平成の終わりに思う
1.平成の終わりに思う
平成最後の月、来年から新元号となる。日本人としては感慨深いものがある。
第一、歴史の上しか知らなかった、「上皇」様を生きたまま仰ぐのだから、これは珍しいのであります。平家物語で有名な後白河上皇、最後の上皇は、江戸時代1771年、119代の光格天皇でした。それ以来ですから、260年ぶりです。
光格天皇は、あの修験者の元祖、役小角に大菩薩号、神変大菩薩を授与した天皇です。役小角は飛鳥時代の実在の人物、山岳修験道の開祖、舒明天皇紀元634年時代の人、大和の国葛城生まれ。弟子に前鬼と後鬼。
大峰奥駆道の山麓小屋あり、その主人が後鬼の子孫76代目五鬼助氏です。
風呂を焚いてもらい入りました。
大師号、神号は天皇が授与されるのです。
弘法大師、伝教大師とかね、処が浄土宗の法然上人は50年に一度大師号を貰う約束でありそれが続いている。奈良唐招提寺創始者の鑑真はいつまでも和上です。
鑑真和上が続いています。
日本人の「姓」は古代からあります、日本人の姓は、元々やまと言葉です。
古い姓では、葛城、三輪、藤原、中臣などですね、これ訓読みです。古来からの姓といえます。藤原は中臣が天皇から貰った姓ですね。
それより新しい「佐藤」これは本当は、「佐野の地の佐藤」、近藤は「近江の佐藤」、という具合で「音読み」ですから渡来系もあり得るらしい。
姓は「かばね」
氏は家ごとに自ら伝わるものですが、姓は大王、即ち天皇が授けるものです。
氏と姓が両方揃って初めて一族の面目が整ったのですね。
それが、-おみー臣であり、むらじー連、みやつ
造、あたいー直、おびとー首、ふひとー史などでした。
大王、天皇は、こうして、家ごとに、位階ごとに、束ねたのでした。
大体、江戸末期まで庶民には姓は無かった。
庶民の名字
江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、原則として名字(苗字)を名乗ることが許されなかった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。庶民の名字そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。
しかしそれでも、庶民は、名字として公的な場で名乗ることはできなかった。この習慣は、江戸時代に特有ではなく、それ以前の中世の鎌倉時代・室町時代の段階から存在していた。名字が武士身分の象徴として意識される一方で、庶民の間では、名字の公称が自主規制されていったのである。同時に、村の中でも、名字の私称は、上層の百姓の特権として認識されるようになった。
明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行っていた。幕府否定のため幕府により認められていた農民町人の苗字を禁止し(慶応4年9月5日)、賜姓による「松平」の名字を禁止したり(慶応4年1月27日)する一方、政府功績者に苗字帯刀を認めることもあった。明治2年7月以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように本姓を名乗ることとした時期もあった。
明治3年(1870年)になると法制学者細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により名字政策は転換された。9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。この日にちなんで、2月13日は「名字の日」となっている。
明治4年10月12日には姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に本姓を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点で太政官布告上は、いわゆる本姓は「姓」、氏・名字は「苗字」、かばねは「尸」というように分類されたのである。明治5年(1872年)5月7日の「通称実名を一つに定むる事」(太政官布告第149號)により公的な本名が一つに定まり、登録された戸籍上の氏名は、同年8月24日の太政官布告により、簡単に変更することができなくなった[2]。また婚姻後の妻の苗字については、明治8年(1875年)、石川県より「嫁いだ婦女は、終身その生家(実家)の氏とするか。嫁が家督などを継ぐなど、夫家の氏とせねばならぬ場合はどう示すか」との伺があり、同年11月9日、内務省は判断に困り太政官伺を出した。その結果、明治9年(1876年)3月17日の太政官指令として、他家に嫁いだ婦女の苗字は「所生ノ氏」つまり婚前のものとするが、但し夫の家督を相続した後には「夫家ノ氏」とする旨が参考として示された[3]。なお、現在と同じ夫婦同氏の原則に転換したのは明治31年(1898年)に明治民法が成立してからである。
明治になって名字を届け出る際には、自分で名字を創作して名乗ることもあった(たとえば与謝野鉄幹の父礼厳は先祖伝来の細見という名をあえて名乗らず、故郷与謝郡の地名から与謝野という名字を創作した)。僧侶や神官などに適当につけてもらうということもあった[4]が例は少ない。
我々は昭和・平成そして新元号の三代を生きることになるのであります。新天皇は若いから四代生きられる方がこの会の中から出てくるのか?天のみぞ知る。
どんな年号となるのか興味津々でありますが、
私は、単なる「感」に過ぎませんが新元号の中には
「正」の字があるように思っています。
正仁、せいにん、とか、仁正、にんせい、或いは
正紀、紀正とかですね。
さて、日本の年号は何時から始まったのかご存知ですよね。
最初の年号は、大化の改新からです、だから
大化元年、皇極天皇645年です。平成まで幾らあるのか数えてみました。
天皇は平成天皇で125代ですね。
年号数は、何と、162目となります。
金が発見されて瑞祥として改元し金銅、とか天変地異とかで改元しています。
私は、天平勝宝とか天平文化のこれが好きですね。
皆さん、神武天皇とか後醍醐天皇とか、昔は、亡くなられてから追贈しました。それを「諡号」「しごう」と言いますね。元号は大化の改新以後開始です、それまでは「大君」「大王」とか言っていたのでしょう。
神武天皇とか綏靖天皇とか、何時ころ、誰がつけたのかと申しますと。
奈良時代からです。淡海三船という元皇族、
淡海三船
奈良時代後期の文人。天智天皇の4世孫。
初代神武天皇から第44代元正天皇までの全天皇(39代弘文天皇と42代文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進しています。
はじめは御船王。天平年中に出家して元開と称す。
751年(天平勝宝3年)、勅命により還俗、淡海真人の姓を賜る。
延暦4年7月17日(785年8月30日)逝去。
2. 苗字に関して
姓氏、苗字のことです、日本は大国です。
天皇には姓はありません。日本の大元だから。
日本の苗字は実に多種多様であります。その数30万。
韓国の姓氏は250氏、中国は3500氏です。
姓の一文字姓は中国発祥で韓国も多い。金、李、朴とか。
日本の代表的一文字姓は秦氏です。中国由来です。
それが羽田、とか波多とか波田とかに増えています。
他には、
王、呉、林、調、高、工、勝、原、とか
これは「新選姓氏録」815年に見えます。
平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。
日本国は、本当に大切に記録しておりますね。
さて、現実に戻ります
3変動する世界
私は、地球とか宇宙の本質は「変化」だと認識しているものです。この世のものは全て然り。
人間の体でさえ、この一呼吸する度に変化している。
地球に存在しているものは常に変化してやまない。
人間の心など「とめどなく変化」する代物。
前回、終戦直後のアメリカの持つ金塊が世界最大となり金を背景にしてドルが最強の通貨となったと申しました。
それが28年後、アメリカが疲弊し、ニクソンにより金兌換廃止、ドルはペーパーマネーとなったと申しました。
挙句の果て、リーマンショックでアメリカ中国共々大量のマネーを刷った。日本も例外ではない。
大体、物事は、変化の原理を洞察すれば、
一世代は30年も天然ものも、人口ものも30年0年が一世代です。
日本も国債がを大増発している。
オリンピック、終われば大阪万博、そして「間もなく南海大地震」、そして団塊世代の本格的後期高齢化と医療保険の増大。国債は増えるでしょうね。
世界はペーパーマネーの洪水となり、世界の企業個人の借金は天文学的1京8500兆円、アメリカの大学生のローン5000兆円の69%が延滞。とも申しました。
中国の企業債務2000兆円が導火線となるのか、
この中で、日本の企業も大銀行も体質は世界の中で優位にある。28年間日本は世界一の対外債権純保有国。
これはアメリカに狙われている、ロスチャイドとか欧米の屋台骨を支えている連中が狙っているのが過去の実態でした。
日本は狙われている気がする。
この世界の事態は正攻法では解決しないでしょうね。
間違いなく何らかの切っ掛けで破局に到るのではないか。
現実は中国の台頭、
米国と中国の世界覇権闘争の様子になってきました。
アメリカの対中強硬姿勢は、世界覇権闘争とリンクしているから「新冷戦」、
否、決着をつける最終戦争へと向かうのか、
私は習近平は狙っていると思う。
日中の対談実現したかせ尖閣には原潜やら軍艦やら、漁船にカムフラージュの海軍漁船が出没している。
中ロの共産主義体制と、アメリカ自由陣営の、対立が深刻化している。
二つの体制の決着があり得るのかもしれない。
歴史は繰り返すと思える最近の欧州事情ですが、
人間は「歴史の知恵」を学ぶことができるのか、懸念を持って観察しています。
3.日本の歴史的回顧
現在、第四次産業革命突入とか言われる。
最近の手法で言うと、4k、歴史をその手法で見ると
k-1は江戸時代でしょうか。
内戦を完全に封じ込め平和を維持した、徳川家です。
k-2は明治時代、革命的に包括的に近代化を成功。
k-3は敗戦したどん底日本だが、国の弱点を強みに変えて、今日、日本は戦後世界の大成功国であります。
総合的に見れば、日本が最大の勝利者かもしれない。
A1が人間の頭脳を追い越すと言われています。
そのシンギュラーポイントが2045年だと言う学者がいます。
私はA1が自律的になる事は無いと思っていますが・・・
k-4で成功する為に日本は、
どうしたら良いのか、日本はまだ準備が出来ていない。経済ではない、
中国の危険な台頭と、朝鮮半島問題は、日本にとり死活的な問題化となりつつある趨勢を感じるのであります。
現状を私は申し述べておりますように「北朝鮮問題」と認識しはておらないのです。正に「朝鮮半島問題」あります。
習近平は、確信的獰猛的意思で以て、中国製造2025、先端産業で世界の主導権を握ろうとしています。
A1による世界基準の世界制覇・中国化を押し進めています。
日本は、特に北海道を中国進出拠点としているやに私は見ます
既に、日本は「移民大国」、中でも人口輸出を図っている中国の凄まじさを肌で感じなくてはなりません。―――在日中国人の現状 新聞切り抜き
その対応、どうすべきか。
軟弱で、平和ボケの戦後日本は、日本人なら何とかすると思っていては手遅れです。
大臣があの程度ですから、困ったものです。
新しい日本を始めねばなりません。
内外の歴史的大変化が到来しつつあります。
日本はどうあるべきでしょうか。
日本は、どう進化したに良いのか。
1 同盟による抑止は限界です。
これは来年一月の例会で披露したく思います。
平成30年12月3日
鳥取木鶏会 会長 徳永圀典