途上に終った政治改革

太子の政治改革の評価

聖徳太子は冠位制、十七条憲法、さらに暦日の制定など、重要な内政改革を僅か三年の間に行われました。これらの改革について具体的な改革の形跡がみられないことから実行面における不徹底さを指摘し、改革は形式的なものにすぎないとして太子の無力さや優柔不断さを批判する学者もいます。

しかし、蘇我氏の勢力圏内にあった太子の立場を考えれば現実的には漸進的な改革を行うのが最も賢明で確実な方法だったのであり、太子の改革を無力なものと批判するのは正当な評価とは言えないと思います。

太子は未だ天皇権が弱体な当時の困難な政治情勢の中で、長期的な展望を以てまず政治改革を現実のものとするのに必要な精神面での改革を行われたのであり、当時として考えられる最大限の改革を行ったとみてよいでしょう。

いずれらせよ、太子は内政改革の基本精神を示された後、さらに外政の改革に着手するとともに仏教の浸透を図っていかれたのです。

 

「天皇の称号が使われた国書

太子は外政上の改革として隋と直接国交を開かれましたが、その狙いは仏教の興隆に資するためと遣隋使らに隋の国政を修得させ、わが国に集権的な国家体制を樹立する準備を進めることにありました。いわば、冠位制や十七条憲法と同様も中央集権的な国家体制を実現するための種蒔きを始めたのだと言えます。

従って、隋との直接国交による目に見える政治上の具体的成果は少ないのですが、注目すべきことは、この隋との国交を通じて「天皇」の称号が生まれたことです。

まず、推古天皇の十五年、第一回遣隋使の小野(おのの)妹子(いもこ)らが携えていった国書の中の「()出処(いずるところの)天子(てんし)到書(しょを)日没処(ひぼっするところの)天子(てんしにいたす)」という字句が問題になりました。それを隋の(よう)(だい)が見て、日本の王と自分が「天子」と言う言葉で同列に扱われていることを無礼であると怒ったのです。

そこで、翌年の遣隋使が携えていった国書では太子が「東天皇(ひがしのてんのう)敬白(うやまって)西皇帝(にしのこうていにもうす)」という字句に改めさせたと言われています。隋の煬帝が怒ったので、怒らせないように「東天皇」と「西皇帝」という対照表現を使ったわけですが、それはあくまで隋と日本を対等以上の関係に置こうとする太子の外交姿勢から出たものでした。

この「天皇」号は外交上においてだけでなく、内政上においても非常に重要な意義をもっています。即ち、二度目の国書し「天皇」という称号が使われた最初の文献であることから、それまで「大王(おおきみ)」という言葉を使っていたのを太子がそれに代えて「天皇」号を初めて採用、使用されたと見られるのです。

実際、「天皇」という字句が銘文などに最初に見られるのは推古朝からです。しかもそれは、法隆寺の仏像の光背の銘文など太子に関したものにみられるだけで、ほかはまだ「大王(おおきみ)」という字句が使われているのです。
おそらく、「天皇」という称号は、外交上において天皇を隋の皇帝と対等以上の関係に置くというだけではなく、国内的にも、いわば王の中の王という意味で必ずしも大豪族との区別が徹底せず、かつ過去の垢にまみれた「大王」を排し、大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)以下の諸臣と一線を画した絶対的存在として位置づけるため太子が初めて採用・使用されたのです。

そして、「天皇」号は太子の側近がはじめて私的に用い、それが後の律令国家において公称として用いられるようになったのです。従って、天皇権確立、集権的国家の樹立という点において臣下と明瞭に一線を画する「天皇」号の使用開始は重要な意義がうったと考えるのです。

 

註 隋

  中国の王朝名、581-618年。初代文帝の時、陳を滅ぼして天下を統一、律令を定めた。604年楊広は文帝を殺して即位(煬帝)、大運河を完成し、西域を経略し長城を築いた。

  遣隋使

  607年、小野妹子が派遣されたのが始まり。「隋書」には600年に来朝の記事が見えるが、「日本書紀」には派遣の記事が見られない。小野妹子は608年にも派遣されており、この時、高向玄理(かむこのくろまろ)南淵請安(みなみふちしょうあん)(みん)らが随行した。

 

  小野妹子

  生没年不詳。近江滋賀郡小野の豪族の出。607年、推古十五年、聖徳太子の命で遣隋使として渡海。

 

遣隋使の航路

北路は朝鮮半島南岸沿い

1.   飛鳥→難波→博多津→壱岐対馬→→登州→青州→曹州→鄭州→洛陽→長安

南路は博多津から直接渡海

2.   飛鳥→難波→博多津→杭州北→鄭州→洛陽→長安

 

三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と「天皇記」

政治面の改革は一応、第三期で一段落したので、太子は次の第四期においては政治改革を実効あらしめるため、精神文化面の改革に精力を傾けられました。ある政治体制を定着させるには、その政治体制に相応しい精神文化がなくてはなりません。太子の構想では、それは主に仏教的な精神文化でした。

太子は自らの学究によって、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)という仏教の経典の注釈書を書かれていますが、これは日本の学問の歴史の上では重要なものです。経典の注釈を太子が自らやられたとは言っても「三経」全部を自ら注釈したかどうかはだいぶ疑問があります。然し、三経義疏(さんぎょうぎしょ)が一つでもなされたことは確かであり、太子の知見は非常な高いものです。しかも太子の注釈書では北朝系の北魏の仏教を中心とした国家仏教だけではなくて、南方系の仏教の注釈書も参考にされており、非常に巾の広い注釈を企図されていたと言えます。

言うまでもなく、太子はこうした仏教経典の注釈書を示すことで日本の仏教文化の発展を意図されたわけです。

また太子は「天皇記」以下の修史事業において、天皇と天皇に属する官僚たち、為政者たちの氏族関係を明記した史書を編纂されたといいます。これは、天皇の下に臣下として仕える官司を配置し、天皇を中心とした官司による集権体制を目標にされた太子が、その政治を支える精神史的な一翼として行われた事業と理解できます。

 

漸進主義的政治改革

聖徳太子は、その政治改革において、武力を使ってでも早急に改革を実現させるというような強硬手段を取られませんでした。あくまで漸進主義的な政治改革こそが太子の理想とされたところです、太子は色々と時機を見ながら改革を考え、機が熟すと一挙に必要な改革を穏やかに実行されました。そのようにして、太子は犠牲を少なくして着実に自分の理想とする国家を出現させようとされていたのです。

しかし太子が早く崩御になってしまわれたので、結果的に目に見える改革としては第三期にみられる政治改革だけで終ってしまいました。そのため、中途半端にみられることがありますが、決して太子が無能力で徹底した改革をされなかったわけではないのです。太子は長い目で徐々に政治改革を行ってゆく漸進的な立場で政治を執られていたのですから具体的成果が少なく見えるのは当然のことなのです。

 

短すぎた太子の生涯

太子は四十九才で崩御され、修史の完成が生涯最後の仕事となりました。そして太子の改革は、理想に向って遠大な構想を以て着々と進められたのですが太子が余りにも短命であられたため、遂に全理想は実現されずに終わったのです。

それでは途上に終わった太子の理想とは一体どのようなものであったのか。

先ず、中央集権的な法治国家を念頭に置かれていたことは疑いありません。その中央集権的な法治国家体制は先進国の隋を範として構想されていました、その国家の中心にあって主権者としての地位にあるのはあくまで天皇であり、天皇の下に官僚が忠実にその職務を実行してゆく体制を理想とされていたのです。もし、そうした太子の理想の国家が完成されたとすれば、それは古代的天皇制下における中央集権的な律令国家であり、それこそが聖徳太子の理想とされた国家像であったろうと考えます。

そして、聖徳太子が崩御された後太子の理想国家の一つの眼目であった集権的な律令国家体制はまず大化改新によって実現の端緒が開かれました。しかし、それはあくまで太子の理想の一面であり、今一つの古代的天皇制国家の実現という面は、壬申の乱後、はじめて天武天皇によって実現され、古代的天皇制国家が成立したのです。

即ち、太子崩御後約80年ほど経て漸く太子の理想であった古代的天皇制下における集権的律令国家体制が完成をみるのであり、それは天武天皇によって打ち出されたものであると私は考えるのです。