安岡正篤先生「易と人生哲学」L平成19年12              
 平成19年12月

 1日 (てい)
火上(かじょう)風下(ふうか)
火風(ひふう)(てい)

新しい建設の後段階、成熟安定の卦であります。鼎は、かなえ(○○○)三本足の容器のことであのます。三者鼎立という言葉は、一つのものを三人で支え合って、一人では出来ない仕事も三人なら成就することができるという卦であります。

この大象を見ますと、君子以正位凝命―君子以って位を正し命を()す、とあります。つまり鼎の安定した形に(のっと)り、自分の位置を正しくし、天命を全うする、ということでありますから、すべてがととのう、又は位が定まるという意味であります。そこで革命は、革と鼎の二つが、うまく組み合って成功するのであります。
 2日

(しん)
雷上(らいじょう)
雷下(らいか)

(しん)()(らい)せん

雷が二つ重なった卦であります。震は天にあっては雷、地にあっては地震であります。

改革とか革命というものは、円滑にいくものではなく、色んな問題や、困難がおこるので、事に当っては、それを恐れ慎み、一層徳を修め、反省するように戒めておる卦であります。
 3日 (ごん)
山上(さんじょう)
山下(さんか)

(ごん)為山(いさん)兼山艮(けんさんごん)

この卦も山が二つ重なった卦であります。そこで地震、騒動、あるいは色々の悩みがおきた時は、うろたえては駄目で、泰山(たいざん)のようにどっしりとしておらなければならない、というのが(ごん)の卦であります。

上卦、下卦ともに山でありますから、兼山、(ごん)為山(いさん)、兼山艮など言いまして、昔から学者や政治家に兼山という名の立派な人物、改革家があります。例えば野中兼山、片山兼山の名は艮の卦からとったものであります。
 4日 (ぜん)
風上(ふうじょう)山下(さんか)
風山漸(ふうさんぜん)

漸の卦は、徐に順を追って進むという戒めの卦てであります。山の上の木が、日を追って漸く成長する(しょう)であります。

この卦の六爻(ろっこう)は皆(がん)の動静にたとえており、(がん)は秋に北方から飛来し、春はまた北方に去っていく、又その飛ぶ時には、列を整えて順序正しく、秩序を保っている。つまり進歩向上は、順を追っておもむろでなければならない、飛躍や冒険は危険が伴うので注意が必要であるという戒めであります。 

 5日 ()(まい)
(らい)上澤下(じょうたっか)
(らい)澤帰(たくき)(まい)

()(まい)とは、女が嫁ぐという意味であります。そこで、結婚、婚礼の実例をとって卦を説いております。大象(だいしょう)に、永終知敝―終りを永うし、(やぶ)るを知る、とあります。これは末永く続けるということを願い、虫の好い一時的な享楽を考えてはいけない、ということであります。

結婚生活―夫婦は互いに反省をして、どこがいけないか、どうしなければならないかということをよく理解し、行動する。そうすると結婚生活は、永く続き生活が豊かになる。これが次の(らい)()(ほう)の卦であります。()(まい)は、結婚生活の永続の心がけと、努力を教えております。
 6日 ()(まい) 2

古来、格言や、諺の中で、一番間違って解釈をしておるのは「女房と畳は新しい方がよい」という諺である。これは殆どの人が間違っております。女房も新婚の間は好いが、暫くすると薄き汚くなって面白くない、だから女房も畳も新しいのがよいと考え勝ちですが、とんでもないことであって、私達日本人の家庭生活で最も大切なものは畳です。畳の汚れておるのは実に貧乏くさく汚い。処が畳は、汚れると表をかえれば台を取り替えずとも常に新鮮である。 

畳の新しいのは実に気持ちのよいものである。
女房も年が経って、着物もしゃんと着ない、洗濯も怠る、というようではいけない。これを戒める為に「女房と畳は新しい方がよい」というよい忠言であります。

武藤山治さんの奥さんは、寝巻に一番贅沢をされたそうです。薄汚れた寝巻きや、よれよれになった寝巻きは絶対に着なかったという有名な話があります。武藤さんによると「女房が着物や帯の道楽をすると金がかかるが、寝巻の道楽は安くていいよ」と云って笑っておられたという話でありますが、大変味のある話であります。

 7日 (ほう)
雷上(らいじょう)火下(かか)
(らい)()(ほう)

豊とは、豊満、豊饒、豊作の豊で、満ちあふれ最高点に達した状態をあらわす言葉です。人間が成功し、豊かになることは非常によいことではあるが月が満つ

れば欠け、中天に輝く太陽もやがて西に傾くように、盛大なことはいつまでも続くものではない。
まして人間界においてはなおさらであると、豊満に処する道を教える卦であります。
 8日 (りょ)
火上(かじょう)山下(さんか)
火山(かざん)(りょ)

旅は、旅行、旅人であります。昔は旅は大変危険なものでありました。見知らぬ土地へ行き、見知らぬ人と顔をあわせることは、非常に危険がありました。

そこでその出発には水杯までしたのであります。処が旅には見聞を広め、知識を吸収することができる大きな楽しみもあります。そこで旅行中は、軽はずみを戒め、慎重に真摯な態度で終始しなければならない、と教えております。
 9日

(そん)
風上(ふうじょう)風下(ふうか)
(そん)為風(いふう)重巽(じゅうそん)随風(ずいふう)(そん)

巽は風であり、この卦は風が二つ重っている象であります。
風が軽くそよそよと吹き、そのそよ風に、草木がなび

くように人間が行動して,よく人の言を聞き、人を立て、朋友、知己、恩人等には特に禮を尽くさなければならないと、戒めの卦であります。
10日

()
(たく)上澤下(じょうたっか)
()()(たく)麗澤兌(れいたくだ)

()は、(えつ)(よろこ)び楽しむ意であります。皆が気持ちよく助け合う、仲のよい友達、あるいは職場の友人が相寄って、お互いに磨き合い、励まし合うという卦であります。

大象を見ると、君子以朋友講習―君子は朋友とともに講習す、とあります。これは一人が和の心を持てば、相手もまた和の心をもって接する。君子は、このように朋友互いに勉学にいそしみ、益し合うようにしなければならないということでありまして、よい卦であります。
11日

(かん)
(ふう)上水下(じょうすいか)
風水渙(ふうすいかん)

そうなると色んな問題が皆解決します。これが(かん)の卦であります。大詔(たいしょう)渙発(かんぱつ)という時はこのの字を使う。それによって物が一斉に解消するからであります。

これを火へんの(かん)にしますが、煥はかっと明るく光る、という意味でありますから、さんずいへんの渙でなければいけません。
12日

(せつ)
(すい)上澤下(じょうたっか)

水澤(すいたく)(せつ)

色んな境遇、あるいは状況に応じて自由自在に応接、進歩していくためには、しっかりとした締めくくりがなければなりません。

いわゆる節、節操というものが必要です。それを説いたのが節の卦であります。
13日

中孚(ちゅうふ)
(ふう)上澤下(じょうたっか)
(ふう)澤中孚(たくちゅうふ)

()()こと(○○)、信、誠心、虚心であります。まことは、絶えず何事かを創造する力、クリエートする力であります。

その点において、まこと程貴いものはありません。ちょうど、卵が(かえ)って育っていき、又親鳥となって卵を産んでそれが鳥になるように己に返って限りない創造の主になるというのが中孚(ちゅうふ)であります。
14日

小過(しょうか)
雷上(らいじょう)山下(さんか)
雷山小過(らいさんしょうか)

小過とは、(ぶん)に安んじ、足るを知るという意味であります。

日常生活をやっていく上においては、常に陰徳をもって控え目にしなければならない。余り派手に行動することは、よくないという戒めの卦であります。
15日 既濟(きさい)
水上(すいじょう)火下(かか)
水火既濟(すいかきさい)

既はすでにという字であり、つくすという字であります。濟し川を渡ることから転じて成就、完成を意味しますから、既濟は既に完成し、終わっている象でありまする。

そして、それはやがて無限の未来、無限の創造が前提であります。だから、この卦は有終の道を説いております。
16日 未濟(みさい)
()上水下(じょうすいか)
火水未濟(かすいみさい)

未濟は、既濟と全く反対であります。

無終でありますから、これで無限に循環するわけであります。
17日 無限の進歩向上 上経はどちらかというと原理的、従って往々理論的、抽象的でありますが、下経はそれを非常に現実化、実践化、人道化して上経、下経六十四卦によって理論的、実践的に我々が無限の進歩向上し原理原則を把握することが出来るという仕組みでありまして、易の卦というものを追求して観察して参りますと、本当によくもここまで上手に練りあ げたものだ、さすが何千年にわたり数知れぬ学者、哲人がこれを検討し、これを学習し、今日まで伝えてきたということの所以がしみじみと理解できます。それだけに非常に難しいもので、独学は困難であります。入門が非常に大事であります。入門をよい加減にして早く算木、筮竹を握って、それが易だと思ったら大間違いでありまして、これが俗易というもので、どうかすると多くの人を誤る。むしろ誤ることが多いでしょう。
18日 易を知る者は(ぼく)せず 本当に易を学べば、算木(さんぎ)筮竹(ぜいちく)は要らない。自分の頭で、自分が今ぶつかっている問題、これは何の卦だ、従ってどうすればよいかということが判断で きるようにならなければ易学をやったとは言えない。
易者のところへ飛び込んで占ってもらう等というようなことでは駄目であります。従って、易を知る者は(ぼく)せずーうらなわずという言葉まである位であります。
19日 五十易を学べば 論語に「五十易を学べば」という言葉がありますが、あれは易ではなくて、(えき)という字で音が易に通ずるので、孔子が易をやったというと易が一層有難くなるため亦を易と解釈する人が多いのですが、 よく調べて見ると、あれは易経の易ではなく、亦であります。孔子は、既に易を知っておったけれども、孔子の時代は、まだ易経がそれ程世にできいおらなかった。
20日 易は実践哲学・

易は永遠の真理
何れにしても、爾来今日まで易は連綿として限りなく活用され、常に新鮮で、こういう学問は他にありません。易は永遠の真理であり、人間の最も貴重な実践哲学と言ってもよろしい。ところが大変難しい、手ほどきが大事であります。その手ほどきも、変な手ほどきをされると浮ばれない。正しい手ほどきが要る。

今回で丁度八回でありますが、大体正しい易の序説と申しますか、手ほどきをしたつもりであります。お約束の十回まで、あと二回ありますので易の実例を幾つかとりあげ、実習をやってあとは皆さんの独学をおすすめ致します。これだけ解説しておきますと余程独学も楽だろうと思います。易の理論的解説は、これで終わることに致します。
(昭和五十三年十月五日講)

第九講
21日 (ぼう)()(とし)を送る 易学十講と申しますか、十回にわたる講義を年内にけりをつけ、終講を迎えたいと思っておりましたが予定のようにまいりませんで年を越すこととなりました。 年の暮れが近づきまして、例年のことながら感慨無量でございます。特に今年は(ぼう)()であります。歳末になってこれをふり返って考えますと、また一段と興味を覚えます。
22日 (うま) ()は草かんむり、をつけた茂と同じ意味であり、午はりっしんべん、をつけてても、しんにゅう、をつけても、イーにんべん、をつけても同じような、兎角物事が矛盾衝突いる、背く、あられもない方へゆく、という意味があります。 それを民衆の親しんでおる日常生活に例をとるのが、十干(じっかん)十二支(じゅうにし)の成り立ちですから、ちょうど(かん)()(ぎょ)しにくい馬がよい象徴だというので、()の字を(うま)というふうにあてたわけです。
23日 (ぼう)()の年 そこで過去の例をみても、この(ぼう)()の年は色々な問題が紛糾して兎角とんでもない方向へそれたり、間違ったりすることが多いのでありますが、今年はとどうやらさしたたることもなく 来年即ち己未(きび)―つちのと・ひつじ、の年を迎えるかと思っておりましたところ、思いがけない政変で、いかにも(ぼう)()の年らしく福田内閣が自民党の選挙の結果退陣して大平内閣ができるという予期せぬことがおこりました。
24日 己未(きび)の年

そこで来年の干支は干が本年の()から()になりまして、支の方は(うま)(ひつじ)になるわけであります。この己の字にも色々な解説がありますが、一番よく引用されるのは糸―いとへんにつけた紀州のきの字、即ち筋を通すという文字です。従って紀律と書くときにこのの字を使うこともあります。

また未は、日へんをつけた昧と同じ意味であります。本年の(ぼう)()は、物事が紛糾するというわけでありますから、新年は紀律が必要であります。それによって物事をよく整理して、暗くならないように、つまり不昧(ふまい)にする。放っておくと筋の通らない、糸のこんがらがったような、何だかわからなくなり、尋常一様の手段では、かたづかなくなると、過去の史実は、教訓として己未(きび)の年を戒めております。
25日 不昧(ふまい)

つまり紀律、法則、道というものを明確にして物事に取り組まないと、遂には荒療治をしなければならなくなる。エボリューション、evolutionではなく、レボリューションrevolutionをやらなければならない。即ち、改革、革命ということになりますので、よくその

理法を考えて、理性的、道義的、自然的にもっていかなければならないということであります。
昔は不昧という言葉がよく使われました。茶道でも不昧流という流儀もありまして、これは出雲の松平家の茶道が一例でありますが、現在でも出雲地方は茶道が盛んであります。
26日

韓国国問題

そこで新年は、諸般の問題を成りゆきに任せず、筋を通し、明確にやっていく、という必要を己未(きび)の干支が教えておるのでありますが、然し、こけは難しいことで、果して新 しく誕生した大平内閣がこの要請に応えてゆけるだろうかと考えますと、国内的にもそうでありますが、特に対外的に来年は、色々な問題のおこることが予想せられますから、余程しっかりとやってもらわねばならないと思います。
27日 韓国国問題2 特に韓国問題、これは日本にとっては最も近い関係にありながら、日本人は意外に韓国のことを知りません。第一に興味をもたない。処が韓国と日本は非常に切 実な関係があり、運命的に申しましても両国は深刻な関連がありますが、殆どの日本人は、韓国国問題には素人と言いますか、他人行儀でありまして、実に意外な現象であります。
28日 韓国と中国 ところが両国は、唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係で、運命的な近親関係であります。つまり韓国問題は、容易に日本の運命に影響してくる問題でありますから、来年は多分にこれが一層表面化することでありましよう。 元来、中国は複雑な状況を繰り返して今日に及んだのでありますが、その間に内乱とか戦争とか色々中毒現象がありました。(ちゅう)は進むと同時にあたるという意味がありまして、日本はいつもあてられて(○○○○○)いたほうであります。
29日 中共の現状 最近の中共の現状は、まさに一つの中毒症状でありますから、来年の中国は大いに警戒をしなければなりません。日本の評論家とか政治家は、日本流に日本国内の(はかり)で中国を考えますと大間違いであります。  中国の情勢というものは、実に規模が大きく且つ複雑でありますから、余程注意して研究しませんと来年は大変であると、識見ある人々は心配しているのであります。
30日 庚申(こうしん)

そしてこの己未(きび)の年は、干支の上からもちょうど別れ道で、まかり間違うと明後年は、庚申(こうしん)―かのえ・さる、の年を迎えますが、この年は歴史的にも内乱、革命等、変革の多い年とされておりますから、これから先の一つのターニング・

ポイントになるのが己未(きび)の年であります。このように考えますと、この年の暮れは大変興味深くーと言えば他人行儀でありますが、気になることであります。それだけに新内閣と自民党は、余程反省努力しませんと日本を誤り、時世というものを混乱に陥れる危険がありますので大変心配であります。 

31日 活学(かつがく) 然し、この講座に即して申しますと、ちょうど易の研究のよい参考資料と申しますか、問題、或いは宿題となることで、易の実学としても好い材料、学問でありますから、これを活学というわけであります。 学問は、形式的、概念的にやることは何でもありませんが、活学ということは大変難しい。その活学の好い材料として、来年の干支はその意味で活眼を開いて研究しなければならない大きな問題、宿題であります。