47講 天智天皇と天武天皇の出自

天智天皇と天武天皇の相克

時代を動かした天智・天武手天皇の異質性

大化の改新から壬申の乱をへて、ようやく日本は天武天皇によって天皇制下における中央集権的律令国家という形態をとるにいたりました。そして古代史上、最も波瀾に富み、内容が濃いこの激動の時期に、中心に立って歴史をリードしたのが中大兄皇子と大海人皇子、つまり天智天皇と天武天皇という強烈な個性でした。

そうであれば、両皇子の個性に焦点を当てることで、いままで見て来たのとは違った歴史の一側面が浮かび上がってくるかもしれません。

まず両皇子ですが、二人は全く異なる性格の持ち主です。その余りの違いようからして、私には一般に言われるように両者が同母兄弟であるとはどうしても思えません。両皇子の間には、その性格や政見の違いという以前にもっと根深い対立要因、即ち出自に起因した違いも考えるべきかと思います。もしそうした出自の違いと言うものが認められるならば、そこから両皇子の行動についても考えていく姿勢も必要でしょう。

いずれにせよ、両天皇の個性という面からその行動を考えておくことも必要です。まず両皇子が、どのような性格の持ち主で、どのように異質なのか、そうした性格の違いがどのように政治に反映しているのか。具体的なエピソードなどを交えてみていきましょう。

 

対照的性格の両皇子

中大兄皇子は蒼白きインテリと評されるような人物ですが、明敏である反面、内気で柔弱、静的な人だったのか、合理的な説得を受ければ容易に人に操られる傾向があったようです。またそうした性格の一面として誰かに頼らなければ何も出来ず、それでいて猜疑心の強い人のようでした。

それゆえ、鎌足のような権力欲旺盛で老獪な人物が側近として補佐しなければならなかったのです。逆に言えば、そうした性格の中大兄皇子であったからこそ、鎌足は中大兄皇子に目をつけたともいえるわけです。

鎌足は蘇我氏を打倒して中央政界に進出しようと企てたとき、はじめ軽皇子(孝徳天皇)に接近しています。ところが軽皇子はなかなか煮え切らず、鎌足の思うような人ではなかったのです。そこで中大兄皇子に乗り換えるわけですが、そのとき鎌足は「皇子(軽皇子)の器量、ともに大事を謀るに足らず、さらに君を選ばんと欲し、王宗を暦見するに、ただ中大兄のみ雄略英徹にして、ともに乱を撥るべし」と言ったといいます。

鎌足はこうした口説き文句で中大兄皇子を説得したのだろうと思われます。雄略英徹というのは、主として中大兄皇子の明晰・明敏さを評価したものとみられますが、確かに鎌足にとってコンビを組むべき相手は明敏である必要があつたのでしょう。中大兄皇子の明敏さは中国の文物を学びとり、その知識を基として古い制度や慣習をうち破ろうという進歩性に現れており、それし儒仏の思想に親しみ、唐の官僚政治家のようになろうとしていた鎌足と波長が合ったわけです。

処が、中大兄皇子に比して、大海人皇子は粗暴な振舞いがあり、強気で武骨、そして自意識の強い活動的な人物で、同腹の兄弟とは思えないほどに対照的な性格の持ち主だったようです。

そうした大海人皇子ですから、常に老獪な鎌足の意のままになっている中大兄・鎌足コンビを嫌っていたのは当然です。鎌足の方もまた大海人皇子を要注意人物としてマークし、そま隙をうかがうとともにコンビを組んでいる中大兄皇子の害にならないように両者の間に立って配慮したのです。

こう見れば、両皇子の個性のありようとその違いからくる相克が政局を左右する大きな要因であったことは疑いようもありません。

 

 

額田王をめぐる両皇子の関係

両皇子の恋愛上の相克

 

ここに中大兄皇子と大海人皇子との相克を伝えるいま一つの物語があります。

「万葉集」巻第一の十三番に「中大兄皇子(近江宮御宇天皇)三山歌」と題詞のある長歌がありますが、この歌によって若かりし日の両皇子に額田王という女性をめぐって三角恋愛関係が成立していたことが伝えられているのです。

時代はおそらく大化の改新以前と思われます。

ちなみに、「神皇(じんのう)正統記(しょうとうき)」・「皇年代略記」・「本朝皇胤紹(ほんちょうこういんじょう)運録(うんろく)」などに中大兄皇子の崩年は五十八才とありますから、没年から逆算して誕生は推古天皇の二十二年、614年となります。一方の大海人皇子は「一代要記」・「胤紹運録」に崩年六十五歳とあり、逆算して誕生は推古天皇の三十年、622年ということになります。この誕生年については異説もありますが、私は種々の要因から考えてこの年代が凡そ妥当かと考えています。そうであれば、クーデターの大化元年、645年当時、中大兄皇子は三十二歳、大海人皇子は二十四歳となります。異説では当時の中大兄皇子の年齢を二十歳とするものもあるのですが、それでは万葉集の両者の恋愛事情は成り立たなくなるのです。

さて、その三角関係においても、行動派で強引な大海人皇子が勝ち、ついに額田王は大海人皇子のもとに嫁してしまいました。そして、落胆した中大兄皇子がその後、孝徳朝のころ播磨印南野に遊びに出かけた折、詠んだ長歌が万葉集に残っているのです。歌は、神代から神々でさえ妻争いをしていねのだから人間である私が一人の女性の愛を得ようと二人で争いをしたのも仕方がないのだと自らの傷心を慰め、懐古しています。

一方、大海人皇子と額田王の間には、十市皇女が生まれています。十市皇女は成長して後に中大兄皇子の子・大友皇子と結婚しました。そして壬申の乱のときまで、この二人は近江の大津宮で仲睦まじくともに過しています。ちなみに、この十市皇女の誕生が大化元年以前とみられることからも、大海人皇子・中大兄皇子・額田王の三角関係は大化の改新以前の出来事だったと推定できます。

註 額田王

  生没年不詳。天智-天武、662-686年頃の女流歌人。鏡王の娘。はじめ大海人皇子のちの天武天皇に愛されて十市皇女を生んだが、のち天智天皇の妃となった。才気に富み、歌風は優麗で格調が高く、万葉集中に長歌三首、短歌九首がある。

  

本朝皇胤紹(ほんちょうこういんじょう)運録(うんろく)

  一巻。神代以来の皇室系図。洞院満季が後小松天 

  皇の勅命により撰進。1416年、応永23年に草稿がなったが後人の加筆がある。皇室系図として最も信頼されている。