安岡正篤の言葉   徳永圀典選 平成2812

 

茶は人生と同じ、甘味あり渋味あり苦味あり

 

第一煎  芽茶 

 その浄境に栽培された茶の良い新芽を摘んで作るのだから芽茶である。茶はそもそも煎ずるものである。湯加減を良くして、その芽茶を第一煎で、中に含まっている糖分の甘味を賞する。

第二煎 渋味

 次に第二煎で、茶の中のタンニンの持つ渋味が出てくる。子供は皆甘いものが好きである。人間も未熟な者を甘いという。それが色々と生の経験を積んでくると渋くなる。しかし、渋いというのは甘いの反対や相克ではない。甘さが内奥(ないおう)に溶け込むのである。現にタンニンを分解すると、カテキンという甘味が抽出される。

第三煎 苦味

この茶をほどよく三煎すると、初めて苦味が出てくる。化学的に言えば、カフェインと所為である。これは中枢神経に働いて睡気を覚まし、心気を爽やかにし、強心利尿によって疲労を救う。人間もこの苦味が出てこなければならない。

芽茶苦茶

 良薬は口に苦い、苦言を好むほどの人間でなければ話せない。もっともその滋味秘訣を知らないで、いきなり折角の芽茶に熱湯を注いで、甘いも渋いもなく、苦々しくしてしまうのが「芽茶苦茶」である。目茶苦茶ではない。それは茶を無にするものであるから「滅茶」、「無茶」というのも当たっている。

無味

 さて、甘い・渋い・苦いは畢竟偏味である。その至極は、もはや甘いとも渋いとも、苦いとも、何とも言えないうまい味である。例えば、老子には、それを「無味」という。無味とは「味が無い」ではない。「偏味でない」ことである。何とも言えない、うまい味のことである。

 

君子の「淡」

 これを別にまた「(たん)」という。(あわ)いとは味が薄い、味が無いということではない。「君子の交わりは(たん)として水の(ごと)し」(荘子)とは、水のように味が薄いということではない。水のように何とも言えない味、それこそ無の味ということである。事実、人間、皆死に臨んで水を欲する。末期(まつご)の水である。末期(まつご)にコーヒーや砂糖は欲しはせぬ。稀に豪傑の士にして酒杯を傾けて(おわ)った者もないではないが、あくまでも例外である。そこで古人が、(たん)(そう)とか(たん)(えん)とか(じょ)(すい)と号した所以がわかろう。          王陽明

 

 

茶飲み友達 

 世間で茶飲み友達なんて、夫婦が年をとって色気も何もなくなり、それこそ淡々として茶でも飲んで語り合うというような、ほんのあっさりした交誼という、極めて消極的な意味に解釈するのですが、本当の意味はそうではありません。茶飲み友達というものは、言うに言えぬ味のある友達交際のことであります。

 

 茶話という言葉もありますが、ほとんどの人が茶話という言葉を、あっさりした、大して意味のない気楽な話というくらいにしか考えておらない。けれども本当の茶話というのはそんな意味ではありませんで、大変深い、こくのあると言いますか、意義の深いものという言葉であります。

 

 茶をすすって、しみじみと人生の醍醐味について話のできる仲、これが茶飲み友達、茶飲み話ということの真義です。生意気盛りの娘や息子ではとてもわからない。人間あるところまで苦労を積んで渋いところも出て、人生の醍醐味、人間の至れる境地に達して初めて茶か飲める、茶話ができる。茶飲み友達になれるというわけで、非常に味のある言葉です。

            十八史略