)が伺いを立てると后に依り()いた神が「西方に金銀珍宝に満ちた国がある。その国を帰順させよう」と託宣が下された。天皇は信じない。

24日 壮大な民族的物語 勇者であり、国土統一の立役者、而も孤独な最後を遂げたヤマトタケルへの同情、源義経への思いと似ている、日本人らしい感情の源泉的物語であろうか。最後の地、現在の三重県鈴鹿山脈の山麓、能煩野での歌である。いずれも故郷を偲んだ「国偲び」の歌である。国を偲び、称え、人々の長寿と幸せを願う歌である。歌い終えると同時に生命を失ったという、ロマン溢れる壮大な民族的物語である。
23日 御大葬で現代も歌われる なづきの田の 稲がらに 稲がらに   ()(もとほ)ろふ ()(ころ)(づら) 

(あさ)小竹原(じのはら) (こし)(なず)む 空には()かず 足よ()くな 

海処(うみが)()けば (こし)(なず)む 大河原の 植え(ぐさ)海処は いさよふ 

浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ 

解説 
八尋(はちひろ)(しら)()(どり)となって空へ飛び立ったヤマトタケルを泣きながら追いかけた后や皇子たちの歌。四つの歌は総てヤマトタケルの御葬で歌われた。以来、現在でも、天皇の御大葬(ごたいそう)で歌われる。

22日 倭建命の歌 ()しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居(くもい)立ち()   

解説 国偲びの歌。「雲居(くもい)立ち()も」は、雲を生命力と豊穣の予祝として歌ったもの。これは577の片歌。
 

嬢子(をとめ)の (とこ)()に 我が置きし 剣の大刀(たち) その大刀(たち)はや 

解説 容態が急変し、苦しみながら最後に詠んだ
美夜受比売(みやずひめ)の床の傍に置いてきた 草薙の剣 ああ 草薙剣よ」詠み終えると同時に息を引き取った。
21日 倭建命望郷の歌 倭建命望郷の歌
(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣
(ごも)れる 倭しうるはし

解説 
倭建命はすっかり疲れて能煩野に着いた時、故郷を偲ん
で詠んだ歌「大和は国の中でも最も秀れた地。重畳たる山々は青い垣根のようだ。その山に囲まれた大和は本当に美しい。
命の (また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の熊白檮(くまかし)が葉を ()()()せ その子 
解説 
やはり能煩野で詠んだ歌。「大切な命の健やかな人は、平群の山の熊白檮(くまかし)の葉を髪に挿して飾りなさい、若い子たちよ。樫の葉を髪に挿すのは常緑の葉に因んだ長寿の予祝。(畳薦は平群の枕詞)

20日 賞賛と鎮魂 大和まで、あと一歩の地、能煩(のぼ)()の地に辿り着いた時、倭建命は自分の死期を悟る。そして望郷の歌を詠む。息を引き取った。倭建命の死を知った妃や皇子が駆けつけ葬儀を行うと、倭建命の魂は白い鳥となり遥かな空の彼方へと飛び去って行った。この倭建命の物語は、地方平定を行った多くの兵士たちの功労を終結しており、影となって戦った者たちへの賞賛と鎮魂の意が込められていると見られている。
19日 倭建命結婚 山梨の(さか)折宮(おりのみや)から信濃国を越えて尾張の美夜受比売(みやずひめ)のもとへ戻った倭建命は、約束どおり結婚した。そして改めて平定の為に伊吹山へ向った。その時、素手で勝利することを誓い、比売(ひめ)の下に草薙剣を置いていった。このことにより、伊勢神宮(天照大神)の加護が失われ倭建命の運命は暗転してしまう。伊吹山の神との戦いの際、神が降らせた(ひょう)に強く打たれて体が弱り歩行も困難となる。
18日 我妻はや (はしり)(みずの)(うみ)(浦賀水道)を船だ渡っている時、海峡の神が荒波立てて、行く道の邪魔をする。すると、妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)が、「私が貴方の身代わりとなり海峡の神を鎮めましょう」と嵐の海へ身を投げた。すぐさま波は穏やかとなり船は無事に進むことを得た。箱根の北、足柄峠に来た時、倭建命の胸には、自らを犠牲に進む道を支えてくれた弟橘比売(おとたちばなひめ)への想いがこみ上げた。
「我妻はや(ああ、我が妻よ!)、その叫び以降、足柄峠から東を「吾妻(あずま)()の国」と呼ぶようになった。
17日 倭建命の悲劇の物語 倭建命は、それを持って尾張の国の美夜受比売(みやずひめ)のもとへ向かった。そして総ての任務が終ったら結婚しようと約束する。その思いを胸に、荒ぶる神々や豪族を朝廷に従わせながら東海道を東へ東へと進んだ。相模の国では、異心を抱き野で倭建命に火を放った国造を、貰った袋に入っていた「火打石」で撃退した。
16日 草薙の剣 倭建命は、再び叔母の倭比売(やまとひめの)(みこと)を訪ね父天皇の対応のやりきれない気持ちを吐露した。「西を平定して帰っても、直ぐに東国へ行けという、私が死ねばいいと思っているのではないか」と。案じた叔母は、スサノオが八岐大蛇の体内から得た「草薙の剣」を授けた。そして、いざと言う時には、これを開けなさいと一つの袋を渡した。
15日

熊曾(くまそ)平定

賞賛無く東国平定を厳命

父の期待に応えるべく少女の衣裳を持ち熊曾建の元へ向う小碓(おうすの)(みこと)(後の倭建命)、襲撃の機会を待つ。熊曾の屋敷の増築が完成し祝宴が行われるという。小碓(おうすの)(みこと)は髪をおろして少女の衣裳を着て祝宴に潜入した。熊曾建の兄に気に入られて傍に近寄る事が出来、その胸を一突きにした。自分より強い兄の最後を見た熊曾建の弟は慌て、「建の名前を献上する、(やまと)(たけるの)(みこと)と呼び敬う」と臣従を誓ったが許されなかった。
熊曾は平定され、出雲建も討伐し、達成感に包まれて大和の父の下へ小碓(おうすの)(みこと)(倭建命)は帰還した。だが、父・景行天皇は賞賛することもなく、そのまま「東国平定」を厳命する。
14日 小碓 天皇は小碓(おうすの)(みこと)(後の倭建命)に兄を諭すように命じた。処が一向に大碓(おおうすの)(みこと)は現れない。小碓(おうすの)(みこと)(後の倭建)に問えば「夜明け前に、兄の手足を引きちぎり(むしろ)を包んで捨てた」という。忠誠のつもりの行為が逆に天皇に恐れを呼んでしまった。「この弟は将来災いを招くに違いない」、天皇は小碓(おうすの)(みこと)(後の倭建命)に「西の方に熊曾(くまそ)(たける)という二人の荒ぶる男がいる。そなたが行きて朝廷に服従させなさい」と命じた。出陣前、小碓(おうすの)(みこと)(後の倭建命)は伊勢に住む叔母・倭比売(やまとひめの)(みこと)訪ねる。倭比売(やまとひめの)(みこと)は垂仁天皇の娘であり伊勢神宮を管轄していた。叔母と当時まだ少年だった小碓(おうすの)(みこと)少女の衣裳を授けた。
13日 景行天皇 景行天皇には80人余りの皇子がいたとされる。その中で特に目立ったのが、大碓(おおうすの)(みこと)小碓(おうすの)(みこと)(後の倭建)である。景行天皇は、美濃国の大根(おおねの)(みこ)に美い二人の娘・兄比売(えひめ)弟比売(おとひめ)かがいると聞いて宮中に招くた大碓(おおうすの)(みこと)を遣わした。然し、大碓(おおうすの)(みこと)は二人の娘を自分の妻にして別の娘を宮中に連れてきた。天皇はすぐに見破ったが咎めることはしなかった。一方で後ろめたい大碓(おおうすの)(みこと)は天皇の前に顔を出さなくなった。
12日 中つ巻

(やまと)(たけるの)(みこと)物語
古事記の中巻から始まる天皇の物語の中てで、悲劇の英雄として各地でその活躍が語り継がれているのが、「倭建命」である。父の景行天皇からの命により各地の荒ぶる神々と豪族たちを平定した物語を忘れてはなるまい。
11日 神嘗祭と伊勢神宮最古の祭典 神嘗祭と共に伊勢神宮最古の祭典は、(かん)御衣(みそ)(まつり)で、「天の安河の誓約(うけひ)」で示す御統(みすまる)の玉を(もの)(ざね)として皇祖神として宣言している。古事記のかかる事が祈念祭に始まる伊勢の神田の神事と(かん)御衣(みそ)(まつり)、神嘗祭に反映しているのだ。
10日 (いな)(だま) 内宮には、御稲御倉があるが、ここに「御稲(みしねの)御倉(みくらの)(かみ)」が祀られ、神話の時代から続く、神宮神田で収穫された天照大神から()さしまつられた(ぬい)()の稲穂が納められている。稲魂の気が充満している感じだという。正に(いな)(だま)であろう。氣の文字の中は「米」である。日本人のエネルギーのスピリットは米であり気なのである。
9日
神嘗祭
式年遷宮は神嘗祭の20年ごとである。平成25年秋には第62回の式年遷宮が斎行される。古事記では三貴子の生誕の条で「なが命は高天原を知らせ」と委任されイザナギ命から御頚珠を頂くその珠の名は「御倉板挙(みくらたま)(かみ)」という。これは神聖な倉の中の棚に祭る稲霊である。
8日 太陽神信仰 記紀ともに、天の岩戸に籠もる神話がある太陽神である。太古から伊勢志摩地地方には強い太陽神の信仰があったと推測されている。古代人は朝日の昇る向こうに常世(とこよ)を信じたものであろう。
7日 神話の世界は民族のロマン 天照大神は「天にあって照り輝く偉大な神々しい神」という、最高唯一の神を意味する。古事記では、「天照大神」または「日神」と記されている。日本書紀では、日に仕える高貴な巫女という意味で大日る(おおひるめ)(むち)」と記されている。
6日 伊勢は古事記の舞台ではない 神宮鎮座に関し、「日本書紀」や「倭姫命世記」など「神道五部書」や、延暦23年、804年の「皇大神宮儀式帳」などに記されていて「古事記」で神宮が出てくるのは天孫降臨の条に内宮のことを佐久々侶伊須受(さくくしろいすず)能宮(のみや)」と書いてある。外宮に就いては、これも天孫降臨の条に「()()(けの)大神(おほかみ)は外宮の度相に座す」と期されているのみで、鎮座の由来や年号はコメントは無い。伊勢は古事記の舞台ではない。
5日 外宮のこと 内宮鎮座500年後、雄略天皇の夢に、天照大神が現れ、丹波の国から御饌(みけ)(つの)(かみ)として()()(けの)大神(おおかみ)迎えて欲しいとされ外宮が鎮座したのである。これらの事は日本書紀には記されているが古事記には無い。
4日 五十鈴川に居たい 次ぎの第十一代、垂仁天皇の皇女・倭姫命が、もっと良い宮地を求めて長い旅をされ、伊勢国、現在の内宮の地、五十鈴川の川上で「ここに居たいと思う」という大神の声を聞かれた。それから2千年余、ずっと現在地に鎮座されている。
3日 大三輪神社の近く そこで、どうしてかと占いをして、天照大神を皇居の外に移し、倭の笠縫邑に()堅城(かたき)神籬(ひもろぎ)を立てて皇女の豊鋤入姫(とよすきいりひめの)(みこと)により祭られたという。その場所は大三輪神社の近くと推定されている。現在そこに社があり天照大神を祀ってある。
2日
伊勢神宮の起源
天孫降臨の時、高天原で天照大神が初めて稲穂を手にされ、これこそ、これから向う国民の主食にすべきものだと、邇邇芸命に三種の神器と共に託され、長い旅をして高千穂から大和国へ来て以来、歴代の天皇は三種の神器を宮中で床を同じく殿を共にしてお祀りし、お米を作り「約束通り今年も稔らせました。お陰様で豊作でした」と奉告する神嘗祭をしてきた。処が、第十代の崇神天皇の御代に国中に疫病が流行、災害が多発し多くの国民が命を落とした。
1日
伊勢神宮
太陽を神格化した天照大神と、衣食住の守り神である豊受大神が祀られた日本一の神社。だが、神宮の鎮座当時にはまた「記紀」は編纂されておらず、従って記紀に伊勢神宮の記録は全く無い。平成25年は、「式年遷宮」の年である。内宮と外宮その他125の社で構成されている。皇大神宮=内宮、豊受大神宮=外宮。別宮が14社、摂社、末社、所管社併せて125社。