神仏の現前的実在 鳥取文芸誌 平成28年12月発行に掲載さる
                                            鳥取木鶏会 会長 徳永圀典 

大峯奥駈(おおみねおくがけ)(みち)

紀伊半島の脊梁(せきりょう)をなす大峯山脈は近畿の屋根、全長100キロを越える山並みに途絶えることなく一筋の(そま)道が延々と続き大峯奥駈(おおみねおくがけ)(みち)と言われる中世からの日本最古の山岳宗教修験場がある。始点は吉野・蔵王権現堂、終点は熊野本宮大社。

この山脈の(せん)古斧(こおの)を知らぬ奥秘境へ足を踏み入れた10年前75才、鬼気迫る悽愴(せいそう)な気持ちに襲われた。森林と渓谷の測り知れ深さ、そそり立つ岩壁の物凄さ、高い湿度より生ずる陰湿、熊や毒虫の不安、(えん)の行者以来集積された畏怖すべき伝説などから(かも)し出される雰囲気が確かに存在する。
蔵王権現堂を出発、女人禁制大峯山頂寺宿坊に一泊、山脈(やまなみ)千米級の山々で紀伊半島の背骨、山岳宗教・修験道の聖地である。七(はく)かけ我々は奥駆道を極めた。四日目夜は太古(たいこ)の辻から前鬼(ぜんき)口「小仲坊」宿の主人は飛鳥時代(えん)の行者の二人の弟子、前鬼(ぜんき)()()の後鬼の末裔である()()(すけ)家61代目・五鬼助義之氏が当主だから驚嘆だ。以後は無人小屋、一日要歩行12時間。

(えん)の行者・(えんの)小角(おづぬ)は舒明天皇、634年頃の実在人物、わが国山岳修験道の開祖である。119代光格天皇は勅使を遣わし役の行者に「神変(じんぺん)大菩薩(だいぼさつ)(おくりな)を追贈された。この名前の素晴らしことよ!

修験道は大自然のもつ霊力を得るため、深山幽谷で苦しい修行を重ね験力(けんりく)を得るという。それは役小角以来の長い歴史の中で山岳宗教が生み出した一つの到達点であり日本人の精神的原点であろう。鬼気迫る、悽愴(せいそう)な気持ちに襲われるこれら()山々(やまやま)には神秘の霊力を肌で感じ、神仏の現前的実在を覚えるのは至極当然である。山岳宗教のそれが神であろうが仏であろうが、混淆であろうが私は少しも構わない。峻険な山岳で出会う心霊は神も仏も区別の必要はない。

熊野那智原生林

烏帽子山という那智原生林最高峰の原始林渓谷を探索しつつ下って行く、鬱蒼たる渓谷は昼なお暗く、谷の巨石・奇岩・大古木には苔が繁茂し不気味である。眼下の谷に樹林を通して滝が垣間見えた、三の滝と地図で確認。見事な滝、青く美しい!圧倒される渓谷美 !
やがて、ここより神域と墨書のある立札、一の滝・那智大滝の直上に近いのであろう。苔むした石を一つ一つ古木に掴まりながら下る、(たに)に降りて、ふと上流を見る、あっ、私は思わずひれ伏した。森厳にして峻厳な雰囲気の中、まるで仏様を思わす姿の御滝である。滝壺は広く、蒼い水を深沈と静かに湛えている。背筋に寒気を覚える荘厳な戦慄が走る!私はかって、このような衝撃を受けた滝を見たことはなく、思わず川原に(ひざまず)きひれ伏した、合掌した。霊威を受けて自ずから厳粛となり身が引き締まる。
(あお)い水を深沈(しんちん)と静かに湛えている滝壷。荘厳、厳粛、打ちのめされたような思い!!悠久の昔から静寂(しじま)の中にひそと(しず)まる(せい)の御滝。これは那智の二の滝に初めて触れたときの宗教的体験と言い得る。西行法師は如意輪観音の滝と申している。

宗教的悟得(ごとく)

これらの体験は、「存在としての人間」を超越した感情でありそれは宗教そのものであろう。これは、いかなる経典・言語より宗教的悟得(ごとく)が得られたことであり、大自然の神秘に「神仏の現前的実在」を覚えたからであろう。那智の滝を見て「アマテラスを見た!」と叫んだのはフランス人作家アンドレー・マルローである。大自然の威容は人種とか信仰を超えた存在である。そこから人間の持つ様々な感性を通じて諸々の宗教が発生するのではないか。

日本の秘境・大杉谷

だが、日本の秘境と言われる紀伊半島深奥部の大杉谷を遡行した時は風景に圧倒されたが、大峯山のようなものは受けなかった。何故か。大杉谷は日本の秘境であり、滝と(ぐら)と呼ぶ絶壁が連なり原始的景観を擁している。大杉谷は、明るい豪快な渓で、直線的に流れ、両岸の山壁は(すこぶ)る急峻、この渓へ落ち込む支谷の多くは吊懸(つりけん)(こく)、これは青壮年期の谷の特色で風景の雄深さ示すものである。渓を覆う原生林の美しさは幽遂を極めた針活混淆の喬木林、峡谷は絢爛豪快と華麗さのある浸食の様相を呈している。シシ淵は大杉谷の取りつきにあるが、ここら辺にはカシ類など常緑広葉樹を主林木とする低山特有の森林が繁茂。苔むした水成岩の屏風岩が両岸にそそり立ち、その上流には滝が幽かに見られて幽玄、幽遂の風流が心にしみる。淵の水は魅惑的な瑠璃色、だが宗教的雰囲気を感じない。

清貧の思想

山岳宗教は登山と同根であり、肉体と精神を厳しく鍛錬し、質朴を希求する。己の心と身体しか頼る存在のない奥深き山岳にあって、人間の五感を研ぎ澄まし、全身で大自然を感じ、全身で思索し生存適応力を磨く山岳登山。そこから自ずから心身の自然融合力が付加され、生命力、哲学、精神力を培う。

そこには現代人に欠ける「物的豊かさと浪費を敢えて拒否する」という過去の日本人の理想でもあった「清貧の思想」に通ずるものがある。かかる意味においても登山の肉体鍛錬は現代的価値がある。静謐なる深山(しんざん)の諸々の神秘に畏敬を抱く私は、大自然の懐にあって、母なる神々に同化と化生(かせい)を願っているのかも知れない。  完