蘇我氏の政略

平成27年12月

1日 蘇我氏の政略 仏教の浸透とともに蘇我氏の勢力も根を張っていきますが、それと並行して蘇我氏は朝廷内における政治力を着々と増強しました。欽明朝において蘇我稲目(いなめ)大臣(おおおみ)として最高執政官の地位を確保しただけでなく、その(むすめ)たちを妃として天皇家に送り込むことで外戚としての権威をも獲得したのです。
2日 物部氏を圧迫

稲目の子・馬子が大臣として継ぐころになると、蘇我氏は天皇を巧みに利用して実権を掌握し、物部氏に圧迫を加え、しまいには正面からその追い落としを画策するまでに勢力を拡大しました。

3日 帰化系氏族たちを糾合した蘇我氏 こうした蘇我氏の勢力の伸長・拡大の背景は、蘇我氏が帰化系氏族たちを糾合したことや天皇家の外戚となって天皇の権威を巧みに利用したというほかにも、旧来の支配体制を改革することによって、旧支配層の支配基盤を切り崩していったという点も見逃せないでしょう。
4日 旧氏族の支配基盤を弱体化させた蘇我氏

仏教の流布は神祭的な血縁共同体を核とした旧氏族たちの精神的紐帯(ちゅうたい)にくさびを打ち込み、また蘇我氏が導入する新しい統治方式は、血縁・地縁で結びついていた氏族制度社会にくさびを打ち込み、次第に旧氏族の支配基盤そのものを弱体化させていったと考えられるのです。

5日 自分の勢力を維持・拡大した蘇我氏

例えば、中央の有力豪族たちは、それまでの地方豪族を通じて地方支配を行っていました。()(どころ)と言われる豪族の私有地が地方にありましたが、そうした田荘の支配だけでなく、皇室領である屯倉(みやけ)についても、実質的には中央の有力豪族が地方豪族を田令(たづかい)に任命して朝廷の下級官吏として組織化し、その田令を支配下におさめることで自分の勢力を維持・拡大していたと見られるのです。

6日 旧豪族層の力を弱めた蘇我氏

蘇我氏はこうした地方豪族を利用した間接的な支配体制に対し、中央から派遣した官人に命じて人民を戸籍に登録させ、その戸籍を基にして直接的な地方支配体制を構築していきました。一面では、こうした支配体制は地縁・血縁に依存した支配ではなく、合理的ないわば律令体制に通じるような支配形態といえ、旧来の氏姓政治社会を基礎とする旧豪族層の力を弱める方向に作用したのです。

7日 註 
蘇我稲目
蘇我稲目
--570年、古代の中央豪族。高麗(こま)の子という。宣化天皇のとき大臣(おおおみ)となる。仏教が伝来すると、稲目は廃仏派の物部尾輿・中臣勝海らに抗して崇仏を説き、自邸を向原寺(むくはらでら)と称し、また娘と孫を欽明・用明両天皇の妃として皇室と姻戚関係を固め、勢を得た。
8日 田令

田令(たづかい)
大化前代の皇室直轄地たる屯田(とんでん)の事務を司るもの。田部より上納する租税を管理し屯倉(みやけ)に収納するもの。

9日 戸籍

戸籍
古くは「へじゃく」という。律令制下で班田収穫や氏姓決定などの目的を持って六年ごとにつくられた。戸を単位とする人口台帳。家族の性別、家族の性別・年齢・課不課の別、受田額などを記載した。

三輪(みわの)(きみ)(さかう)殺害事件
10日 対立の表面化 仏教受容や統治方式をめぐって次第に蘇我・物部両氏の間の緊張が高まりました。対立が表面化してきたのは、()(だつ)天皇の崩御の前後で、「備達天皇紀」148月条には、そうした両者の対立を象徴する次のような記事がみられます。備達天皇が崩御されてその(もがりの)(みや)(しのびごと)をたてまつる儀式が行われた時のことです
11日 守屋と馬子 蘇我馬子(そがのうまこ)宿(すく)(ねの)大臣(おおおみ)が太刀を帯びて(しのびごと)を奏上したところ、それを見ていた物部(もののべの)弓削(ゆげの)守屋(もりやの)大連(おおむらじ)(尾輿の子)は、「まるで大きな矢で射ぬかれた雀ですな」と小柄な体に大きな太刀を帯びた馬子の不恰好(ぶかっこう)さをあざ笑った。
12日

しかし、次に守屋が手足を震わせながら(しのびごと)を奏上するのを見て、今度は馬子が笑いながら、「鈴をかけたら面白いでしょうな」と言った。こうして二人は互いに恨み合うようになった」

13日 三輪君逆

これは創作された話なのでしょうが、権勢を誇っていた両者の対抗意識が端的に表現された挿話といえましょう。そして、このように備達天皇の崩御のころを境に両雄の対立が表面化してきたとき、その対立の犠牲となったのが三輪(みわの)(きみ)(さかう)です。

14日 蘇我氏の陰謀か 「日本書紀」によれば、三輪君逆(三輪氏族は大和古来の有力豪族)は備達天皇の寵臣で、天皇在位中、大きな政治力を得ていたといいます。権勢を争う蘇我氏や物部氏にすれば、こうした前天皇の有力側近など早めに失脚させておきたかったでしょう。
15日 備達天皇崩御後

備達天皇崩御後、蘇我稲目(馬子の父)(むすめ)堅塩媛(きたしひめ)と欽明天皇の子である大兄(おおえの)皇子(みこ)が用明天皇として即位しましたが、備達天皇には外にも多くの異母兄弟があり、その中の(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)(母は蘇我稲目の女・小姉(おあねの)(きみ)、父は欽明天皇)は、自分が皇位継承者に選ばれなかったことに不満を持ち、殯宮(かりもがりのみや)にいた備達天皇の皇后・(ぬか)田部(たべの)皇女(みこ)(炊屋(かしきや)(ひめ)・後の推古天皇・堅塩媛(きたしひめ)欽明天皇の女で用明天皇の同母妹に当る)を犯そうとします。

16日 馬子 しかし、これに対し三輪君逆が殯宮(かりもがりのみや)の門を屈強な兵「隼人(はやと)」でかため、(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)(さえぎ)ったのです。怒った(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)は、大臣の馬子と大連(おおむらじ)の守屋へ、「逆は実に無礼な奴である(ちゅう)して、自分一人で朝廷を治めていけると言っている。
17日 多くの皇子がいて、大臣と大連もいるというのに、そのようなことを言うとは無礼このうえない。しかも、私が殯宮(かりもがりのみや)の中を見ようと七度も「門を開け」と命じたのに応じない。
18日 逆を斬りたい馬子と守屋

なんとしても、逆を斬りたい」と誹謗したのでした。これに対して馬子も守屋も、「皇子の言われる通り」らにと同意します。

19日 そこで、(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)は早速、守屋とともに兵を率いて逆のいた皇居を取り囲みました。逆は、それを知ると本拠地ま三輪山に隠れ、さらにその日の夜には額田部皇女の別荘に隠れました。
20日 密告でそのことを知った(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)は守屋に「逆もその二人の子も殺す」と告げ、これを受けた守屋は兵とともに逆殺害に向いました。処が、その後を追って出陣しようとしていた(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)の所に馬子がやってきて「王たる人が自ら行ってはならない」と諫めました
21日 守屋の手で殺害

(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)はこれを聞かずに兵を進めますが、馬子はそれについていき再度きつく諫めたので、ようやくとどまったのです。そしてその間に逆は守屋の手で殺害されてしまったのです。

22日 汚名を守屋にかぶせた蘇我氏

この事件によって前天皇の有力側近、三輪君逆は抹殺されたのですが、結果的にこここでも蘇我氏は自ら手を汚すことなく漁夫の利を得たわけです。それどころか、前天皇の寵臣殺害者という汚名を守屋にかぶせ、人望を失うようにしむけたのです。

23日 守屋対額田部皇女・馬子という対立

また、この三輪君逆殺害事件は、(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)と守屋の間を緊密にしました。そして、その一方で馬子は(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)に見切りをつけ用明天皇はもとより、(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)を恨むようになった額田部皇女との間を密接にしたのです。即ち、(あな)穂部(ほべの)皇子(みこ)・守屋に対し、額田部皇女・馬子という対立の構図がこの事件を契機に浮かび上がったのです。

24日 註 隼人 古代における南九州の住民。主として大隅・薩摩地方に居住し、容易に大和朝廷に服属しなかった。一部は早くから中央に移されて土着し、大和朝廷の儀式の際ま葛{門の警衛などに従事していた。
25日

争から武力衝突へ
仏教受容の戦略構想

崇仏か排仏かという問題は、当時の支配層にとっては単に宗教的選択の問題というのでなく、己の支配基盤の存続と密接に関係してくる由々しい問題でした。

26日 旧来からの有力氏族敗退

物部氏や大伴氏・中臣氏・忌部氏などの旧来からの有力氏族たちは、古来からの血縁共同体を基盤とした勢力です。彼等は、天皇家の祖先である天照大神以下の神々と自分たちの祖先神を結びつけた系譜をつくりあげ、皇統との血縁的擬制を以て自らを権威づけていました。即ち、彼等が支配層として存続できる所以は、彼らの血縁共同体が神々とつながる系譜をもつが故に尊厳ある地位にあり、その尊厳さを以て社会的・政治的に上位にいるのだと理由づけられるところにあるのです。

27日 仏教は蘇我氏にとって旧勢力の打倒と自勢力の伸長の道具

従って、彼らが(くにつ)(がみ)を祭るのは当然としても、彼らにとっても社会全体も国神を祭るシステムでなければ都合が悪いのです。国全体が国神を祭るという宗教体制が保たれていることで、自分たちの尊厳が保たれ、支配基盤も安定するという構造によって支えられていたのです。しかし、新興の蘇我氏のような帰化系氏族たちは、そうした伝統的な権威をまとうことは出来ず、むしろ旧勢力を支える伝統的な宗教体制は勢力伸長の障害とさえなったわけです。自然、彼らはそれに対抗して新しい宗教を広め、それによって旧勢力の支配基盤を崩していくと同時に、新しい宗教の流布で主導的役割を果たすことで勢力を伸長していこうとするわけです。仏教は蘇我氏にとって、明らかに旧勢力の打倒と自勢力の伸長の道具だったと言えます。

28日 蘇我氏の仏教浸透策 欽明朝における蘇我氏の棟梁・蘇我稲目は、仏教の公伝を画策したとみられるだけでなく、自らもその邸宅を寺とするなど、仏教流布に主導的役割を果たしました。また577年、百済から経綸・律師・禅師・比丘尼(びくに)呪禁師(じゅごんし)・仏工・寺工が渡来していますが、それね蘇我氏の受容によるとみられます。こうして584年には司馬(しば)(たつ)()(むすめ)・嶋が比丘尼となり、さらにその翌年に蘇我稲目の子・馬子は大野丘に仏塔を建立するなどしており、仏教が確実にわが国に浸透していったことがわれます。
29日 蘇我的崇仏系天皇の用明天皇

しかし、蘇我氏のこうした仏教浸透策が効率よく進展したのは、何よりも天皇家に妃を送り込み、崇仏派の天皇・皇子を輩出させたためです。とりわけ、敏達天皇後の用明天皇(母は蘇我稲目の女・堅塩媛、父は欽明天皇)は馬子を叔父とし、その皇后も馬子の姪である(あな)穂部間人(ほべのはしひとの)皇女(みこ)(母は蘇我稲目の女・小姉君、父は欽明天皇・つまり用明天皇の異母妹)であり、まさに蘇我的崇仏系天皇というべき天皇でした。仏教伝来以来、蘇我・物部を中心とした崇仏か排仏かの論争が続いていたのですが、この用明天皇が即位するに及び、もはや朝廷内における論争は蘇我氏が勝利したも同然です。しかし、論争の敗北だけで、旧勢力が退くはずもなく、用明天皇の即位とともに両勢力の武力衝突は時間の問題となったのです。 

 註 律師

   戒律に通じた僧。徳望の高い侍律の僧。

   禅師

   禅定に通達した師僧。中国、日本で、智徳の高い禅僧に朝廷から賜る称号。

   比丘尼

   出家して具足戒を受けた女子。尼僧。

   呪禁師(じゅごんし)

   まじないの事をつかさどり、また病を治療する。

30日 武力衝突までの経過 これまで述べてきたことを蘇我・物部氏の対立に焦点を絞り、補足を加えてまとめると、次ぎのような流れになります。蘇我氏は仏教という新しい宗教を百済から取り入れ、宗教論争を起こそうと企てました。蘇我氏は、仏教を持ち込めば神を信奉している物部氏が必ず仏教受容に反対するであろうと目論んで百済の聖明王から仏教を伝えさせたわけです。蘇我氏の予想通り、物部氏は「日本には八百万の神々がおられるのに、そこへ異国の神()を入れては、神々の怒りをかい、決していいことは起こらない。絶対に仏教を信仰すべきではない」と排仏の意見を述べました。それに対して蘇我氏は、わが意を得たりと、「仏教はアジア諸国がみな信奉している宗教であり、わが国でもそれを信奉すべきである。と主張し、両意見が真っ向から対立して衆議決しかねました。
その時の天皇は欽明天皇です。欽明天皇は両意見の折衷案を示され、信じたいものはいっぺん信じてみればよいし、信じたくないものは信じなくてもよい。それでやってみようではないかと言われました。こうして、取り敢えず物部氏は国神の信仰を従来通り行い、蘇我氏は寺を建立して仏像を安置し公然と仏教を信仰したのでした。
31日 物部氏の反撃はここまで

処が、次ぎの敏達朝の末、色々な自然現象の異常があっさたたけでなく、天然痘が発生して人民が多く死にました。守屋はこれを奇貨として「異国の神を信仰するからこうした不吉な現象が起こるのだ」と天皇に訴え、天皇もそれを認めて「仏法をやめよ」と(みことのり)したのです。喜んだ守屋は、早速、寺塔と仏殿を焼き、また焼け残った仏像を難波の堀江に棄てたり、尼を捕らえて法衣をはぎとり馬屋館(駅舎)で尻や肩を鞭打たせたりしたのでした。馬子は敏達天皇に交渉して「蘇我氏だけは仏法を行ってよいが他の人びとの崇仏は禁止する」とり詔を得て、からうじて自らの手に崇仏の火を残したのです。こうして、一時は物部氏にしてやられた蘇我氏ですが、物部氏の反撃はここまでで、敏達天皇がほどなく崩御され今度は用明天皇の擁立に成功した蘇我氏がいよいよ本腰で物部氏の追放に着手したのです。