徳永万葉葉 その三 

万葉集は、日本古代史の勉強にもなります。

今回は、有馬皇子の悲劇の歌、時は斉明天皇4年、西暦65811月のこと。複雑な事件で一言では言えませんが、簡単に言えば、あの中大兄皇子が孝徳天皇の遺児・有馬皇子を抹殺しようとした事件。

その為に、仕掛けて謀反を起させて逮捕した。

中大兄皇子の母は、斉明天皇。その時、斉明天皇は白浜の温泉、牟婁の湯にいらした。有馬皇子は現行犯としてそこへ連れて行かれる。

和歌山県の岩代という辺にこられた有馬皇子、日高郡南部町です。

有馬皇子「みづから(いた)みて松が枝を結べる歌」とあり

  磐代(いわしろ)の 浜松が()を 引き結び

     ()(さき)くあらば また(かえ)り見む 

                (2-141)

今一つは、

  家にあれば ()に盛る(いい)を 草枕

     旅にしあれば 椎の葉に盛る

                (2-142)

()は食器。逮捕されたのは大逆罪。逆境をしみじみと感じた。19才の青年、家にあれば、旅にしあれば、とはリズミカルで音楽的。

 

さあ、その後、有馬皇子はどうなったのか。

許されたのではない、だが帰れと言われる。そして追って殺された。「みずから(くく)らしめぬ」。

中大兄皇子の生存中の壬申の乱までの頃は、有馬皇子を悪く言われたのですが、反中大兄皇子=天武天皇時代となると、同情に変わるのです。この事件の43年後、大宝元年、701年には、文武天皇とお祖母さんになる持統天皇とが、白浜の温泉に来た時、万葉集には有馬皇子同情の歌がズラット並んでいる。江戸時代末まで続く。

明治からは、何と言っても、中大兄皇子のした事、中々言えなかったのです。正に、歴史は勝者の歴史です。

現在は自由となり、万葉集を読んだ人は、みな有馬皇子に同情する。19才で非業の死を遂げたのですからね。

それで、万葉集の好きな人は、和歌山の岩代の海をよく訪れる。私もそうであります。

景色のいい所でしてね。南部、梅の産地です。 

有馬皇子には、他にどんな歌があるのか。 82 

悲劇の人有間(ありまの)皇子(みこ)後世同情論  
平成20年3月

      推敲「悲劇の皇子たち」        

それらの歌からは、悲劇の皇子としての彼らの姿が彷彿として浮かび上がってくる。有間皇子は孝徳天皇の皇子である。 

孝徳天皇は政治的な基盤が弱く、斉明(皇極)女帝や中大兄との関係では常に不本意な思いを強いられていた。皇子はそんな父帝の姿を眼にし、子どもながら悩んだに違いない。

孝徳天皇が死ぬと、有間皇子は政治的には孤立状態に陥った。

成人した皇子は、権力関係の中で自分に与えられた地位を自覚し、身の危険を感じるようになったにちがいない。

ハムレットのようではないか。そんな有間皇子を、斉明女帝と中大兄は煙たいと感じたのだろう。蘇我(あか)()に狂言を仕組ませて皇子を罠にはめ、抹殺したのである。   

日本書紀には「性(さと)くして(よう)(きょう)す」とある。性格がわからず、狂った真似をしたという意味だろう。おそらく自分の身を守るための演技だったと思われる。

斉明天皇らが紀の湯に出かけている間、赤兄は皇子をけしかけて謀反の企てを図る。皇子がその話に乗ったところを見届けると、赤兄は皇子を捕らえ、天皇に引き渡した。

これが事件の概要だが、あくまでも天皇方の視点から書かれたものであり、どこまで真実を伝えているかは定かでない。
 

孝徳天皇有間皇子は難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)即ち孝徳天皇と左大臣阿部倉崎麻呂の(むすめ)                                   小足媛(おたらしひめ)との間の子である。大化の改新により帝位は皇極天皇の弟、軽皇子に譲られ孝徳天皇となり帝都は難波に遷宮された。

その九年後、帝都は再び飛鳥に遷され一同引き上げたが孝徳天皇は応じられず難波においとけぼりにされた。この時、中大兄皇子は孝徳天皇の皇后であり自らの妹である間女(はしひと)皇女を奪って行かれた。
これが原因で天皇は崩御され再び皇極天皇が斉明天皇となられた。これは全て中大兄皇子と藤原鎌足の策謀とされる。
 

陽狂(ようきょう)

飛鳥板(あすかいた)蓋宮(ぶきのみや)は炎上、川原宮
に遷るが再び炎上、これは中大兄皇子らへの怨嗟の表れであろう。そうなると反中大兄派の空気は自然と有馬皇子へと集まる。

悲劇の真因

有間皇子は黙さねばならなくなる。
  斉明天皇3年頃、有間皇子は偽って発狂を装われた、日本書紀はこれを「陽狂(ようきょう)」と記している。有間皇子抹殺悲劇の真因はここにある。

有間皇子は病気と称して牟婁の湯(白浜湯崎)に行かれた。
斉明天皇4年、斉明天皇最愛の孫、(たけるの)皇子(みこ)
    が八歳で亡くなり斉明天皇は落胆されて中大兄皇子と共に牟婁の湯に静養する。飛鳥の留守居は()(がの)(あか)()であった。

当時、生駒山東南の(いち)()(現在の一分)におられた有間皇子は113日、偶然に飛鳥の赤兄を訪ねた。時局の話となり赤兄が中大兄皇子の失政を三つあげた。

これに乗ってしまったのが若い有馬皇子。 

陥穽(かんせい)

赤兄の挙げた三つの失政とは「大いに倉を建てて民の財を積みあつむ。これその一つだ」、

「長く()()を掘りて公の財を(そん)()す。これその二つだ」、

「船に石を乗せて運び積みて丘となす。

これその三つだ」と。 

現行犯逮捕

11
5日、飛鳥で再会、策戦計画を練る、有間19才の青年である、「兵五百もあれば牟婁の湯は袋の鼠」と真剣になる。

その時、有間のおしまづき((ひじ)かけ)が折れたので縁起悪しと、この話は無かったことにして後日にと別れて市経の家に帰ると、追手の(えの)井連(いのむらじ)(しび)が家を囲んで現行犯逮捕、牟婁の湯へと護送される。筋書き通りの結末であろう。 

護送中の歌

現在の和歌山県日高郡南部町西岩代の海岸辺りで囚われの身となった有間皇子の詠んだ歌。
        有間皇子、みづから(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首

磐代(いわしろ)の 浜松が()を 引き結び ()(さき)くあらば また(かえ)り見るむ」 巻二の百四十一

代表的な歌
「家にあれば ()に盛る(いい)を 草枕 旅にしあれば (しい)の葉に盛る」巻二の百四十ニ
                                               

有間皇子が中大兄皇子の訊問を受けたのは119日、故にこの歌は658年のその日である。岩代海岸から白浜の瀬戸崎も展望できる。

死は覚悟とはいえ覚悟していた死であろうが、思う壺にはまった嘆きは強まるばかりであったろう。          

1300年前の、19才の青年の心は、いかばかりであったろうか、千数百年の現在の人間の気持ちと変わらない。 

岩代の地
太平洋に面して黒潮の寄せる海岸である。西牟婁郡であり昔は熊野の国への入り口である。

岩石信仰の強い古代には「岩代」の地霊に対する敬意も絶大であった。私は白浜から那智までの海沿いの大辺路と言われる熊野古道を全部歩いたが、ここらから潮岬へは岩礁の露出が多い海岸である。 

松の精霊
松が枝を結ぶのは、生命力溢れる常盤の松に幣帛を結ぶのである。

松に触れることにより、生命力を祈願する。お赤飯の上に南天の葉を乗せるが、松は植物であるだけでなく生きた松の精霊なのである。 

家にあれば
日本の皇室は代々とても質素である。ご先祖伝来の質素、旅にお出かけの時も食器を携帯されなかった。折柄、椎の葉に盛る。旅愁という感情のものではない。
 

神様へのお供え
この歌の(いい)は、人間の食べる飯か神様へのお供えか色々説がある。大和の五条では、道祖神に椎の葉にのせてお供えするという。

飛鳥・稲淵では、1南淵請安忌(みなぶちのしょうあんいき)に、お赤飯を椿の葉に乗せてお墓に供えた。
やはり、()に盛る(いい)は神様へのお供えであろう。
 

口車の悔しさ

家であれば、赤兄の口車に乗らなかったら、食器に乗せてお供えするのに、「この囚われの旅で、土地の習俗に従ってする珍しい習慣のお供え、改めて口ぐるまに乗った悔しさがこみ上げてくる」の心境であろう。 

風土の力

風土により民族性は培養される。砂漠の民と農耕民族、狩猟民族と夫々違った性質の人間を生む。風土の持つ力と言ったものである。この歌も風土の力が作用していると思われる。 

訊問への答え

有間皇子は中大兄皇子の訊問を牟婁の湯で受けたが、「天と赤兄と知る、吾もはや知らず」と言われた。皇子の名言である。有間皇子は、ここで殺されるかと思ったら、中大兄は「帰れ」と言った。 

自ら(くび)れて死

有間皇子は歩いて帰る途中、現在の海南市藤白坂で、後ろからついて来た追手、丹比小沢連国襲(たじひのおざわのむらじくにそ)によって囲まれ、自ら(くび)れて死なれた。牟婁から離れ、飛鳥へはまだ遠い旅の中途であった。時、1111日、19才。 

有間皇子同情論

中大兄皇子時代では有馬皇子は大逆犯人であろう。だが、壬申の乱以後、天武・持統天皇・文武天皇時代となると時勢は変化し有間皇子同情時代となっている。

持統天皇

持統天皇は690-696年の在位であるから大化の改新後十年くらいから有馬皇子同情時代となっている。 

長忌(ながのいみ)()()()麻呂(まろ)

持統天皇時代の彼の、結び松を見て(かな)しび(むせ)ぶ歌二首。「磐代(いわしろ)の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも」巻二の百四十三
「磐代の 野中に立てる 結び松 (こころ)も解けず いにしへ思ほゆ」巻二の百四十四。
結び松が言い伝えられていて後代の人の同情を新たにしていたことが理解できる。
 

事件後43年の歌

文武天皇時代は事件後43年、大宝元年,701年である。天皇と祖母の持統太上天皇とが牟婁の湯に行幸した時、人麻呂歌集に「結び松を見る歌一首」。

「後見むと 君が結べる 磐代の 子松がうれを また見けむかも」     巻二の百四十六 

同情の歌  

「藤白の み坂越ゆと 白妙の わが衣手(ころもで)は 濡れにけるかも」 巻9-1675

同情の歌だが、これは天皇行幸の時の供奉の一人の歌ったものである。

山上憶良も同情歌      (とり)(はな)成す あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らぬ 松は知るらむ」 巻2-145

と人には分からぬ皇子の魂魄の浮遊を描いて深い同情を寄せている。

江戸時代の名所図会(ずえ)

松に因んだ歌が数十首掲載されている。旅人が歌作している図がある。明白に歌枕となっていた。この事件はタブーであった。現在は自由に語り泣くことが出来るようになった。時勢や歴史はこうして移ってゆくものなのか。  

有間皇子を偲ぶ岩代

寂しい岩代の駅を降りて、海岸の丘、岩代王子社跡に立ち、瀬戸崎を願望し、小松の下に大洋の波の逆巻く景を見つつ、有間皇子の心を思う人が多くなった。