「臍曲がり()(さい)和尚(おしょう)梵天(ぼんてん)(まる)

平成18年12月

 1日 梵天(ぼんてん)(まる)

伊達政宗の禅師が虎哉和尚である。梵天丸は伊達政宗の幼名。昔の作家の歴史小説は味わいが深い、人生の妙味を語って凄みがある。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に生き延びた戦国武将の凄まじさに現代人は学んでよい。現代のヤワな作家の文章など読む気にならぬ。
 2日 味わいある小説 山岡荘八の大河小説「伊達政宗」、「徳川家康」など人間を語ること実に実に味わいと真実味があり心を打つものが多々ある。

全八巻の中の極々の一章を引用し味わいたい。日々のタイトルは徳永が勝手につけた。 

 3日 大自然の意思 大自然には大自然の意思がある。その意思が人間各個の中にさまざまな生命の実を結ばせて次々にこの世に送り出す。送り出されてくると、然しそこには送り出された者同志の間で作られた一つの軌道が出来上がっている。 その軌道をはずれて生きることは許されず、さりとて従属していたのでは生まれた意味も無くなれば、各個各様の個性も抹殺されることになる。
 4日 己れの軌道 「この天地の間に、頼れるものは己だけ!」人々の敷いた古い軌道に押しつぶされずに、その歪みに屈さぬだけの気概気魄をもって、しかも軌道をはずさぬ生き方、 それを発見してこそ人間ははじめて、大自然も、人間軌道も、ともに翼下に抱いて悠々とその生を終われるのだ。
 5日 孤独の門 しかし、その調御、調節の本道を開くには先ずもってきびしい「孤独の門」をくぐりぬけねばならない。 「―両親とは何だ!」、「―家臣とは何であり、敵とは? 味方とは?」、「―学問とは? 武芸とは?」
 6日 苦悶の末 何のために眠り、何のために食べ、何のために聞き、何のために泣く・・・、 そのどれ一つに通俗な妥協があっても、それは一つの瑕瑾(かきん)になる、そこから大きく知恵の袋は(ほころ)び出してゆくからだ。
 7日 禅者の修業 こうして、禅者の修業は人間錬成、即ち教育の極意として、ついには「不立(ふりう)文字(もんじ)」の境地に至る。 真の教育は学問や理屈では説明出来るものではない。人間の心と心、魂と魂のふれ合いによって起こる火花や電撃の間から肝にこたえて悟ってゆくものなのだ。
 8日 法を継ぐ 「―わかったか!」、「―わかりました!」。禅者はこのはげしい以心伝心を「法を継ぐ」とも云っている。

伝える者も継ぐ者も共に全身全霊でぶつかり合う。これこそほんとうの真剣勝負なのだ。 

 9日 大愛 ただ刀槍の撃突と異なるものは前者は相手の殺傷をめざしているのに 後者は慈悲という大愛をかざして育成をめざすというところだ。
10日 この上なく不自然な 「――若よ、臍曲がりにならっしゃい」。虎哉はその大愛を集約して梵天丸に事毎に言った。痛い時には痛くないと言い、泣きたい時には笑えというのだ。 暑かったら寒いと言い、寒かったら暑いと言ってみよ。それは不自然といえばこの上なく不自然なのだが、虎哉に言わせると、これが教育と言うものだった。
11日 避けられないもの 痛いも、寒いも、ひもじいも、暑いも、それは五体五感にそなわった本来の感覚にすぎない。そんなものは、わざわざ人間が教えなくても、みな生まれた時から身につけている。 そして痛いという経験も、悲しいという経験も、どんなにこれを避けようとしても決して避けられないように運命づけられている。
12日 教育の本質 絶対に避け得ないものとわかれば、痛みも飢えも寒さも悲しみも克服することを教えてゆくより他にない。

それが人間に許された、人が人を教えるという、そもそも不自然な教育の本質なのだ。 

13日 才覚と知恵 「−要するに、これは造物主のし残した仕事での、お釈迦さんがそのあとを引き受けたのだ。もっとも造物主のほうから、お釈迦さんにくれぐれも頼んだそうじゃが、人間の躾は手足はむろんのこと、五臓六腑の末に至るまで、使えば使うほど必ず丈夫になるように造ってある。 が、ただ一つ手の届かなんだところは、それ等を使う知恵を教えぬうちに、勝手に世の中へ飛び出していってしもうた。あとはくれぐれも頼むぞと言うての」。
14日 意見衝突 梵天丸の教育では、儒者の相田康安と虎哉和尚の間で何度か意見が衝突した。康安に言わせるときびしすぎるというのただが、その都度和尚は、途方も無い比喩で相手を笑い飛ばす。

一日作さざれば一日喰わず・・、そう云って和尚は梵天丸を畑に連れ出した。それも常に裸なので、康安は或る日、革で作った沓を持って来て梵天に履かせたことがある。 

15日 (くつ)

この沓は、実は母の義姫が作らせたものであった。「若よ、それは何だ?」「沓です。

母上が畑で足を怪我すると・・」「沓はもう履いている!そんなものは脱ぎなさい」 

16日 天与の沓 虎哉ははげしく叱りつけてから、「よいよい、母御が下されたものじゃ、破れるまで履いてもよい。

そしてそれが破れたら梵天丸は破れぬ沓を履いていますゆえ、もうご心配下さるなと言うてやれ」 

17日 魔法の沓 その革の沓は二ヶ月余りで底が破れた。破れると梵天丸は又もとのように裸足で黙って畑へ出た。「どうだ。若の、はじめから履いている沓のほうが丈夫であろう?」、

中休みの縁側で麦湯をすすりながら和尚が問いかけると、梵天丸は自分の裸足の裏をたたいて、「この沓は、履けば履くほど丈夫になります。こんなに固くなってきた。お師匠さま、この沓もお釈迦さまが下された魔法の沓ですか。 

18日 母の下された沓 すると虎哉和尚は苦々しげに舌打ちして、「おべんちゃらを言うなっ」と叱りつけた。「そんな時にはな、こう云うものだ。 お釈迦さまも不念(ぶねん)な人だ、どうせ下さるなら泥のつかぬ沓を下されば、足を洗わずに家の中へ入れるものをと」
19日 ほんとうの沓 「なるほど、その方がぐっと立派な臍曲がりだ」、「そうよ。でも、それが沓とわかったのは偉い。若の沓は履けば履くほど丈夫になる。 実はそれが、母の下されたほんとうの沓。母上は、それをお忘れなされていたのだな」。
20日 梵天丸の臍曲がり

すると今度は梵天丸がフフンと笑った。「そんな時には、こう云った方がよい。女と言うものはそそっかしいものだ、自分の倅に何を呉れて産んでやった、すぐに忘れる」

「な、なんだと・・」、梵天丸が資福寺の勉学所へ起居するようになって三年目、九つになった梵天丸は、色も黒くなったし背丈も伸びた。そして、一つしかない眼は時おり師の和尚をたじたじさせるほど鋭い光りの眼に変わっていた。
21日 母者の沓 虎哉和尚は眼をみはって叱りつけた。「わしは、若が馬で来るのさえ気に入らぬ、大切な母者(ははじゃ)から頂いた沓()が弱うなる。沓を弱らしたのでは、いざという時、腰が抜けるぞ」 政宗は白い片目をつぶるようにしてニヤニヤ笑った。「たぶん、そう言わっしゃると思うていました」、「なんだと、それに何ぞいわれがあるのか」
22日 ダテ衣装 「ござります。先ずこの月毛の駒は伊達の沓、これを履きますると、一々背くらべをして歩くには当たりませぬ」、

「ならば、その化物のようないでたちは?」「伊達衣装にござります」、「ダテ衣装・・?」

23日 大人の臍曲がり

「われ等より八代前の伊達大膳太夫政宗、これをまといて京畿と往来、その有名をとどろかせました。当今の伊達の倅も、先ずその外装を借用し、そこから内を整えて、いささか人々を脅かしてやろう魂胆にござのます」

「フーン。そうか。すると、お父上の期待に遠からず答えようという気になったのだな」、「はい。出来るだけ背伸びして、大きくなつたように見せかける。これも臍曲がりの一種なので」、「臍のことはもう申すな。
24日 わからぬ臍こそ 大人になったらな、どの程度の臍曲がりか、わからぬように曲げてゆくのがまことの臍曲がり。

臍曲がりも鼻にかけると臭いものじゃ」「かしこまりました。では、せいぜいわからぬように・・・」 

25日 免許皆伝の境地 「さて、そこじゃ。その奇妙な赤地錦に月毛の駒では、これ見よがしに眼立ってゆく。眼立つはよいぞ。伊達の倅が、このように大きくなったぞという親孝行だ。 その親孝行はよいが、眼立ちすぎる。眼立つゆえ刺客に狙われるという効き目もある。仮りに、こなたがこの山門をおりたあたりで、山伏どもに待ちぶせられて襲われたとする。槍の助佐位ではあしらい兼ねる、となったおりには、何とするぞ」
26日 自在の沓 すると政宗は先ず、月毛の鼻づらを撫でて見せた。「この沓は、一番乗りのおりにも履けますが、遁げる時にも、まことに役に立つ沓で」、「さっさと遁げると申すのか」、

「他日のために、方向を変えて履きます。三十六計のうちにござりますようで」、「よし!さ、入れ。入って今日は、改めて若に問わねばならぬことがある」、「ありがたきこと」。 

27日 風雲機(ふううんき)(じゅく)

東洋には「機が熟すーー」という言葉がある。この機という文字の持つ意味と味はまことに深慮なものがある。

機に臨んで風雲を起したり機を失して生涯陋巷(ろうこう)(ちん)(めん)するからだ。 

28日

天地の働き

機嫌がよくて、機敏に動いて、機会を掴んで、機密に参画して、機宜に適してゆく機能があれば申し分ないのだが機を逸したり、機を失ったりしていては間違いなく敗残者だ。 機は天地の働き(作用)と人智のそれとぴたりと合一したおりに熟する。と云って柿の実の熟するように赤くなって見せてくれるわけではない。薄っぺらな合理主義者の眼には見えない。
29日 機用 禅家は、この「機熟」の摂取を機用と称して重視する。機転を利かせて熟した機を機敏に察知しこれを即座に活用するために禅問答を繰返す。 熟した機は人を待たない。一瞬にして来たり、一瞬にして去る。その機熟にそなえて、つねに気(呼吸)を整えておくのが座禅と解してよい。
30日 機熟
気と機の熟
「――気にそなえて気を正す」、虎哉禅師が、つねに「まだまだ」と政宗の手綱を制して来ていたのは、云うまでもなく、この機の熟すのを待っていたのだ。

機熟のことが的確に掴めるようになればもはや人間として成人の域に達する。この機用もわからぬうちにエネルギーに任せて動くのを妄動と言い、妄動は無意味な体力の浪費に過ぎずその身を破る原因にしかなり得ない。 

31日 初陣(ういじん)

戦国時代の習慣では初陣の平均年齢は数え年十五歳位。信長や信玄のように十三、四歳で戦場へ連れ出された者もあれば、家康のように十九歳で初陣して充分に一方の大将としての責任を果たした者もある。何れにせよ、あまり早くから戦場へ出た者で、よく大成し、終わりを完うした者は少ない。

無責任な若者にとって、戦場の妄動はそれなりに面白い。面白いから好戦的になり、ついには戦場で落命しなければならない運命を掴みとってゆく。伊達政宗は信長、秀吉、家康そして家光を生抜いた唯一の、類いまれな名将、その素質はこうして鍛えられたのである。