藤原家考察

日本の貴族 明治維新後から敗戦まで

公・侯・伯・子・男    

 公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵

貴族院議員  多額納税者と

貴族院明治23年)11月29から1947昭和22年)5月2まで存在した。貴院と略称された。衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた]

非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、議員の多くが終身任期であった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、日本国憲法下の参議院のように、良くも悪しくも「衆議院のカーボンコピー」という批判は起きなかった。

藤原京は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。

694(持統8)から710(和銅3)までおかれた

前:
難波高津宮

日本の首都
豊浦宮 小墾田宮 岡本宮 板蓋宮 等)
592 - 645

次:
難波宮
難波長柄豊埼宮

前:
難波宮
難波長柄豊埼宮

日本の首都
板蓋宮 川原宮 後岡本宮 等)
655 - 667

次:
近江大津宮

前:
近江大津宮

日本の首都
飛鳥浄御原宮
672 - 694

次:
藤原京

飛鳥の諸宮一覧[編集

摂家 摂関家 五摂家 

摂家とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5家がある。摂関家、五摂家、執柄家ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。  

藤原道長 平安時代

 この世をば我が世とぞ思う望月の

欠けたることをなしと思はば

藤原摂関家 平安時代 朝廷は藤原一党に牛耳られ

      他人が錐を突き立てる隙もないほど領土を独り占めした。

七世紀 逆臣・蘇我入鹿を殺害した中臣鎌足こと藤原

鎌足以来、特にその子不比等の画策により藤原一族は、

敗戦まで日本の頂点に君臨し続けた。日本歴史は藤原

の歴史そのもの。

天皇の外戚 

中世になって貴族社会が没落して武家社会となっても血脈を広げて時の権力を陰で操り繁栄の手管を保ち続けた。

近世では貧窮していたが明治維新とともに不死鳥のように蘇生した。

新たな門閥、閨閥を再構築し日本のエスタブリッシュメントとして日本社会に隠然たる影響力を及ぼし続けている。

藤原家の血脈は、政界、官界、財界、学会と現代日本の中枢の隅々まで張り巡らされていると言って過言ではない。

例えば、田中角栄、今太閤、庶民宰相、彼は、日本を実質的に支配する門閥の外から権力中枢まで上り詰めた。だからロッキード事件でエスタブリッシュメントから排斥されたという話がまことしやかに話題となった。

日本歴史、現代社会の実相を知るために藤原は避けて通れない。

天皇は藤原の隠れ蓑とも言える。 

藤原の家系

 天孫降臨 天小屋命が祖先

 藤原鎌足と中大兄皇子の劇的な出会い

 中臣姓を賜る 神祇伯(最高の地位)に抜擢

 長屋王一族の滅亡 藤原の仕掛けーー祟り

――法華滅罪之寺 雷は祟り 

鎌足急死 神祇官役所に落雷 

天平時代 天平の語感の良さ

文化史上の奈良時代。聖武天皇天平年間729年―749年)を中心とする。もと美術史上の時代区分で,白鳳と弘仁貞観の間。支配者層の朝廷貴族が文化をも指導し,大陸文化・仏教美術の影響が濃い一方,神話伝説歌謡なども集成された。 

 天平時代 

天平時代は710〜784年で、長岡京遷都までのわずか74年間。
 小野老朝臣が「青丹によし 奈良の都は咲く花の 薫うがごとく いま盛りなり 」と
詠んだように、律令体制による中央集権国家も確立され、重要政策の一つに、東大寺、薬師寺などの建設には臨時の大組織の役所を設立して対応するほどの力の入れた時代。
 国家権力が頂点であっただけに、絢爛たる仏教美術が花開き、わが国が大躍進を遂げた明るく活気に満ちた時代。
天平時代の大寺とは官寺という意味で、官寺が多く建設された。唐招提寺は鑑真和上が開山された私寺。
 わが国の女性の天皇は、東南アジアで最初の女帝 推古天皇に始まり、皇極天皇(斉明天皇)・持統天皇・元明天皇・元正天皇・孝謙天皇(称徳天皇)・明正天皇・
後桜町天皇の8人であります。天平時代の70余年で元明天皇・元正天皇・孝謙天皇(称徳天皇)の3人もの天皇がおられます。元正天皇、孝謙天皇(称徳天皇)とも独身で、阿部内親王(孝謙天皇)は有史以来唯一の女性の皇太子でもあります。
 
孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の娘婿の淳仁天皇を快く思われなかったのか、天皇即位時に改元されるしきたりであるのに改元されずに、淳仁天皇は自身の年号を持たれなかった。

次に、律令制度の労役、税金から逃れるため、かってに出家して仏門に入る不届き者を排除するため、正式な受戒を受けた僧には戒名を与えました。東大寺戒壇院で最初の受戒者は聖武天皇で、戒名は「勝満」でありました。戒名は、後の空海、最澄と言うように“2字”で今日まで続いております。当時の僧侶といえば国家公務員のエリート。
 
余談ですが、一般に戒名といわれるものには「真言宗、天台宗、浄土宗、禅宗は戒名」「浄土真宗は法名」「日蓮宗は法号」で、その戒名に「浄土宗は“誉”」「浄土宗西山派は“空”」「浄土真宗は“釈”」「日蓮宗は“日”」という号の字を入ります。  
 現在、わが国以外の仏教国で、在家の者には戒名を与える習慣はない。
 それと、わが国の年号は、唐の模倣である天平時代の天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の4字年号以外は2字が決まり。

それから、仏像を訪ねる旅なら古都奈良。天平時代は、仏像の表現で、理想的人体にあふれる写実性を完成させた時代。官営造仏所では、巨像、大量の像が制作された時代で、ただ不思議なことに優れた仏像が多数残されているのに、制作者は殆ど記録されてない。 その訳は多分仏像の制作が官営造仏所だったから。

 仏教界を君臨した道鏡などのように政治に関与し、権力をもつ僧がのさばる弊害も目立ってきたうえに経済の破綻もあって、長岡京への遷都となった。
その後の南都奈良はどうなったかといえば、僧兵を所有した興福寺などの一部の寺院を除いて、他の寺院は時の政争に加わらなかったので、寺院の焼失を免れた。しかも、京都のような応仁の乱などで町全体が灰燼に帰するという不幸の出来事にも遭遇しなかったのと、先人達が大切な国の宝を守り続ける努力のお陰で、今
日までの気の遠くなるような悠久の歴史が、連綿と続いている。