安岡正篤先生「一日一言」  その15

平成25年12月

1日

神仏近づける

然し、書物の氾濫も困ったものであります。殊にこの頃のように安っぽい新聞、パンフレットや大衆の俗な心理に挑む週刊誌など、こんなものは「書」の中に入りません。ここに言う「書」とは、それを読むことによって、我々の呼吸、血液、体液を清くし、精神の鼓動を昴めたり沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書物のことであります。
2日 佳いもの 佳い食べ物も宜しい、佳い酒も宜しい、佳いものは何でも佳いが、結局、佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。しかし佳い人には案外逢えません。佳い山水もなかなか会えません。
3日 佳い書物 ただ、佳い書物だけは、いつでも手に取れます。不不幸にして佳い人に逢わず、佳山佳山に会わずとも佳書だけには会いたいものである。佳書によって、私たちはしみじみと自分自身に話すことが出来る。天地が壊れる時も、ああ天地が壊れると語れるのであります。これが天地の外に立つということであります。                (人生の五計)
4日 習字 一つ座右の銘でも備ておこうと思ったら朝早く黎明即起して習字でもしてみたらいい。この習字というものは不思議なものであります。少しいい硯を買って実行してみるといい。硯なんていうものは飲み食いすることから考えたら、いとも安いものです。あんまりケチな硯ん泥墨、泥筆なんていうものはやめて、少しビール代や牛肉代を倹約すれば、いい墨だのいい筆だの、気持ちのいい硯を調えるくらいのことはわけない、何でもないのであります。
5日 品がよい 先ず、黎明即起して、真っ向法でもやったあと、梅干番茶を一服飲んで、そして座って20分でも30分でも宜しい。多く必要ない、墨を擦る。この時に墨を擦ることまことに擦墨の擦り具合が良くて、硯が非常に品が良いと最高である。人間でも硯でも品というものが大事なんであります。
硯にも品がある。少し品のある硯に清水を入れる、そして墨を擦るだけで、なんともいえず心が落ち着くというか、清らかになるというか、澄むものであります。これは不思議です。どんなにむしゃくしゃしていてもよほど煩悩の強い者でない限り、もう黎明即起して墨でも擦ると不思議にそうないう俗念というか、煩悩というものは消滅するのです。これは本当に不思議です。そこに手習い、習字というものの妙味がある。       (人生の五計)
6日 茶というものは、日本で千年以上も昔から、挽き茶の節会や、行茶の儀に用いられてきた。中国では、遠く周代から用いられている。元来、心気を爽やかにする薬であったことは言うまでもない。その茶を栽培するには、塵埃のかからぬ浄境の、欲を言えば、近くに川の流れがあって、朝な夕な川霧がかかり、太陽の直射が避けられ、やがて日が昇ると共に徐々に()れわたる。そういう所がよい。
7日 甘から渋へ その浄境に栽培された茶の良い新芽を摘んで作るのだから芽茶である。茶はそもそも煎ずるものである。湯加減を良くしてその芽茶を第一煎で、中に含まっている糖分の甘味を賞する。次に第二煎で、茶の中のタンニンの持つ渋みが出てくる。子供はみな甘いものが好きである。人間も未熟な者を甘いという。それが色々と生の経験を積んでくると渋くなる。
8日 渋み 苦味 しかし渋いと言うのは甘いの反対や相克ではない。甘さが内奥に融けこむのである。現にタンニンを分解するとカテキンという甘味が抽出される。この茶をほどよく三煎すると初めて苦味がてでくる。化学的に言えばカフェインの所為である。これは中枢神経に働いて睡気を覚まし、心気を爽やかにし強心利尿によって疲労を救う。
9日 人間の苦味 人間もこの苦味が出てこなくてはならない。良薬は口に苦い、苦言を好むほどの人間でなければ話せない。もっともその滋味秘訣を知らないで、いきなり折角の芽茶に熱湯を注いで、甘いも渋いもなく、苦々しくしてしまうのが「芽茶苦茶」である。目茶苦茶ではない。それは茶を無にするものであるから「滅茶」、「無茶」というのも当たっている。
10日 無味 さて甘い・渋い・苦いは畢竟偏味である。その至極は、もはや甘いとも渋いとも苦いとも、何とも言えないうまい味である。例えば、老子にはそれを「無味」と言う。無味とは「味が無い」ではない。「偏味でない」ことである。何とも言えない、うまい味のことである。これを別にまた「淡」という。
11日 淡いとは味が薄い、味が無いと言うことではない。「君子の交わりは淡として水の若し」(荘子)とは水のように味が薄いということではない。水のように何とも言えない味、それこそ無の味ということである。事実、人間皆死に臨んで水を欲する。末期の水である。末期にコーヒーや砂糖を欲しませぬ。稀に豪傑の士にして酒杯を傾けて卒った者もないではないが、あくまでも例外である。そこで古人が淡窓とか淡淵とか如水と号した所以がわかろう。(王陽明)
12日 茶飲み友達 世間では茶飲み友達なんて、夫婦が年をとつても色気も何もなくなり、それこそ淡々として茶でも飲んで語り合うというような、ほんのあっさりした交誼という、極めて消極的な意味に解釈するのですが、本来の意味はそうではありません。茶飲み友達というものは、言うに言えぬ味のある友達交際のことであります。
13日 茶話 茶話と言う言葉もありますが、ほとんどの人が茶話という言葉を、あっさりした、大して意味のない気楽な話というくらいにしか考えておらない。けれども本当の茶話というのはそんな意味ではありませんで、大変深いこくのあるといいますか意義の深いものという言葉であります。
14日 人生の醍醐味 茶をすすってしみじみと人生の醍醐味について話のできる仲、これが茶飲み友達、茶飲み話ということの真義です。生意気盛りの娘や息子ではとてもわからない。人間あるところまで苦労を積んで渋いところも出て、人生の醍醐味、人間の至れる境地に達して初めて茶が飲める、茶話ができる。茶飲み友達になれるとうわけで、非常に味のある言葉です。
15日 梅干番茶 昔の人は、我々のお祖父さん、お祖母さんは、朝起きると必ず我々に梅干番茶を飲ませたものです。これを飲まなければ御飯も食べさせないし、外へも出さなかった。実際、我々の子供の時分には、この梅干番茶に閉口したものです。処が現代の栄養学、現代医学は、この日本に古来行われていた梅干番茶を「医者殺し」として賞賛しておる。非常に科学的価値のある、立派な飲食である。梅干に番茶を合わせると梅干の効用が生きてまいります。これによって我々の消化機能を消毒し、腎臓機能を初め肝臓などに良い作用を及ぼして視力を強くする。果たせるかな、京都の西陣では、熟練女工に梅干番茶を食べさせる。京都の熟練女工になると色を二万通りに見分けるそうです。人間の眼も我々普通人となると一体幾通り見分け得るか知らん。そういう人達から我々の俗眼を見たら殆ど盲人に等しいのじゃないかと思いますね。フランスのコティの香水職工の熟練者は花の香を七千通り嗅ぎ分けるそうです。そうして見るとお互いの鼻なんてものは大概鼻聾に等しいものだろうと思う。人間の感官というものは人間の感覚機能というものは、そういう風に練磨するという驚くべき神秘的機能を発揮するのです。処でそういうことに密接な関係のあるのが日常の飲食なのです。日常の飲食が乱れると、そういう感覚機能が直ぐだめになってしまいます。 
16日 怒りは万病の根源 中国最古の医書と言われる「素問霊枢」の開巻第一章「上古天真論」に、人間万病の根源は「()」(怒り)の字にあると論じている。
17日 西洋医学の分析 既に西洋の進んだ医学者は精神と肉体の間に非物質的な交互作用が行われており、例えば肉体に対する情緒の反応を物質化して証明することに成功しておる。ワシントンの心理学者エルマー・ゲイツ氏し汗と呼吸とについて、精神状態が肉体に及ぼす化学的変化を明らかにした。
怒りと汗 怒ると汗がひどく酸性になる。ゲイツ氏は汗の化学的分析から情緒の表を作り上げた。また各精神状態はそれぞれ戦内臓の活動に化学的変化を生じ、これによって作り出された異物を呼吸や発汗によって体外に排出することを証明した
18日 怒りの毒素 液体空気で冷却したガラス管の中に息を吐きこむと、息の中に揮発性物質が固まり、無色に近い液体になる。この人が怒っていると、数分後に管の中に栗色の滓が残る。苦痛あるいは悲哀の時は灰色、後悔しておるものは淡紅色になる。この栗色の滓を天竺鼠に注射すると必ず神経過敏になり、激しい嫌悪の情に駆られておる人の息の滓なら数分後に死んでしまうのだそうだ。一時間の嫌悪の情は80人を殺せる毒素を出し、この毒素は従来の科学を知る限り最強の猛毒であると。       (百朝集)
身業 身業について考えて見ますと、大体近頃の人間は、姿勢からして正しくありません。修行盛りの青年・学生でも、ふらふらと妙な格好をしていて、ちょっと蹴飛ばしたら二つ三つに折れてしまいそうな者が多い。やっぱり背骨が直立して腰が据わり足が達者でなければいけません。正身でなければいけません。
19日 肝腎要 日本人は昔から人を罵るのに「腰抜け」と言いますが、あれは医学・生理学の上からいうても本当で、人間、「肝腎(かんじん)(かなめ)」の腰がふらふらしておるようではいけません。そもそも肝腎要の要というのは腰という字でありまして、後に要に肉月がついて腰の字ができ、腰は身体のかなめに違いありませんから、要の方は専ら「かなめ」の意味に使われるようになたわけです。だから肝腎要は、肝()・腎()・腰が本当の意味であります。
20日 道理に適った真理 この三つは健康にとって最も大切な要素であります。中でも腰は上体と下体を結ぶ文字通り要であって、腰が悪いと上下が疎隔し断絶して諸々の不健康の原因となります。また、肝臓は、あらゆる意味で最も大切な器官でありまして、ここから心臓に血液を送り、それが循環系統を通って、最後に腎臓に入って浄化され、廃液を便小水にして出す。正に腎臓は公害除去の大切な浄化装置です。そういう意味で「肝腎要」という語は医学的にも道理にかなった真理を掴んだ面白い語であります。 (東洋思想十講)
21日 引力と空気 人間は色々の影響を受けて生活しておるが、どういう生活をしておろうが絶対に免れ得ない影響は何かというと、それは地球の引力です。それから空気です。この空気と引力、これによって我々は非常な圧力を受ける。我々が一日中受けておるこの重圧を、我々が意識しないでいられるというのは、これは内外同律という力学の法則に従って無意識でおられるのである。だから少しその法則を外れるたような不均斉な姿勢を執っていたたら如何にこの重圧が甚だしいものであるか、堪え難いものであるかということが分かる。例えばお辞儀をしたまま三時間もおるということは殆ど堪え難い苦痛である。
22日 不合理な人間の姿勢 ともかく、姿勢を正しくすることが一番力学の法則にかなうことであり、一番無意識でおられることである。少し姿勢を悪くすると、直ぐに重圧を感ずるようになる。そこでこの重圧に対して人間の姿勢というものを考えてみると、これは非常に不合理なのです。合理的な姿勢というものは横になることである。動物はみな横になっているでしょう。然し人間が横になっておったのでは第一に手が働かず、頭が働かない。人間の文明はまず手を解放したことであり、次に頭を解放したことである。よく学者が冗談に言うことですが、人類文明は前足より始まる。前足を手にしたことが人類文明発達の因である。 
23日 力学上の無理な人体 四つ這いになっていたのが立ったから、色々な技術・知能というものが発達してきた。処が天二物を与えずで、今の力学の法則から言うと、この姿勢は少し無理なのです。大体、細い棒みたいなものを二本立てて、そこに骨盤を乗せてその上に石を積み重ねたような脊椎というものを立て、その上に笠の台を置いてあるのだから全体として見れば、へなへなした非常に具合の悪いものです。
24日 脊椎の矯正 そして滑ったり転んだりして人間はと時々、腰を痛め、脊椎が湾曲したり副脱臼を起したりしてすぎ故障を生ずる。人間は、20才を過ぎるというと、もうどの程度かは腰に異常があります。「腰抜け」という言葉は名言であります。人間の不健康、あらゆる病気がどれほど腰に原因するか判らない。高血圧だの脳溢血だのと言いますが、ああいうのは大抵腰抜けなのです。腰の整形外科か何かで、安摩なりカイロプラスチックなりで腰の手入れをしますと、そして脊椎を正しくしますと、自然あんなものは消滅する。80パーセントは消滅してしまう。だから、病院に駆け込むよりは少し脊椎の矯正、腰の矯正をした方がどれくらい療養になるか判らない。    (暁鐘)
25日 大和の国、大和の心、大和性 純真多感な少年時代を大和河内国の間に過し、日本を大和の国と教えられ、

   しきしまの やまと心を ひと問はば

      朝日に匂う 山桜花

と言う、本居宣長の歌を心に刻んで育った私は、大和という言葉が好きであった。その後、いろいろと学ぶにつけ、また世間を知るようになって、ますます会心の言葉となってくるのであった。宇宙も人間も、みな、大和から成り立っている。悪意邪念をもって相争うことは全て破滅である。

---大和なくして、何が存在し得ようか。

我々の身体は、↑苦しみや恐れや怒りや、さまざまの刺激に応じて変化する。然し、そのために容易に混乱し破滅することなく、そういう内外の刺激に応じて自分自身の調整をし安定させる自己調節機構を具備し、常に大和を保っている。この恒常性、大和性をホメオステーシス、homeostasis、と言う。これを失えば疫病であり、死である。(人生の大則)

26日 真向法

446.公害汚染の中、私は朝起きた時と夜寝る前に必ず真向法をやります。真向法を工夫したのは長井(わたる)という人で、東大のサンスクリットの大家・長井真琴氏の弟さんであります。実家は福井県の日本では珍しい(しょう)(まん)(きょう)所依(しょい)の経典にしたお寺でありまして、兄さんの真琴氏は家の本筋の仏教の研究に志して、あのような碩学になられ、津氏は早くより大倉喜八郎の弟子となって実業界にはいり、若くして金儲けに成功した。そうして型の如く中毒現象を起して、40歳代に脳溢血で半身不随になった。

27日

(しょう)(まん)(きょう)

そこで大いに悔いて、本人から直接話を聞いたところによると、もちろん治りたいという気持ちもあったが懺悔の気持ちの方が強かったそうですが、(しょう)(まん)(きょう)を読もうと決心した。と言っても今更兄さんのように学問的に勉強するなどと言うことは無理な相談であるし、またそんなことをしたところで到底追いつくことでもない。それよりも日蓮上人が法華経を読まれたように身体で(しょう)(まん)(きょう)を読もうと決心した。つまり色読しようと考えたわけです。そこで(しょう)(まん)(きょう)の冒頭に(しょう)(まん)夫人が仏を礼拝されるところがあるので先ずその礼拝から始めた。
28日 真向法の由来 インドの礼拝は五体投地礼と言って両足を投げ出して、額を膝につけるようにして拝む。長井さんも先ずこの礼拝からやろうと思った。初めは半身不随の身体ですから、なかなか礼どころではありません。処が熱心にやっておるうちに、次第に手足が自由に動くようになって五体投地礼が出来るようになると共に、いつか半身不随も消滅して元の自由な身体になった。それで最初これを礼拝体操と言っておったのであるが、ある時、明治神宮に参拝したところ、真っ向から霊感を得たので、それから名を真向法と改めたということであります
29日 日常悪習脱却 だから真向法というものは実に感動すべきものでありまして、やる以上は先ずそういう心構えから入らなければいけない。私はよく親不孝らしい人間を見ると、親不孝をして相すみません、と言って仏壇の前で真向法をやれと奨めておる。私自身、許される限り仏壇の前でやっております。殊に真向法の四つの型の中でも第四番目の正座して体を後に倒し、頭の上で合掌する運動は難しい。大抵やっておるのを見ておると、格好だけは何とか真似しておるが実質は甚だ以て好い加減なものが多い。兎に角、真向法は身体の持ち方を本然に返して日常生活からの汚染、悪習慣から是正する最も良い方法であります。 (干支新語)
今月は、ここまでとします。