日本の神様・仏様  平成12年8月1日日本海新聞潮流欄に寄稿
 
お盆月でもあり宗教についての一考察。
宗教の本質は心の救済だと思っている。一切は心より転ずであり本来、物質や形式に依拠するものではない。

1.平成5年2月2日、読売宗教講座で大阪仏教会会長の法話があった。仏教とはホトケとなる教えで然も生きながら仏となる事だと。生きて成仏するとは人格の完成状態であり人間らしい人間になる事だと。納得できる話だ。

2.前浄土宗宗務総長で僧侶兼作家の寺内大吉という方がいる。 宗務総長とは宗門行政の代表者である。このお方が数年前に言った。「私の 知性に言わせると極楽はない」と。勇気ある発言だ。宗門の反発を招いたのであろう、やがて辞職されたが半年後再任されてい た。多くの人は言う、人間は生きている時だけの事だと。みんな内心ではそう思っているのであろう。

3.瀬戸内寂聴という女性の僧侶兼作家がいる。彼女はあの世について「私は行った事がないので極楽があるのか無いのか分かりません」 と。現代的に率直で正直だから人気が高い。京都は嵯峨野の寂庵で法話を聴いたが明るく納得性が高く救われた思いを忘れない。爾来、 寂聴の説法はテープで聞いている。更に、お釈迦様は死後の世界について全く論じられなかった事、現世を精一杯生きる事がお釈迦様の教えである事、お釈迦様は葬式不要論者でもあったと続いた。現代人 は江戸時代と違い説法も納得性が高い要素となろう。

4.法悦という言葉は仏法を聞き恍惚となるような歓喜の状態を言うらしい。過去に永平寺でも比叡山座主の声明−ショウミョウ−を聞 いた時も感じなかったのに最近鳥取は玄忠寺のご住職の南無阿弥陀仏のお念仏に法悦を初めて覚えた。余程の修行をされたお方と拝察する。俗人と同じ生活では感動は与えられまい。宗教の話は読書により現代人は十分理解できる。非俗人的修行があってこそ宗教的指導力とか感化力が生ずる。道元禅師は天皇から与えられた紫衣を使用せず墨染めの衣で通したという。真の仏教者をここに見る。

5.某住職は法名も一方的でなく遺族と相談して決めると発表されてい た。一つの見識であり納得できるし大衆レベルの向上した現代、仏教の一つの在り方かもしれない。

6.某宮司に聞いたことがある。神道では死んだらどおなるのかと。神道では死んだらみな神になると言う。私が死ねば徳永圀典命−−トクナガクニスケノミコト−−である。なんと素朴で簡素な事か。5年間、毎年命日にお祭りする。5年で終わる。祖霊社という神棚に祭る。仏教のような深遠な哲学もなく払え給え清め給えの繰り返しである。日本に仏教が入る迄の縄文時代からこれであったのだと私は思う。

6世紀、百済の聖明王が日本に仏典、仏像、教典を伝えてから極楽浄土の思想が神式を駆逐してしまったのではないか。総理の神の国発言で騒いだ連中はなんと自分の国の先祖達のした事の本質を知らないのであろうか。
神道では人により法名の差別もなくなんと大らかで平等であろう。神道では死んだらみんな命、即ちミコトとなるのだ。昔から日本武尊も諸々の神々もミコトと言うではないか。日本では、神様とは先祖様の事なのだ。お祭りとは先祖様を祭る事なのだ。神道は自然で素朴且つ敬虔であり平等で人権に適っている。

7.西欧的概念のゴッドと日本の神様は違う。誤訳であり日本人は区別が正確でない。ユダヤ教でもイスラム教でもキリスト教でも唯一絶対神で異教徒に対し歴史的に排他的であり異教徒を殺してもよい時代があった。
今春であったかローマ法王が過去の歴史で異教徒に対する加害を反省していたが2千年目にして漸くの感がある。日本の神様は農耕民族の日本では八百万の神々で、至る処に神を感じ恵みへの感謝と自然への畏敬であろう。キリスト教や仏教のような戒律が無く神道は宗教でないとすら言う人もいる。

8.人生は甘美だ、とはお釈迦様の最後の言葉だ。そして、法を極めよとも。法とは因果の理法の事と私は思う。そこで、霊魂とは心の事だと大胆に仮定すると眼からウロコが落ちる。宗教の本質は一切は心より転ずである。さすれば極楽浄土とはこの世で実現すべき人間の心の状態だと言えるのではないか。

9.死は人間最後の大仕事だ。主役でありながら演出は凡て人まかせだ。主役自認の相応しいカタチがあっていい
のではなかろうか。
         鳥取木鶏クラブ 代表 徳永圀典