深層に変化の潮流か 平成12年12月5日 日本海新聞潮流に寄稿

正確には「日本人の意識の深層に変化の兆しか」と言う題目である。

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この10月の長野県知事選挙で作家の田中康夫氏が当選した。まさかと思う反面、
いよいよ日本の深層に変化の潮流が起きつつあるのではないかと言う思いであった。 同時に行われた東京都衆議院選挙では無所属の川田君の母親が民主党の管幹 事長の地盤にもかかわらず当選した。石原都知事、橋本高知県知事も同様の前兆 と見る。地方のこれらの現象をどお捉えるか。我が国は歴史に見る通り地方から変革 の波が起きる。

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つらつら思うに明治以来の我が国は西欧に追いつき追い越せであった。それは政府
も民間もである。追いつく為には先ず政府の役人に人材を持たねばならない。国をあ げて進むには官僚が力を発揮するのは発展途上国の要諦である。当時は貧乏であり 物の供給、即ち生産に第一義が置かれたのは当然である。国の基本政策は供給サイド に重点を置いた原理である。言葉を変えれば政治と官僚と銀行、大企業サイドに立った 政策である。製造業も銀行も供給サイドであり明治以来優位に立ち続けた。これは、こ の10年前まで続く。これが成功したのはご案内の通りだ。而も今日近くまで続いている。

B
今日近くと言ったのは理由がある。先ず、大企業はメーカーも銀行もどおやら大企業の
供給サイドに立った論理では最早やって行けないとの実感があり大幅に改善し消費者 サイドに立ちつつあると見る。消費者サイドに立たねば生き残れないのだ。これは環境 問題もいずれそうなろう。環境に配慮しない企業は生存が許されぬ事となるのは目に 見えている。

C
然しながら、政治と官が依然として供給サイドにいるのが現実だ。特に政治は国会が
不毛の論議で消費者無視の旧態依然としたものだ。欧米先進国の政治は消費者サイド に敏感である。日本の政治は鈍感でこの政治の消費者すなわち選挙民に対しての認識 が供給サイドのままで時代遅れなのである。今回の長野県知事選挙では自民党のみな らず各政党とも愕然としたであろうが、私はこれは国民の意識の深層に変化の潮流が 起きていると見た。この流れは国を変えてしまうかも知れない。

国民の意識は決して低く
はないのだ。消費者サイドの政治とは庶民感覚でいいのだ。一市民としての常識でいい のだ。生活者、即ち国民意識の政治や行政でなくてはならないのに現在の日本の政治 や官僚は依然として供給サイドにいるのだ。特定の業界とか会社の社長とかに依頼して 選挙の票を集めるなどできなくなっている。労働団体とか宗教団体でも同様になりつつあるのではないか。
先般、共産党幹部の子息が人間として父親や共産党を批判してい
たのはその好事例であろう。個人が成熟し一個人としての自覚が高まりつつあると私は 見る。単なる無党派層として見ていると大失敗するであろう。日本人はシンギュラーポイ ントに達すると一気に大変化してしまう国民性がある。

D
官僚はどおか。この百年に一度の大変革期に官僚の使命である行政律の保守のみ
ではこの難局は打開できないと既に国民は見切りをつけている結果が長野県知事選挙 だと思われる。この現象は全国に波及すると思われる。現在は決断の時代なのだ。官僚にはそれはできない。激動の時代と言うのに政治が恥ずかしいくらい遅れておる。又、 対応が不味く日本の新時代が切り開けないでいる。

E
要するに政治家とか官僚とか大企業の供給サイド論理の終焉の予兆と云えるのでは
ないか。現代の混迷は供給サイドから消費者サイドへと言う民主主義と個の成熟と無 関係ではなかろう。主権は民に在りが漸く国民の成熟と共に現れてきたのではないか。
政治は国民の為に在りという当然の事が明治百年にして現実化しつつある。この事に いち早く現実的かつ具体的に対処する政党が国民の大きい支持を得るのではないか。 旧来の手法は時代遅れとなりつつある。若い人達にまかせて激動の21世紀を迎えた い。国民は目覚めつつある。

       鳥取木鶏クラブ 代表 徳永圀典