美しい心の古典12月 日本の歌「蕪村・一茶・良寛
平成18年12月
1日 | 与謝蕪村 |
蕪村は芭蕉の死後、平俗に落ちいっていた俳諧の復興に努め天明期俳諧の中心となる。1716-1783年、摂津(大阪)の毛馬村の農家に生まれた。姓は谷口、後に与謝と改めた。 |
35-6才まで放浪の旅を続け、絵と俳諧の修行を積む。作風は客観的、絵画的、印象的なものが多い。池大雅と共に文人画の大家でもある。 |
2日 | 蕪村の俳句 春の句 |
菜の花や月は東に日は西に |
太陽は西に傾き、菜の花畑はときめくばかりの美しさだ。月は東に昇って菜の花畑との見事な対照。 |
3日 |
春の海終日のたりのたりかな |
のどかな春の海辺、波が一日中ものうげに寄せては返しているよ。 |
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4日 |
ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ |
けだるい晩春の頃、持っている琵琶がとても重たく感じる。 |
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5日 | 夏の句 |
さみだれや大河を前に家二軒 |
五月雨どきの凄まじい大河の流れ、土手には心細げに家が二軒、寄り添うように建っている。 |
6日 |
夏河を越すうれしさよ手に草履 |
橋のない川を渡るのに、なんらのためらいもなく草履を手に持ち川に入る。冷たい水が心地よい。 |
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7日 | 秋の句 |
四五人に月落ちかかるおどりかな |
夜更けになっても無心に踊る四・五人の人々、傾いた月光が長い影をつくつている。 |
8日 |
月天心貧しき町を通りけり |
名月が中天に輝く夜ふけ、寝静まった貧しい町を通りかかっている。 |
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9日 |
去年より又さびしいぞ秋の暮 |
年をとると友も次々と死ぬ、去年よりも寂しい思いが秋には強くなる。 |
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10日 | 冬の句 |
こがらしや何に世わたる家五軒 |
木枯らしの吹き荒ぶ田も畑もない山間の地に家が五軒、あの家の人たちは何を頼りに暮しているのだろう。 |
11日 |
斧入れて香におどろくや冬木立 |
枯れ木だと思って二・三回斧を打ちこんだら、むせる様な木の香りには驚いた。葉を落としても木の内部は生命に満ちているのだなあ。 |
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12日 | 小林一茶 |
一茶は文化・文政期の代表的な俳人、弱い者への同情やユーモアーに富む多くの句を残している。 |
き五十二歳で結婚したが、子や妻に先立たれるという不幸の中で生涯を終えた。不運の連続であったが、一茶は率直に見つめ、弱い者への同情やユーモアーを終生失うことなかつたが、それが独特の作風を持つ句となった。 |
13日 | 春の句 |
目出度さもちう位也おらが春 |
世間なみとはいかないが、まあまあめでたい正月であることだ。 |
14日 |
雀の子そこのけそこのけお馬が通る |
道ばたで遊んでいる小雀よ、お馬が通るから早く逃げて行きなさいよ。 |
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15日 |
我と来て遊べや親のない雀 |
親のない雀よ、さびしいだろう、私も親のない身だよ、一緒に遊ぼうよ。 |
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16日 |
雪とけて村一ぱいの子どもかな |
雪解けと共にも家に閉じ込められていた子供たちが飛び出して来た。村には子供がこんなに一ぱいいたのか。 |
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17日 | 夏の句 |
蟻の道雲の峰よりつづきけん |
アリの行列が長く続いている。この行列は、あの遠い雲の峰から続いているのだろうか。 |
18日 |
やれ打つな蠅が手を摺り足をする |
ハエが手足をすって命乞いしている。打たないでやつてくれ。 |
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19日 | 秋の句 |
名月をとってくれろとなく子かな |
幼子が、目の前にあるように見える月をとってくれと泣いている。無邪気なものだ。 |
20日 |
露の世は露の世ながらさりながら |
露のようにはかない世の中とは分かってはいるが、(子供を亡くした今)、それにしても・・。 |
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21日 | 冬の句 |
是がまあつひ栖か雪五尺 |
五尺(150糎)もの雪に埋もれたこの家が、生涯を送る栖になるのかなあ。 |
22日 |
大根引き大根で道を教へけり |
大根を収穫しているお百姓さんに道を尋ねると、大根で方角を示して教えてくれた。 |
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23日 |
ともかくもあなた任せのとしの暮 |
良かれ悪しかれ、あなた様(阿弥陀仏)の思し召しにお任せする、年の暮れだ。 |
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24日 | 良寛 |
1758-1831、越後の出雲崎の名主の家に生れる。22歳で出家し、岡山県・ |
子供にも大人にも「良寛さま」と慕われ愛情の細やかな純心で高潔な人柄であった。万葉集を愛唱し万葉調の歌を詠んだ。又、漢詩・書などにも独自の味わいを持つ、多才な人である。 |
25日 |
霞立つ 長き春日を 子どもらと 手まりつきつつ この日暮しつ |
のどかな春の長い一日、村の子どもたちと手まりをつきながら暮しましたよ。 |
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26日 |
風は清し 月はさやけし いざ共に 踊り明かさむ 老の名残りに |
風さわやか月は明るい、さあ共に踊り明かそう、老年の思い出として。 |
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27日 | 俳句が成立するまで |
室町時代、二条良基や飯尾宗祇により大成された連歌は、やがて、滑稽味を主とする俳諧連歌と言われるものになる。 |
江戸時代になり、松永貞徳の貞門派、西山宗因の談林派などにより、連歌最初の句(発句)を一句として独立させて作るようになり発句が文芸としての形をとるようになつた。 |
28日 | 「わび」「さび」と俳諧 |
この後に出た松尾芭蕉は、談林派の言語遊戯的俳諧にあきたらず、人生詩としての意義を俳諧に見出して、追求していった。 |
数度の旅を重ねたあと「わび」「さび」という文学理念を根本として「蕉風」と言われる方法で、芸術としての俳諧を完成した。 |
29日 |
芭蕉の死後、その多くの弟子たちによって盛んに作られたが、再び通俗的なものへとなっていった。 |
僅かに、天明期の与謝蕪村、文化文政期の小林一茶などが、それぞれの方法でユニークな作風を持った。 |
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30日 | 俳句の始まり |
明治になり正岡子規が、写生ということを主張して「俳諧の発句」から「俳句」という言葉を初めて用い、俳諧の革新を唱えた。 |
正岡子規は、伝統的な短歌・俳句に独自の写生感を導入したのである。歌誌「アララギ」句詩「ホトトギス」が歌壇・俳壇の主流を占めるようになった。 |
31日 | 明治の歌誌 |
「アララギ派―短歌」伊藤左千夫・長塚節・斉藤茂吉、中村憲吉 |
「ホトトギス派―俳句」正岡子規・高浜虚子・村上鬼城。 |