安岡正篤の言葉 平成2712月 徳永圀典選 

絶えざる変化 若朽を防止するには我々は注意して絶えず何らかの新しい刺激と、それに基づいての精神的肉体的に活発な活動をしなければならない。この宇宙は大なる創造であり、変化であります。いわゆる造化です。絶えず何ものかを生み、そして千変万化してゆくのが宇宙の本然の姿であります。従って我々の精神も生命も、この宇宙の本体に即して、絶えず何かを生み、絶えず何らか変化してゆかなければならない。これが我々の生命・精神の本能であります。そこで私どもは生きる限り活発に常に創造的であり、常に微妙な変化が必要で、固定したり進歩が止まっては何にもならない。

                       祖国と青年 

死とは何ぞや

 死とは何ぞや。これほど人間に真剣な問題はない。その一結論として、「未だ生を知らず、(なん)ぞ死を知らん」という孔子の()()に対する答に私はおのづから(えり)(ただ)すものである。そうして「死とは何ぞや」の問題を「いかに死すべきか」の行動をもつて解決した古人、特に我々の祖先に無限の敬意を覚える。西洋の詩人・哲学者などが詳しく日本人の死の研究を行ったならば、彼らは、いかに驚嘆することであろう。武士道に限らず、およそ日本の国体・歴史・一切の文化は「死の覚悟」の上に成立っていると言っても過言ではない。                       東洋の心 

平素の覚悟

 日本民族の理想的精神は如何に生くべきかの問題について深刻な練磨を重ねた。如何に生くべきかは寧ろ武士の教えの如く、如何に死すべきかとした方が切実であろう。人は天晴(あっぱれ)な死を遂げむ為に、必然平素に於て死の覚悟がなければならぬ。何となれば天晴(あっぱれ)の死し絶対的価値の体現、即ち永生である。然るに死に臨んで忽ち狼狽するようでは静慮より発する知恵は光を滅して至尊なる価値を体認するよすががない。絶えず死を見つめるだけの余裕があって、始めて不朽の価値ある死に就くこともできるであろう。            士学論講