安岡正篤先生「一日一言」 そのB

平成24年12月

31日 愚者の楽園・日本

慌しい動乱を繰り返しておる国々から日本に来ると、日本はパラダイスに見えるそうであります。然し、皮肉な批評家は、日本はパラダイスは失礼だが、いささかフールス・パラダイスである。馬鹿の楽園、愚者の楽園である、などと言う事さえ言っておりますが、そう言われても仕方ない所もあるのであります。  (講演集)

30日 政府と国家 国家と政府とをみな混同する。政府を憎むあまり、みな国家を憎む。政府を憎むために国家を否定する。これは歴史を知らないものだ。そこで自由と放縦とを混同し、放縦のために道徳や法律を無視する。これは実に愚かなことである。人間の自殺的行為である。我々はあくまでも道徳、法律を尊重して、人間、国家を愛護せねばならぬ。    (心に響く言葉)
29日

デモクラシイとデモクラジー

アメリカの識者は、これは有名な話だけれども、日本のデモクラシーは一字違っておると。日本人はアメリカのデモクラシーを受け入れる時に、一字間違えて受けた。デモクラシーと言うのはdemocracy、これを間違えて日本人は濁りを付けてしまった。democrazyと、zにしてしまった。デモクラシーではなくて、デモクラジーだと言うんだ。これは中々面白い。クラシーがクラジーなると、クレージーと読む。変なデモクラシーにして受け入れてしまったと言われる。   (心に響く言葉)
28日

平穏無事

我々の個人生活、肉体生活でもそうでありまして、余り平穏無事に過ぎるとだらしなくなる。やはり身体というもの、健康というものは絶えず鍛錬しなければなりません。精神もそうでありまして、何も苦しみがないと精神が延びてしまってつまらなくなります。人間の頭というものはそういう風に出来ておるのです。従って難問題と取り組めば取り組むほど宜しい。                   (偉大ななる対話)
27日 精神の食物 精神の食物はさらに悪い。この頃はマスメディアの発達で、いわゆる視聴覚の文明になり、視聴覚でインスタントにわかるものばかりに走って、じっくり考えたり、味わったりすることがなくなってきた。人間は次第にものを考えなくなってきた。これに乗じて益々広告宣伝が巧妙になり、無知な大衆を簡単なスローガンやキャッチフレーズで扇動し操縦する野心家、ボスが出現し易い。            (醒睡記)
26日 快楽 世上の快楽はすべて人性自然の要求ではあるが、我々の価値観よりみて、即ち高き要求よりみて、頗る低級な、しかも危険の極めて大なるものである。それにも拘らず、あらゆる人間が常にこのために営々として狂奔しているのは、つまりかくの如き欲求が最も人間に直接にて、かつ刺激的になると、多数の人間が感覚生活に捕われ易い低級な存在にあるからである。                      (儒教と老荘)
25日 若者の堕落は大人の腐敗

全くマスコミ・ジャーナリズムの弊害は日本に於いても深刻なものである。先輩長者はこれを特に若い世代の堕落に帰し易いが、それは偏見と言うべきものであり、やはり先輩長者も責任ありと言わねばなるまい。堕落するのは決して若い世代ばかりではない。若い世代の堕落は既に大人が腐敗しておる実証であると、モンテスキューがその名著「法の精神」の中に指摘しておる。 (人間を磨く)

24日 損得のみの時代 現在、日本の財界政界を見渡すと、いずれも口では修養とか何とか言っても、実は(ひと)しく経済第一乃至経済至上主義で、自分の利得出世が先に立つ、猫も杓子も経済ならでは夜が明けず、堂々たる大官名士に経済以外の話の出来ないような人物が多いこと、唯物的な外国にも一寸類がない。          (経世瑣言)
23日 自分の棚上げ およそ現代は、いわゆる人間疎外・自己疎外の時代です。つまり人間をお留守にする、自分自身を棚にあげることです。とかく外ばかり心を馳せて、内を忘れてしまう。外物ばかり取り上げて、自分と言うものを省みない。人間をお留守にして、欲望ばかり取り上げることです。その結果、わけのわからぬ事になってしまって、始末がつかぬ。こういう時、一たび失われた自己、人間そのものに立ち返れば、はっきりとする事が多い。     (青年の大成)
22日 本当の政治 本当の政治というものを決するのには、その政治に当る重要な地位にある人々の心境、その利己的打算、先入主になっている偏見、伏在する脅迫観念、ああすれば、こう言えば、どういう目にあうのではないか、何とか言われやせんかという強迫観念、誤解している理論、知らず知らずの間に存する生活の悪習慣、あらゆる虚偽、不徳を糺すことなしに、本当の世の中というものは実現することは期待できません。      (王陽明)
21日 不義不逞横行の原因 民衆は、理屈を超越して軍人や政治家や教育者を尊敬する。そして、この三者が真に尊敬に値する間は、国家の生活が(ゆう)(とどう)に行われておる証拠と見てよろしかろう。而るに、不幸にも今や三者ともかくの如き権威を失墜して、民衆の尊敬に値しなく堕落したのである。民衆は裏切られたる憤り、幻滅の悲しみに呪わざるを得ない。私はそこにあらゆる不義不逞が横行するであろうと思う。 (儒教と老荘)
20日 政治の根本条件 今日、何と云っても国民の運命を直接有力に支配するものは政治である。政治がしっかりすれば人心も安定する。その政治の根本条件は、やはり政治家に人を得ることであるが、その人材もまた根本は何であろうか。例えば、宰相というものは、どこか人々に安心して信頼できる人柄であることを最も根本問題とする。腕でもない、頭でもない、金でもない、やはり徳である。               (新憂楽志)
19日 人格の出来栄えが器量

よくあの人は器量人だと申します。女の()りょう(、、、)は顔を申しますが、男の器量は人格の出来栄えです。器量は道に基づいて色々の器として役に立つ、いろいろのものを量り容れる事が出きるもの。然し、道を学ばなければ本当の器量にはならない。道器(どうき)は常に一貫でなければならない。所作(しょさ)も器量の現れである。これは至れる理、即ち道理から出て来るのである。だから、所作の中に深い理が含まれている。      (活学第二編)

18日 気の統一 気とは、生命力とか生命エネルギーとでも言えば分かり易いでしょう。それを専らにすると言う事は、どこまでも統一し、純化することです。我々の気・生命力をよく統一し純化してゆけば、あらゆる硬化を防いで柔軟になる。これが専気致(きをもつぱらにして)(じゅうにいたる)。そうすると成人の身体も嬰児(えいじ)のようになる、童体になる。長く修行を積んだ人、学問でも、信仰でも、極()わめると純一になるものですから、柔らかくなり、自然になり、童になる、童心(、、)の尊ばれる所以です。 (東洋学発掘)
17日 脱落の境地 至善の特徴と思われる風光は虚明である、柔和である。その中に無限の力が充実して親炙(しんしゃ)する者に不可思議な敬虔の念を覚えしめる。剣道などでも達人になると、いかにも身心(しんじん)脱落(だつらく)して虚明である。そして木の葉のようにぎごちない振舞や、直ちに腰の物を拈弄(ねんろう)したがる殺気が失せて(すこぶ)る柔和になる。手合わせをしても、下手の剣術はガサガサとささらを揉むように硬いが、上手の太刀(たち)は柔らかくて、どっしりと千鈞(せんきん)の威重がある。何かにかくの如く脱落して来なければ真ではない。      (王陽明研究)
16日 骨力と情緒

人間とか、文化とか、その人間の住む作品に就いて見ても、一番大切なものは何かというと、先ず骨力というものが確りしていなければならない。筋金が通っていなければならない。どこかに強さと言うものがなければならない。雄々しさ、逞しさというものがあり、それと同時に内面的な深さ、含蓄がなければならない。それから強さに即する潤いと言うものがなければならない。それはつまり情緒である。    (禅と陽明学)

15日 生きた力は 思想とか信念とか、信仰とか言うようなものは、他から与えられたものでは駄目で、個人の魂、個人の人格を通じて発してくるものでなければならない。どんな立派な理論・思想・信仰であっても他人のものでは駄目である。それが自分の中を通じてこなければ決して生きた力にはならない。                      (人生の大則)
14日 新の文字

新しいという文字は、新と書きますが本当は新です。朝日新聞などはこの新を使っています。辛という字と木を組み合わせて(おの)を付け加えたものです。だから、自然の立木、つまり自然のものを苦労して人口を加えて有益なものに作りかえる。それを新というのです。元のものと全然違ったものではないわけですね。だから広く観察して長く観察すると新しいものは古いものなのです。 (講演集)

13日 専門化は人間小器化 専門化するということは、人間が何かの役に立つ器になることです。小器になるのです。役に立つものになろうとすればする程、人間としての全き教育を要する。人間と言うものが分らなくなると、そういう知識や技術は、どうかすると人間を損うことになる。専門教育は不具の人間を造ってはいけない。人間的教養豊かな、そして有用な道具になる人間、そういうのが専門化です。              (運命を開く)
12日 意識の深層 我々の意識の深層は無限の過去に連なり、未来に通ずるものである。それは、祖宗以来の経験・記憶・思考・知恵・創造の不思議な倉庫・宝蔵・無尽蔵であり、肉体の感覚器官に制約されず、原体験の送信に応じて神秘な解答や指令を発信するものであることが今日の科学によって既に相当解明されている。                 (王陽明)
11日 人間の本質 今日の時勢、我々の生活を観察してみると、総じて枝葉末節に(はし)って手段的なものに()してしまい、本質的なものを失っておる。人間の本質、人間の信念とか道徳的な情操とか、或は人生に最も大切な創造的な情意の力、いわゆる有為、為す有るエネルギー、感激性を失っておる。              (人間学のすすめ)
10日 自由と責任 自由と言うものは、いい換えれば自立である。自立なき自由はない。そこで自由には規律と同時に、それに伴う責任というものがある。それを守って初めてお互いに同志が美しい調和、いいかえれば礼譲、礼と譲る、礼譲が成り立つのである。これはずっと第一から引き続いてきた統一のもとに発展してきた、当然の帰結の一つである。      (心に響く言葉)
9日 現世を極楽浄土に 人間は思いを高遠に馳せるほど、足をしっかり地上に立てて、やはり人間が生まれたこの地球を愛し、地球上の世界を荘厳にすることが大切であります。極楽浄土に往生せんとするが如きは菩薩の懈怠(けたい)大悲(だいひ)()(ごく)()(こく)(あく)(せい)に生き抜いて、これを清浄(しょうじょう)楽土(らくど)にすることでなければならない。        (暁鐘)
8日 人間みな如来 真実につく、或は真実に近づく、真実に到達する、真実に安住するる---これが如来である。何々如来というのは皆こういう意味を持っておるわけであります。処が如来と言うのは何も仏さまに限ったものではない、道を修めればみな如来である。全ての人間は本来みな如来である。如来を持っているのである。           (禅と陽明学)
7日 自力に徹せよ

(しょう)道門(どうもん)というのは、例え仏の教えがいかに宏遠で、またいかに親切であっても、これを要するに仏の教えを信じ、仏の教えを聞く人びとが、その教えを聞いて自ら努力しなければ効果を挙げることが出来ない。いわゆる仏果(ぶつか)証果(しょうか)・神聖なる結果を得ることができない。要するに自力に徹しなければいけないと云うのが聖道門である。(禅と陽明学)

6日 貴老 人間は生ける限り、常にぼけないで、なるべく有意義なことに興味を持ち、道理を尋ね、情熱を抱き続けることが肝腎である。不老長生とは(いたずら)に年を取ることではない。いつまでも人生に興味を持ち、情熱を抱き続けて勉強することである。こういう人を老人に対して()(ろう)と呼ぶ。      (人間を磨く)
5日 老の意味 老という文字は、単に年を取るという意味ではなく、なれる(、、、)とか練れるという意味で、老子と言えば、非常に練れた人物を自から意味します。これは中国民族の最も敬意をこめた尊称なのであります。その意味で、老は老ゆると言う事であるが、老いも老朽(ろうきゅう)でなく、幾ら老いても(こわ)ばらない、(かた)まらない、朽ちないと言う逆な意味。一般に解するとは別の意味で、老は永遠の生命、不朽な生命を意味し、一つの理想的人間像を物語る意味となるのであります。           (東洋学発掘)  
4日 物事の成功 薩摩に煙草がありますが、その道の古老に聞きますと煙草はどんなに良く栽培しても、新葉だけでは駄目だそうであります。古葉と新葉とを常に合わせて初めて本当のうまい煙草ができる。これと同じように、青年が先輩を、老年を尊敬しなくなり、老年が青年から離れてしまって、両々相嫌い軽蔑し合う、ということで物事の成功した歴史はない。(活学第二編)
3日

近代文明の本質

中国の古典の中にこういう言葉が見られる。便利な乗物は「?(いざり)」の具だ。美味しい食物はその実は「(らん)(ちょう)()」、腸をただらす食物だ。文明と共に酷くなる男女の享楽は、これは人間の精神生活を()つ「(ばつ)(せい)(おの)」である。これは()()春秋(しゅんじゅう)という書物にあります。近代文明はこういう考え方の通りになって来ておる。自然を征服すると称して努力した近代文明は結局いざりの具、(らん)(ちょう)()(ばつ)(せい)(おの)を際限無く発達せしめたことに過ぎない。               (祖国と日本)
2日 青年の本質と使命 人生・社会というものは外面的な手段的な建設にあるのではなく、常に人間各自の内面的世界の建設に待たねばならないのです。即ち自己革命・精神革命・人間革命を行わないで理想の社会制度などは出来ないのです。真の文化は個性を通じて始めて創造されるのです。ここに青年の尊い本質と使命があると信じます。青年はまず何よりも自分自身に対して自分を大成させるべき責任がある。それだから自分を空虚にしたり、自分を(すさ)ませるに過ぎないような誘惑や扇動に乗せられないように警戒しなければならぬ。  (祖国と青年)
1日 熱烈な理想

青年は意気地のない事や、だらしのない身持ちを恥て、熱烈な理想を持つこと、クラーク先生の名言を引用すれば、「青年よ、大志を持てです。(boys be ambitious!)。それは、決して、とてつもない計画を立てろと言うような事ではありません。こんなだらしないことで、どうするか!俺は、もっと立派な人間になるんだという憤発心を起すことです。これが無いと人間のあらゆる徳が、従って才智芸能も発達しません。       (青年の大成)