易学再考 その二     


運命と宿命           

(めい)というものは、これは必然の作用を表すわけで、何の為にとか、何の目的で、というようなものではありません。そのもの自体絶対のものであります。また私達の生活あるいは人生というものは、これは大きく言いますと大自然の創造、進化の一つの典型でありま

して、創造、進化してやまないというので、動くめぐるという運の字がついております。そこで運命という以上は、動いてやまないという意味を自ずから含んでおるわけであります。世間では反対に決まりきった機械的、固定的な意味にとっております。それは運命と言わず、宿命というべきです。 

偉大な統計的研究

宿―やどるーというので宿命。丙午の年に生まれた者、特に女は、どうも縁組みが悪いというようなことは、とんでもない間違いであります。一体、易というものは、その根源に遡って考えますと、人間世界の偉大なる統計的研究ということができます。

はっきりわかっておるのは周代から発達し、漢の時代に一応まとまったと思われます。また一説には(いん)の時代に作られたとも申しますが、殷時代は文献がありませんから明確ではありません。

易の発生                

中国古代の民族が周の時代に黄河の流域に落ち着き農耕生活を始めるようになって、色んな学問が進歩し、文明が発達した。それまでの漢民族は遊牧民族です。黄河の流域に定着して農耕生活に従事すると、その生産、労働は、自然の変化に制約を受けますから、どうしても春夏秋冬の変化、これに適応する手段、方法というものを研究しなければなりません。そこで過去に遡って統計を取るというような事から始まり、長い長い生活体験に基づく研究調査によって統計学的結論をだし、これにのっとり政府は年の初めに本年はこのようになるだろうと、天地の変化、およびこれに伴う生産活動等を割り出して予告する、参考に供することが定着するようになりました。そこで暦のことを正朔(せいさく)と言います。正朔とは正月一日という文字であります。この正朔を頼りにして生活を営むものですから、正朔を奉ずと言えば、その国の政府に従うことであって、その領土あるいは、属国になるという意味であります。 

易の三義

第一義の原理は「変わる」

そこで易というものは、民族が極めて長い年月を通じて得た統計学的研究とその解説と申して間違いありません。そして自然も人生も絶えず変化してやまない。西洋の言葉でいうならば「創造的進化」であります。

そこで易という文字の第一義は「変わる」ということであります。一般に易をみてもらうということは変らない原則をいうように思いますが、第一義は「変わる」、「変化してやまない」ということであります。その「変わる、変転してやまない」というそのものを「化」という。「自然と人生は大いなる化」であります。

大化                          

そこで化に大の字をつけて大化という言葉があります。自然も人生も大化であります。日本の歴史でも、元号になっておる大化の改新というのはこの思想であります。また化の根底は不変でなければなりません。不変がなければ変化という意識が生じないわけであります。そこで易の第二の意味は「不変」の原理です。 

第二の原理は「不変」

第二の原理は「不変」、この原則に基づいて変る、変化を自覚し意識することであります。人間の知恵が発達するにつれて、変化のうちに、不変の真理、法則を探求し、それに基づいて変化を意識的、積極的に参じていく。つまり超人間的、従って無意識的変化にとどめないで、変化を考察し、変化の原則に従って自ら変化していく、という意味が出てきます。 

第三の原理は「化成」

そこで易の第三の意味は、創造的進化の原理に基づいて、変化してやまない中に、変化の原理、原則を探求し、それに基づいて、人間が意識的、自主的、積極的に変化していく、これを化成といって、人間が創造主となって創造していくことであります。

詳しく言えば五義、六義もありますが、取り敢えずこれが「易の三義」であります。 

運命と宿命           

だから運命、運命とよく申しますが、運命とは動いてやまない自然と人生のことであります。そこで運命を誤ってこれを他律的、予定的なものと誤解あるいは浅解−浅く考えてしまうと動きがつかなくなる。人間は初めから自然あるいは遺伝に従ってきまりきった存在で、泣いても笑っても運命はどうにもならぬというような予定的、固定的に考えるのを宿命と言います。運命という時には動いてやまぬということであります。それを生まれた時から決まりきっておる、どうにもならぬという考え方が運命の中の宿命観であります。然し、これでは人間として折角心というものを与えられ、意識し思考する意義がありません。

宿命観・立命観   そこで更に進んで、この動いてやまない創造―クリエーション、進化、これを法則に支配されて動きの取れぬという宿命観に陥れずに、この「運命の理法」を探求して原理を解明し、大自然あるいは、宇宙、神、そして人間の思考や意思に基づいて、自分の存在、自分の生活、自分の仕事というものを創造していくことを「立命」と申します。同じく、運命と言いますけれども、大きく分けると宿命観と立命観があるわけであります。

易には変わるという意味がある。変わるのは本体に変わらないものがあるから変わるのである。運命を宿命にすることなく、立命にもっていくこと、これが本当の「易」であります。この根本の意義を意識して、はっきり頭に入れておきませぬと、巷間に流布される迷信的な易になってしまって有害であります。然し、これは恐ろしいほど誤られて、つまり通俗化するに従って誤解、あるいは誤用されております。先程、申しました丙午(ひのえうま)等はその一例で、最も弊害の多い例であります。

四柱推命 @      

いろいろ運命観がありますが、その一つに四柱推命学というものがあります。これは民間の易に基づく人間学の中でも最も確かと申しますか、内容のある学問です。本当の名を「命理」と謂い、専門家は四柱推命学を「命理学」と言っております。運命に関する真理の学問であります。

なぜ四柱というかと申しますと、人間は、何年何月何日何時に生まれる、大きく分けるとこの四つであります。これを四柱と言い、時間まで分かりますと薄気味悪いほど当たります。これも絶対的なものではありません。というのは第一に人の生年月日というものは案外当てにならぬものが多い。 

四柱推命 A      

神経質な親になると、夜生まれた子供は運が悪い、縁起が悪いというので、夜遅く生まれると翌朝に届ける。あるいは、悪い日に生まれると縁起が悪いと、翌日生まれた子供を前日の届ける。例えば天長節に生まれたとか、元旦に生まれたと届け出ます。大晦日に生まれた子供を届ける親は滅多にありません。

四柱推命 B      

この四つの柱、即ち、生年、生月、生日、生時の真干支を並べ、生日の干支が一番本人の運命を現しておりますから、これを中心に、生月の干支は父母兄弟つまり家族をあらわし、年は先祖あるいは祖父母、そして時間は子孫をあらわすというように決められております。     

また夫婦で申しますと干は夫、支は配偶者を現します。そこでたまたま組み合わせがよくないと、例外は別として、一般的に結婚がうまくいかなかったり破れたりすることが多い。それでは、これをどうすれば脱却できるか、或いは逆に改正できるかということ等、この命理学には親切に書いてあります。 

四柱推命 C      

この本人を現す日の問題をいつの間にか、年に変えてしまったことが民間の大きな錯誤であり、非常な弊害であります。例えば、日の干支は60日に一度還ってきますから一年に六乃至七日です。ところが年の干支は365日分でありますから丙午の年に生まれた人は大変な数に上ります。当然丙午の日の生まれはごく少数になるわけで、その上干支の干は夫であり、支が妻でありますから、丙午の生まれなんていうのは縁談に何の支障もありません。これなど正しく教えてやりますと、夫婦、或いは結婚に幸福をもたらす為、大変功徳があります。これは易学に基づく応用の方法で、そのほかの九星とか何とかいうものは沢山ありますが、真の学問的価値は乏しい。強いて言うなら、若干統計的研究、その材料が豊富であり、或いは久しきにわたっておればおる程意義がありますが、民間に残っておるのは殆ど採るに足りません。

易の真の意義と価値

そこで易を学べば学ぶほど、自分で自分の存在、自分の生活をつくつていく一番ダイナミックな原理法則、力になるというところに易学の意義と価値があるので、この点をしっかりと理解し、会得しておくということが易を学ぶ者の先ず第一の肝腎な問題であります。肝腎という言葉は好い言葉で、肝臓と腎臓であります。肝臓は動力機関であり、また大切な生産機関でもあります。

易の真の意義と価値2

腎臓はまた浄化機関であります。そこで易を学ぶ肝腎の問題は、限りなき創造、変化の学問であるという理解が必要であります。先にお話を致しましたが動物等は自然の法則に従うのでありますが、人間は意識、精神というものが与えられておりますから、この造化の原理、原則に従って、自分の存在、自分の生活、自分の仕事というものを自覚創造していく、これが一番大切な真義であります。

 

化成                          

だから易というものは、宿命を探求するものでなく、自分で自分の運命を文字通り創開していく、化成していくーーこれも易の言葉であります。三菱化成という会社がありますが、この会社をつくった初代が三菱―岩崎家の方で、非常な易の愛好者であったそうです。

この人が易経の中にある「化して成す」という言葉を愛しまして、自分の会社に三菱化成という社名を選んだということであります。これが一般に「化学合成」と解釈しておるようですが、誤りであります。これは易経の「()」の()の中にある言葉でありまして、そこからとったそうであります。

易学の真義           

私達の生活、事業、思想、学問等を固定させずに限りなく化成していくというのが易学であります。そこで、これを学べば学ぶほど、自分で自分を維新、日新の生活、活動を創造していくのだということを十分に理解しておく必要があります。これを忘れて、前進しますと、果てしのない迷路に入りこんで、或いは動きのとれない結果に到達してしまう。このことをよく皆さまの頭にしっかり入れておいて頂きたいと思います。そうしますと、易学の興味というものは実に限りないものであります。おそらく、あらゆる学問の中でこれ位興味の深い、趣味の広い学問はほかにありません。

孔子と易                

孔子も論語に「五十易を学べば、もって大過なかるべし」と書いておりますが、この言葉はよく引用されます。孔子のような人でも、五十になって、五十才になると誰でも人生というものを考えます。よほど横着者か馬鹿でない限り何か考える。俺はこれでいいんだろうか、こんなことで俺の人生というものは一体どういう意義があり価値があるのか等考えない者はない。あの孔子のように偉大な哲人、聖人が「五十易を学べばもって大過なかるべし」と言っておることは非常に教えられるところであります。

孔子と易2           

論語は昔から大いに研究されつくしてきた書物でありますが、今日でも尚その研究は続けられております。先般も中国人の学者から「論語の研究」という書物を送られ微にいり細をうがった研究の成果を感心して読みました。その中にもこの「五十易を学べば、もって大過なかるべきか」という言葉がありました。この学者によりますと、易は、亦―エキ、モマタが本来であり、「五十もって学べば、亦もって大過なかるべし」と解説しておりました。

孔子と易3           

これは私たちに対する警告であります。人間は五十ぐらいになるともう勉強しなくなる、俗物になる。五十になっても、寧ろなったらそれだけ本当の勉強ができるので、益々勉強をする。そうすると初めて大した過ちのない人生が送れるのではないか。大変これはいいことであります。

立命の学問           

要するに易というものは、無限の創造的進化であります。そこには厳粛な理法というものがあり、その理法、法則に基づいて、造化と同じように限りなく自分自身をつくりあげていく、創造、変化、いわゆる化成していく道、その原理を説いたものが易経であり、立命の学問であります。世俗にいうただ宿命の学問ではありません。これから易のお話をなるべく学究的にでなく、皆さんの日常生活に適切な参考になる学問としてお話をすすめたいと思います。(昭和52513日講)