東洋思想十講義 安岡正篤 道家(黄・老・荘・列)について

安岡正篤先生が、住友銀行の主管者(しゅかんじゃ)(住友銀行では経営者の謂いであり部・支店長の事)に対して十回に亘り講話された事がある。時は昭和51年から52年にかけてであった。安岡先生の高弟である岩沢正二副頭取の時であった。その全講話記録を開陳する。
                  平成248月吉日 徳永岫雲斎圀典

平成25年12月 最終章

1日 木鶏の説 この老子の後学で、恐らく老子とその最も代表的な後進である荘子と前後かる人と思われるのが列子であります。然し、この人については、老子の後学で荘子の流であると推定される以外、全くわかっておりません。その「列子」に「木鶏」の話があります。 
2日 紀せい子(きせいし)、王の為に闘鶏(とうけい)を養ふ。十日にして而して問う、鶏巳(けいよ)きか。曰く、未だし。(ほう)虚きょう(きょきょう)にして而して気を(たの)む。十日にして叉問う。曰く、未だし。なほ嚮景(きょうけい)に応ず。十日にして叉問う。曰く、未だし。なほ(しつ)()して而して気を盛んにす。十日して叉問う。曰く、(ちか)し。(けい)、鳴くものありと雖も、(おのれ)に変ずることなし。之を望むに(もっ)(けい)に似たり。其の徳(まった)し。異鶏(いけい)敢て応ずるもの無く、反って走らん。
3日 名横綱・
双葉山

これと同じ話が「荘子・外編」にも出ています。紀?子(きせいし)という人が闘鶏の好きな王(学者によって説もありますが、一般には周の宣王ということになっています)の為に軍鶏(しゃも)を養って調教訓練をしておりました。そして十日ほど経った頃、王が「もうよいか」と訊きましたところが、紀?子(きせいし)は「いや、まだいけません、空威張りして「俺が」という処があります」と答えました。更に、十日経って叉訊きました。「未だだめです」。相手の姿を見たり声を聞いたりすると昂奮するところがあります。」叉十日経って訊きました。「未だいけません。相手を見ると睨みつけて圧倒しようとするところがあります」こうして更に十日経って叉訊きました。そうすると初めて「まう、どうにか宜しいでしょう。他の鶏の声がしても少しも平生と変る処がありません。その姿はまるで木彫の鶏のようです。全く徳が充実しました。もう、どんな鶏を連れてきても、これに応戦するものがなく、姿を見ただけで逃げてしまうでしょう」と言いました。
大変おもしろい話でありますが、私はこの話を往年の名横綱・双葉山に話をしたことがありました。まだ横綱になる前の大変人気が出てきた頃でした。双葉山を非常に贔屓にしていた老友人に招かれて一緒に飲んだことがあるのです。なにしろ私もまだ若かった頃ですから、つい一杯機嫌で「君もまだまだダメだ」と申しました処、さすがに大横綱になるだけあって私もその時感心したのですが、「どこがいけないとお考えですか」と慇懃に尋ねるのです。そこで私が木鶏の話を致しましたところが、大層感じ入ったらしくて、それから木鶏の修行を始めたのです。その後は、皆さんもご存知のようにあのような名力士となって、とうとう69連勝という偉業を成し遂げたのであります。なんでもその時、私に木鶏の額を書いてくれということで、書いて渡したのでありますが、その額を部屋に掛けて、朝に夕に静坐して木鶏の工夫をした。本人の招きで私も一度参りました。 

4日 イマダモクケイニオヨバズ

今度の大戦の始まる直前のことでありますが、私は欧米の東洋専門の学者や当局者たちと話し合いをする為にヨーロッパの旅に出かけました。勿論その頃はまだ飛行機が普及しておりませんから船旅ですが、丁度インド洋を航行中の時でした。或る日、ボーイが双葉山からの電報た゜というて室に飛び込んできました。なにしろ当時の双葉山は70連勝に向って連戦連勝の最中てで、その人気は大変なものでしたから、ボーイも余程興味を持ったらしい。そして、「どうも電文がよくわかりませんので、打ち返して問い合わせようかと係の者が申しておりますが、とにかく「一度ご覧下さい」と言う。早速手に取ってみると「イマダモクケイニオヨバズ」とある。双葉山から負けたことを知らせてきた電報だったのです・なるほど、これでは普通の人にはわからぬのも無理はありません。この話が忽ち船中に伝わり、とうとう晩餐会の席で大勢の人にせがまれて木鶏の話をさせられたのを覚えております。その後、双葉山の木鶏の話が自然と広がり。あちこちに鶏ならぬ人間の木鶏会ができました。然し、これは結構なことです。

5日 東郭(とうかく)先生

もう一つ、木鶏と似た話が「列子」の中にあります。「東郭(とうかく)先生先生と北宮子・西門子との問答」と言うのがそれであります。東郭(とうかく)先生は北宮子・西門子のお師匠さんで、これは道に達した人です。二人の弟子の中、北宮子はなかなか徳の有る人であるのに対して、西門子の方は非常な才物で、何をやっても評判になり、どんどん出世してゆきました。処が有徳の士である北宮子は人から鈍物扱いされて一向芽が出ない。そこで或る時、北宮子が西門子に、「君はとんとん拍子に出世するが俺はさっぱりダメだ」一体どういうわけだろうか」と訊ねました。すると西門子は「そりゃお前は鈍物だからダメなんだ」と軽蔑してこう言いました。それを東郭(とうかく)先生が聞いて、「それはとんだ間違いだ。北宮子は有徳の人物であるから世間の人間にはわからないのだ。お前は才物だからよくわかる。お前と較べたら北宮子の方がはるかに立派である」と云って叱りました。そこで西門子も漸くは気がついて「先生、お許し下さい。私が悪うございました」と言ってあやまるわけです。老荘的学風がよく伺える面白い問答であります。

6日 荘子 これが荘子になりますと、また一段と名文で、且つ独特の論理で縦横無尽、よくも考え書けたものだと思うような一大文学を作り上げています。だから、老子から列子、荘子と読んで参りますと、何とも言えぬ好い気持ちになって、浮世のこせこせした問題だの理屈だのが消えて救われるような、会心の喜びを覚えるのであります。ただ荘子の文章は非常にむづかしくて、容易に読めないのが欠点でありますが、然しそれだけに読むと叉面白みも一層深いものがあります。荘子は名は周といい、孟子とほぼ同時代の人でありますが、どういう運命か二人は遂に相会うことがありませんでした。もしこの二人が出会って問答をやっていたら、一体どういうことになっただろうかと、孟子もあれだけ大雄弁家でありますだけに、後世の我々としては本当に惜しまれてならないのであります。荘子はまた儒教にも通じておりました。従って「荘子」の中には孔子や孔子の弟子達のことが盛んに出て参りまして、然も往々にして揶揄翻弄されています。しかし本筋は別ではないのであります。  
7日 夢の説

その「荘子」に「荘子夢に胡蝶となる」という有名な一章があります。これは文学としても世界的な名文だと外国の学者まで讃美していますが荘子自身が蝶になった夢を見るわけです。彼はそれを「荘子が夢で蝶になったのか、蝶の夢に荘子が出てくるのか荘子の夢か蝶の夢か、我・我を忘る」、どっちがどっちか分からなくなったと書いております。文章も名文ですがその表現の巧みさに、思わず感嘆させられます。荘子はこの、夢に自分が蝶に化したのか蝶の夢に荘子があるのかと言うことを「物化」、物が化すると言うております。彼には仏教仏説で言う十二因縁、生老病死といった少しも暗いものをも感じます。そしてそれを人間的から大自然の方へ入っていって生老病死を大自然の一つの化、変化だと観じております。 「荘子」の中で面白いものに「夢の説」があります。彼は人生は夢、大夢だと言うでおります。更に夢というものは「古の真人は、その寝ぬるや夢見ず、その覚むるや憂なし」、俗人ほどうとうとと過ごして夢を見るが、真人はぐっすり寝込むから夢を見ない、醒めても夢のような憂いは無いとも言うています。これまた「荘子」の中でも讃嘆すべき名文でありますが、これを読んで感動したアメリカの学者が、科学的に夢を研究して大きな成果を挙げました。そしてシカゴ大学などには夢の研究所まで出来ておりまして、それらの所説を読みますと、同じ夢でも我々の考えているのと科学的真実とは大変違います。 

8日 本当の呼吸

普通我々は「ああ夢を見た」申しますように、夢を見たのは僅かな時間で後はぐっすり眠っておると考えています。処が科学的研究によると、本当に熟睡するのは最大限670分で、それを過ぎると後はうとうと夢を見ている。それからまた眠りが浅くなって夢を見る、という繰り返しだと言うのであります。処がその夢の殆どは直ぐ意識の深層に隠れてしまって、ごく一部が目覚めてからまた記憶に残っている。その時に始めて「ああ、夢を見た」と思うわけです。が、それも極めて希な場合で、ぐつすり眠ったと思っていても実は夢を見ている時間の方が長いのです。ただ意識しないだけのことであります。「人生夢の如し」と言いますが如しではなくて本当に人生は夢なのです。 シカゴ大学は夢の研究所でありますが、ロンドン大学には息の研究所があります。まるで老荘を実験室に入れたような研究がありますが、それらの説はまた大変参考になります。そもそも呼吸とは、呼は息を吐くことであり、吸はすうことでありますから、先ず吐いてかに吸うのでなければ本当の呼吸とは言えない。処が大抵の人は呼吸している、吸ってから吐いている。これではいけません。だから朝起きると先ず窓を開け放して、眠っていた間に蓄積していた肺の中の汚れた空気を思いっきり吐き出して、それから新鮮な空気を吸う。普通の人間の呼吸では、吐き出すのは大体肺の中に溜っている空気の六分の一位で、残りの六分の五は底へ沈殿しているのです。 

9日 朝起きが非常に大切

然も肺かせ一番活発に活動するのは朝の五時から七時までだと言うのですから、朝起きが非常に大切になって参ります。肺と太陽とは密接な関係があるわけです。肺に限らず我々の内臓の活動は全て太陽と関係があって、どの器関が何時に一番能率的に活動するかという時間が夫々あるのです。肺はその時間が朝の五時から七時までですから、人間は遅くとも六時ぐらいに起きて肺に溜っている空気を吐き出し新鮮な朝の空気をうんと吸い込む、これが本当の呼吸と言うものであります。そこてで道家(どうけ)では呼吸と言わずに「吐(とのう)」と言うております。そして吐き出したら今度は胸一杯深く吸う。「荘子」を読みますと「真人の息は(きびす)を以てし、衆人の息は(のど)を以てす」書いてあります。きびす即ちかが(○○)()で息をすると言うことは深く息をすることです。処が衆人の息は浅くて咽喉(いんこう)でやっている。 

10日 先ず吐かなければ

呼吸は(こう)(そく)ではだめで(そく)(そく)でなければいけません。然し吐くということは呼吸にとって大切なばかりではありませんので何でも先ず吐かなければいけません。皆さんの方でも「出納」ということがあります。出はだす時はすい(、、)いづる(○○○)と言う自動詞の時はしゅっ(◎◎◎)という音ですから、出納の場合はすいとう(○○○○)であります。先ず銀行は出して入れなければいけません。納出ではなくて出納しなければいけません。取り込むだけの握り屋はダメでありまして、よく費やして散じて、そうしてよく入れる。胃や腸でね同じことです。先ず、よく出して入れる。出さないで入れると忽ち病気になります。文字というものはまことにデリケートなものであります。

11日 包丁 話が外れましたが、もう一つ木鶏とよく似た話で「荘子」の中でも最も有名なのが「包丁」の話であります。包はくり(○○)()、丁は馬丁の丁で男の意。つまり包丁は料理人・板前という意味です。その料理人が牛の解剖をやる。処がその解剖の仕方が実に見事な妙技で、刀の使い方・動作はそのまま一の音楽であり舞踊である。側で見物しておった王様が「技術もここまでうまくなるものか」と云って感心した。するとその包丁が「技術ではございません」技よりも進めりー技術よりも進んだ道というものでございます」と云って技と道というものとを説き分けています。これも短いが大変おもしろい文章であります。 
12日 命と義 また「荘子」には命・義という事を論じて「天下に大戒二あり。その一は命なり。その一は義なり」と云うております。天下に誡むべき大問題が二つある。その一つは命であり、今一つは義であると云うのです。命とき自然と人間を通ずる創造・変化の働きであります。その命に随って義、われら如何になすべきやという問題を考える。老子特に荘子はこの命と義を大いに説くものであります。
13日 日計・歳計

それから「日計・歳計」も大へんおもしろい話であります。或る地方長官が新しい任地に赴いたが仕事のことはゆったりした大人型の人物と忠実に働いて仕事のよく出来る人物の二人にまかせっきりで、本人は一向に何もしない。そこで「今度の長官は変わり者だ」とみんなが噂し合っておったところが、一年経ち、二年経つうちにその地方が実によく治ってきた。それに気づいた民衆が今度は、「長官は本当に偉い人だ、ああいう人が至れる人と言うのだろう。あの人のすることは「之を日計すれば足らず、歳計すれば余りあり」と言うて感心し始めた。つまり一日一日の勘定では赤字だが、一年中の総決算をすればちゃんと黒字になっていると言うのであります。そして民衆が集まってこの長官を表彰しようという相談が持ち上がった。これを聞いた長官は甚だ面白くないといった顔で「俺ももう少しできた人間かと思っていたら、こんな田舎の民衆から表彰されるという。民衆の目につくようではまだまだ俺も駄目だ」と言ったというのであります。民衆から褒められたり、立てられたりするうちは駄目で、居るのか居らないのかわからないが、その人が居ればそれだけで皆が落ち着く、問題が怒らない、そういう人間が一番至れる人だ、という考え方であります。我々の一生も、大体は日計すれば足らずで、何事によらず赤字と思われますが、然しいよいよ老いて生涯を省みて黒字だとなれば、これは道に合った成功の人生ということになります。反対に、一日一日きびきびやってきたつもりだが、さて死にがけになって「一体俺は何をしてきたのだろうか」と言うような大赤字になったのでは、これは失敗の人生であります。

14日 日本の神道、惟神道の立派なところ

以上のような考え方が老子や荘子の本質的考え方であります。とにかく孔孟荀では確かにちょっと疲れます。それが老荘になると息をつくと申しますか、救われる様な所があるのは事実であります。と言うて、これで好い気になっていると、すっかり空虚なものになってしまいます、独りよがりになってしまいます。そこで儒を学ぶ者は必ず老荘を学び、老荘を学ぶ者は必ず儒を学んで初めて全きを得る、これが結論であります。そして中国の他の諸子百家等の思想・学問も一応みなこの儒と道、孔孟・老荘に依っているのであります。然もそれらの学問を渾然として、西洋の思想・信仰の闘争のようなことをせずに悠々と抱きこんで消化したのが日本の神道、惟神道の立派なところであります 

15日 結語

近代文明とその社会に生きる知識人の注意すべきことは色々ありますが、中でも特に注意すべきことは、近代社会の特徴の一つである分化現象、分業制度の発達であります。これは職業生活・社会生活ばかりでなく、学問・芸術等あらゆる分野に亘って行われて参りました。そして確かに夫々の分野の専門として意義もあり、また価値もあったわけであります。処がその専門が段々細分化すると共に、やがて人間が部分化し末梢化して、偏頗(へんぱ)になると言う弊害が出てきたのです。専門的権威と同時に専門的愚昧と言うものが現れるようになったわけです。

16日

然し、真理というものは妙なもので、次第に分化して細分化の頂点にまで発達すると、今度は再び根元に還り総合を要求します。例えば顕微鏡がそうであります。初めの頃の未発達の顕微鏡は操作も簡単で、誰でも使用することが出来ました。処が次第に発達するにつれて、もう今日では物理学・工学・細胞学・数学等いろいろの学問の総合的頭脳がなければ顕微鏡を見ることもできなくなっております。

17日

医者もそうです、昔は例えば、眼科医なら眼科の分野だけしかわからない、ほかのことは他の専門医に行ってくれと言うことで済んだわけであります。処が段々と専門研究が進むにつれて、我々の生理現象は最も鋭敏に目に現れると言うことが分かって参りました。

従って、今までのように眼科医だから目だけ分かればよいのでは済まされないわけで、本当の眼科医であれば目を診ただけで、あらゆる内科症状が分かるようにならなければいけないのであります。然し現在、そのように眼科医はなかなか世間におりません。同様に政治家や実業家・教育家なども、みなそれぞれの職業に偏って、部分の人・不具かたわと言ったものになってしまっている。人間としての全き精神・見識等がなくなって片輪の人間になっている。それでは人間としても職業人としても破滅してしまいます。

18日 大陸諸国とは個性を異にした文化を持つ日本

その一番切実な例が今日の日本でありまして、政治や社会を指導する人達のそういう人間的な欠陥・片輪の考え方が、このような社会不安・政治的混乱を惹き起こし、また助長しておると申してよいと思います。人間としての教養・見識・信念が欠けていると、日々起こってくる色々な問題に即応することが出来ません。そこで益々混乱を招くと言うことになるわけであります。皆さんでもそうでありまして、入社されて暫くの間はそれぞれの分担の仕事に精通して有能になればよかったのでありますが、だんだん地位が上って多くの部下を支配してゆかなければならぬようになると、ただ事務にエキスパートであるというだけでは駄目でありまして、結局、人間的内容が問題になって参ります。本当の教養・学問が大切になって参ります。
ご承知のように大陸から離れている日本は、古来、神道と言うものがあって、他の大陸諸国とは個性を異にした文化を持っておりますが、然し、大陸文化の影響は大きく、また儒教・道教・仏教文化とも渾融(こんゆう)して、日本民族の精神文化がつくられてきたのであります。 

19日 敬虔に侍坐(たいざ)する

インド仏教は、北インドかせシルクロードを通って中国にはいつてきました。そのインドにはカーストと呼ばれる階級制があって、上から順に、バラモン(僧侶)、タシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(平民)、スードラ(奴隷)の四姓に分けられ、それは今日まで根を残しておるわけでありますが、その最高の権威階級であるバラモンが堕落してもそれを反省してウパニシャッドと言う哲学が生まれました。ウパニは近くに、シャッドは坐るという意味で、つまりウパニシャッドは「敬虔に侍坐(たいざ)する」という意味であります。禅はここから発生したのであり、また経験的に発達したのがヨガでありまして、従って、どちらも「坐」が修行の基本になっております。

20日 一番の効能は足を鍛えると言うこと

日本は坐の国であり、坐禅が広く普及したにもかかわらず、坐の本当の意味を理解している人は非常に少なく、坐ることは非合理的・非衛生的だというのが常識となっているようであります。然し坐には坐の真理があり、決して非合理的・非科学的でもなければ、強制慣習的でもありません。立派な理論・効能のあるものです。先ず、一番の効能は足を鍛えると言うことです。と言うても何も歩くことばかりが足の鍛錬ではありません。坐れば必ず起つわけで、屈伸という運動の根本原則を自ら実現します。

21日 坐ると言うもの

終戦も近く、次第に空襲が熾烈になった頃の話でありますが、空襲で神経性の恐怖症に罹った患者を千葉医大の伊藤教授は坐禅を応用して治されました。その方法は、先ず患者の太股をゴムバンドでしびれるくらい強く縛って、血液の循環を止め、時間を見計らって急に弱めるのです。すると止まっていた血液が非常な勢いで循環して毛細血管の働きが活発になる。人間は心臓がいくに動いても毛細血管がつまると色々な弊害が生じます。そこで毛細血管を刺激して血液の循環をよくすることによって、空襲による恐怖症も治ってしまったというわけです。そして伊藤教授はこのように語っておられました。--時々足が痺れて起てなくなるぐらい坐るのは最も良い健康法である。私は坐ると言うものがこんなに有益なものだということを改めて認識したと。

22日 拭き掃除

また禅は、坐と同時に拭き掃除を修業の一つとしています。これは言い換えれば、人間を元の四つ股の動物の姿に還しているわけです。そうすると、起つことによって生じてきた胃腸疾患とか神経衰弱と言った病気が容易に治ってしまう効能があるのです。

次第に観念的・文献的になっていたインド仏教が中国に入って老荘と習合して、ウバニシャットから発達してきた禅を坐禅という大変意義あるものにしたわけでありますが、その禅を神髄とした仏教を中国に紹介して、精神界・思想界に大きな影響を与えたのが慧遠(えおん)という人であります。インドから中国へ仏教を伝道した人は沢山いますが、その殆どが貴族階級や支配階級に取り入って堕落してゆきました。その中にあって慧遠は「袈裟(けさ)は朝宗の服に非ず、(はつ)()(びょう)(かく)の器に非ず、沙門(しやもん)は人外の人、敬を王者にいたすべからず」,袈裟や鉢等の仏具は朝廷や貴族に交わるためのものではなく、仏道を行ずる者は支配階級の伺候(しこう)するものではないと云う名言を残して、つまり僧侶は支配階級に近づくべきではないと云うて()(ざん)隠棲(いんせい)しました。その慧遠(えおん)の風格を慕って陶淵明・陸修静等18人の当時の識者が集まり、廬山の東林寺に「白蓮社」を結成しました。これが南画の画題になり「虎渓三笑(こけいさんしょう)の図」なども広く知られています。 

23日

禅宗という立場から言えば、その先駆者は達磨(だるま)大師であります。達磨はインドから中国へ渡り、(りょう)の武帝の尊信を受けたが契合せず、去って嵩山(こうざん)の少林寺で坐禅を主とし禅宗の祖となりました。

武帝という人は、なかなか文化皇帝で、儒教の教養も厚く、特に仏教に帰依してその興隆に尽くした人でありますが、その武帝が大いに仏教の興隆を計り仏教に関する新知識を求めていた時に、達磨大師がインドから広東あたりに上陸して中国よやってきたわけです。そこみで武帝は非常な期待を以て達磨を迎えました。その時の両者の問答の一部が、日本にも広くした「碧眼録(へきがんろく)」の冒頭にある名高い「不識(ふしき)問答(もんどう)」であります。

24日 無漏の世界

さて、武帝と達磨が会ったわけですが、なにぶん、武帝という人は、深く仏教に帰依したとは言っても当時の貴族の常として、多分に後世のために功徳を積むという功利的煩悩を持っておりました。そこで先ず達磨に向かって「(ちん)即位(そくい)以来、造寺(ぞうじ)写経()(そう)(あげ)()すべからず、何の功徳かある」、私は即位以来、数えきれぬぐらい寺を造ったり写経をしたり、僧を援助したりしてきましたが、一体どいう功徳がありましょうか、こう訊ねました。すると達磨は平然として「並びに功徳無し」と答えました。驚いて武帝がその理由を訊ねますと、達磨曰く「此れはただ人天(じんてん)小果(しょうか)有漏(うろう)の因・影の形に随うが如く、有と雖も実に非ず」と。人天とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の「六道」の中の人間と天のことで、有漏(うろう)は煩悩に満ちた人間世界のことです。有漏に対して煩悩を解脱した永久不滅の悟りの世界を「無漏(むろう)」と言います。即ち造寺・写経などということは未だ迷いの世界における小果(しようか)であって、結局は有漏の世界を輪廻(りんね)する因に過ぎない。仏の功徳などというものは影の形に随うようなもので、有ると言えば有るけれども実体ではないと云うことです。 

25日 碧厳録 そこで武帝は重ねて--碧厳録は実はここから採りあげているのです。---達磨に質問しました。「如何なるか是れ聖諦(せいてい)第一義」。それでは仏教の真理とは一体何ですかというわけです。達磨言う「(かく)(ねん)無聖(むしょう)」、何もありません。益々分らなくなった武帝は「朕に対する者は誰ぞ」、一体私と対しているあなたは何者ですかと訊きました。いると達磨は「不識(しらず)」と答えたのです。そして俗物で、本当のことしまだ何もわかっていない武帝とはつき合っておれないと云うので(たもと)を分かち、揚子江を渡って魏の国へ行ってしまいました。
26日 思索と実践

武帝が「本当の功徳とはどういうものでしょうか」と訊ねた時に、達磨は要するに世俗的な御利益仏教を打破して、自我の真性を徹見し、真実の世界を開顕(かいけん)しようとする所にあったわけであります。慧遠(えおん)とか仏陀跋陀(ぶっだばつだ)()(げん)(こう)(ほう)()など多くの先駆者がありますが、何と言っても達磨大師を開祖として発達した禅が一番普及しました。然し、始の頃は一宗を立てることもなく、専門の道場もありませんでしたので、道教の建物を借りたり、洞窟や野天などで、素朴な生活をしながら修行していたのであります。それが次第に発展するにつれて専門道場が要求されるようになり。叉色々な制度が発達するようになって,唐代も暫く経って禅宗という一宗が出来るに至ったわけであります。この達磨の教にはいるには「二入」と云って二つの道があります。即ち理からはいるのを「理入」と言い、行からはいるのを「行入」と言う。つまり思索と実践であります。然し、理入の方とどうしても観念的になるので、禅では行入の方が重んぜられるのであります。達磨の行の代表的なものに「四行」があります。

27日 第一

第一は報寃(ほうえん)(ぎょう)。如何なる、怨みつらみがあっても、文句を言わないでそれを受け容れる。

28日 第二

第二は(ずい)(えん)(ぎょう)。人間はいくら理想を持って行じようとしても、縁と言うものが無ければどうにもなりません。つまり空理空論ではなく、具体的な問題を具体的な方法で行うということです。

29日 第三

第三は無所(むしょ)()(ぎょう)。求むる所の無い(ぎょう)、内心のおのづからなる要求から行う。(ぎょう)という打算的な考えのない行。

30日 第四

第四は称法(しょうほう)(ぎょう)。称はかなうという意味で法、真理にかなって、法のまにまにぴったりと一つになって行じてゆく。
以上の四行を以て修行してゆくことを純禅と云って、これは達磨大師の教の中心をなすものであります。

31日 骨髄を会得

達磨大師に「皮肉骨髄の説」というのがあります。これは弟子に禅の神髄とは何かということを教えたものです。ある時、大師が高弟を集めて、一人には、お前はわが教・わが道の「皮を得た」と言い、次の弟子には「肉を得た」。三番目の弟子には「骨を得た」、そうして最後の慧可に向かって「お前はわが教の神髄を得た」と云われた。髄とは骨に包まれた一番大切なもので、慧可はその大切な教えの骨髄を会得したというのであります。 

この達磨大師に始まる禅が、やがて中国文化に大きな門戸を開き、日本にも伝来して多くの優れた人材を生み、それが今日まで及んでいるのであります。
然し、日本は明治以来、西洋文化に幻惑されて、こういう貴い東洋の伝統的な文化遺産を捨ててしまって、人間の内面生活を空虚にしてきました。その結果、今日の社会的混乱を招いたとも言うことができます。従って、これを解決すめには、本当の意味の教養を身につけた指導者が必要でありまして、そういう人材の出現が今何よりも一番切実に望まれるわけであります。     完

  平成25622日 午後1755

  平成248月筆写開始 280頁 11ヶ月

岫雲斎圀典 満822ヶ月16

           明日は東郷湖一周の予定